第20話 スイセイの原点
【1】
視界は暗いままで何も見えなかったけど、そんなものを消し去るほどの優しい声が俺を包んでいた。だから怖くない、怯える必要はなかった。そんな風にすぐそこにいる姿も見えない人に絶対的な安心を寄せていた。
『もういかなくちゃ』
心の底から安心できる。そう思える暖かい何かが俺の頬に触れて優しく包んだ。
その心地いい手のひらを感じながらこのまま寝てしまおうと思った。
優しくて暖かくて、そして誰よりも優しいそれに、俺は身体を預けてしまおうと寄り掛かった。
今ある全てから逃げ出して、このままがいいと本心から思った。
ずっとこうしていたいと思って、それが一番いい事なんだと思って、俺は背負う筈のものを投げ出そうと──。
『生きて、水成』
なのに心地いい温かみは消えてしまう。優しいそれは何処かに行ってしまう。
なんで行くんだと、どうしてだと俺は嘆いた。
行かないで欲しいと、居なくならないで欲しいと手を伸ばしたかった。
無理やりにでも引き寄せてこのままがいいと叫びたかった。
「行かないで、置いてかないで」
突き動かす物が何か分からなかったけど、本当に嫌だったからそう言った。
心の底からそれが嫌だと……。
ようやく出てきた本心を吐き出した。
だから引き返してくれると思っていたのに、その手は戻ってこない。
俺を置いて何処かに行ってしまう、それだけは絶対に嫌だったから追いかけたくて、駆け出そうとしたのに、前に進む足は俺にはなかった。
無残に転がって地に伏して、何もできず呟いて手を伸ばしていた。
身勝手な理想で俺は手を伸ばしていた。
それをクスリと笑って最後に一度だけ俺の手を取って、
『大丈夫、ずっと一緒だって言ってくれたから』
優しくそう呟いて何処かに行ってしまう。その言葉は知っている、他でもない俺が送った言葉だから誰よりもこの意味を理解している。
俺が送った誓いの言葉でここに居てはいけないヤツに向かって言った言葉で、俺は来させない為に戦っていたんだって思い出した。
そんな事をすればタダでは済まないとずっと覚悟していた、これが嫌だったから俺は戦おうとした。彼女が傷つくのだけは嫌だったから、死なせたくなかったから、悲しんで欲しくなかったから、
「何で! お前はここに来ちゃ──」
目の前の出来事に必死になって、降り募る災厄に振り回されて、何もかもを見失った。
俺が何で戦おうとしたのか、俺がどうして今ここに居るのかを忘れていた。
『いってらっしゃい、言い忘れてたね』
ふざけるなよ、俺のために自分の命なんて削ってんじゃねえよ。
嬉しい気持ちと自分への嫌悪感とで、俺の中はぐちゃぐちゃだ。きっと今泣いてるよ、子供みたいにみっともなく泣いてる。本当に馬鹿みたいだ。
でも今かける言葉は一つしかない。自分の命を捨ててまでやってきた馬鹿に、道標を落っことしてきた大馬鹿野郎が言ってやるよ。
「必ず帰る。だから待っててくれ」
顔は見えず、姿も見えなかった。それでも笑っていると思えたのは嘘じゃない。
【2】
「ディオンか」
目を開けると視界の全ては水に沈んでいた。見える景色は水の中、全てが青色の揺れる世界。その景色の中でたった一人、揺れることのない人が居た。
「伝えておくことがある」
青い髪の毛を靡かせて、騎士の鎧を着込んだ剣士はそう掲げた。
天に剣を向けて胸の位置で固定する。その姿を無言で眺めながら近づき、あるはずのない地面を踏み固めて前に進んだ。ディオンの剣の間合いにまで踏み込んで無防備の状態で立ち尽くした。
「先生は己を偽っていけないと、ゼインは夢を失ってはいけないと、カミラは自分を認める事を知らせたかったようだが代わりを僕が務めよう」
俺が俺でなかったが故に起こった出来事だ。見失って露頭に迷って、それでも前に進もうと足掻いていた奴は何も得ることはなかった。全てを取りこぼして絶望しただけ。
「逃げてもいい、投げ出してもいい。たが決して折れることだけは許されない」
