016 魄楊の守護者
神秘的な光景の中核を成している幹が十数mは有りそうな大樹が魄楊だとルートコンダクターは示している。
月明かり降り注ぐ霧の中に佇む魄楊の枝は地面に程近い位置から半球状に広がり、その合間には葉の代わりに熱帯魚のようにカラフルな小魚たちが気ままに泳ぎ回っていた。
どうやらここは彼らの住処らしい。
私は小魚たちを刺激しないように、手折ることもはばかられる穢れを感じさせない純白の枝先へ、そろりと手を伸ばす。
魄楊のほんの一欠片でも手元にあれば複写で増やせる。
小魚たちの楽園を侵さぬように、ちょこりと新たに伸び始めたばかりの枝に手を掛け、鉱石めいた質感のそれを採取した。
添付リストに『魄楊の枝先』が追加されたのを確認し、すぐさま新規メールに添付して保護した。
直後、白色の薄い膜が魄楊全体をドーム状に覆い隠す。
それと同時に『フリージングフィールド』『フローズンシェル』『冷気』『凍結』といったものが添付されたメールが送り付けられた。
慌てて手を引っ込め、何事かと辺りを見回すと魄楊の脇に転がっていた岩のような影が動き出した。
濃い霧と白い膜で阻まれて、はっきりとは視認出来ないけれど、それは私へと迫って来ているようだった。
これは考えるまでもなく、縄張りを荒らした私を排除しようとここのヌシが動き出したのだと本能的に感じ取り、ピリピリとした威圧感を浴びた全身の肌は総毛だった。
私は即座に送り付けられてきたばかりのメールに添付されていたものを全て除去に登録しながら踵を返し、ルートコンダクターのナビゲートに従って来た道を戻るように駆け出す。
約500mの距離を全力疾走する。
駆けながら宛先リストにハーミットクラブというものがいつの間にか増えていたので、これがヌシの名前だろうと察した私は『気絶』などを添付した自己防衛用メールを即送信した。
少しでも時間を稼いで樹々の乱立する森の中へと入れば、他の魚のように空中を泳ぐ様子のもなく地面を這っているヌシはまともに追って来れなくなるはず。
あと数秒で森の中へと逃げ込める。
そう考えた矢先のことだった。
朧げに見えていた樹々の影が、その密度を増した。
霧に阻まれていたものが距離が近付いたことで森の奥まで視認出来るようになったという感じではなかった。
よく目を凝らしたことでわかったが、樹々と見紛うばかりの太さをした柱がにょきにょきと地面から物凄い勢いで生えて来ていたのである。
柱は私をこの広場から逃がさないとばかりに隙間を埋めていく。
やがて私が森との境界にたどり着く頃には、地面から生えた柱によってすっかり広場に閉じ込められてしまっていた。
柱からはゆらゆらと冷気が漂っており、手で触れるとそれは氷であるとわかった。
柱に触れた際に『フロストピラー』と『氷』が添付されたメールが届いていたので、そのふたつを除去に登録して氷の柱を排除出来ないかと試みたけれど、触れている部分がわずかに消えては時間を巻き戻すようにして私の手が押し戻されてしまい大した効果は得られなかった。
そればかりか私を押し除けるように足元から新たな柱が高速で伸び上がり、盛大に背後へと吹き飛ばした。
勢いよく地面に叩きつけられ、体勢を崩していてすぐには立ち上がれずにいると、氷を踏み割るような音とともに重量感のあるものがすぐそこまで迫って来ていた。
地面はいつの間にか薄い氷で覆われていて、除去に『氷』を登録していなければ滑