そう言ってディオンは剣を俺の方へ突きつけた。これを受け取れと言っているかのように感じて手で掴むと。ディオンを手を離し、俺は剣の重みを感じながら手に取る。
「そしてスイセイの原点を見て来い、そこがお前の生まれた場所だ」
最後まで騎士らしく言い放つディオンに笑いかけて剣を受け取った。これを受け取るという事が何を意味しているか、考えるより先に感じれた。
「ありがとな」
受け取った剣は俺の身体に入って水のように消えていった。それも水に映る星や月のように、まるで鏡花水月のように。俺の足りなかった部分を埋めていった。
「また会おう、今度はみんなで」
俺の身体は薄らと消えていく、領域から出ている証拠でディオンとの別れの時間。
別れの時間を下向いたまま辛気臭い感じで終わらしたくなかったから叶わない約束を取り付けた。一瞬だけ戸惑った表情をしていたが、
「そんな日が来れば……考えてやる」
心性領域──騎士の鏡
【3】
俺の原点、スイセイという人間の始まりの地はどこにでもある景色からだ。
それは至極真っ当な事だけど、それでも俺はいつからか忘れてしまう。
今の俺がこの景色を覚えていないから事実で。どんなに幸せだとしても俺は覚えていない。
それは忘れようとしたのではない、逃げ出しても無い、忘れたフリをしたのではない、覚えられなかっただけ。その事を思い知りながら夕暮れの公園を眺めた、錆びたベンチに腰掛けて遠くで遊ぶ家族の姿を目に映して。俺は息を吐いた。
「水成! どこにいるの?」
この声を聞くのはいつぶりだろうかと、そんな事を思う以前にこの声を覚えていなかった。声の主の姿を見て、その人物とそこにいる少年の姿を見て、この声が誰なのかを理解した。俺が忘れてしまった光景、俺がもう二度と思い出す事はなかった光景が今ここで映し出されていた。
どんな声かも忘れてしまった母親の姿と、物心つく前で何一つ覚えていない小さな俺。
それは写真でしか見た事のない俺の姿ではあったが、自然とそいつが俺で目の前にいる女性が母親なんだと心で理解できた。
映し出される光景はどこにでもある物で、俺のいた家族の日常を映し出している光景。両親を困らせたくて、かまって欲しくて隠れている水成は笑っていた、この日常が永遠に続くものだと疑う事すら知らなかった俺を見て、今の俺は惨めだと思った。
「ここにいたのね?」
わざと見つかるようにして母親に抱き抱えられる。
たった3歳の水成は母親に抱きついて話をしている。
今日のご飯は何だろうとか、そう言った物を話して聞いている母親も喜んでいた。
普通の家庭で普通の生活、仲のいい家族の光景だ。
俺は母さんの作る料理が好きだった。台所に立つ母さんを見て、その手伝いをして褒められるのが好きだった。頭を撫でてもらえて、ありがとうと呼ばれるのが嬉しかった。
小さな身体で皿を運んで、頑張って背伸びして皿を並べて箸を置いた。「褒めて」と駆け寄ってはまた後でと言われる。そんな母親に頬膨らませて席についた。この時の俺の当たり前で、今の俺が心の底から望んだ光景。
父さんの帰宅を待って、帰ってきたら家族みんなで食事をとる。俺が今日の話をして家族みんなで笑いあう。そんな日常が欲しかった。続いて欲しかった。
「妹ができたらどうする?」
その日は父さんがいきなりそんな事を言ってきた。妹が欲しいと思ったことはない、でも要らないとは思わなかった。
「うーん、嬉しい?」
父さんと母さんの顔色を伺いながらそう言った。俺という人間はこの時からそうだった。相手の気持ちになれるという異常を持っていたが為に両親の意思を口走った。
「そうか」
あまり話さない父さんはそれだけ言って食事に戻った。
一瞬だけ笑ったような気がしていたのに、当時の俺は気づかなかった。
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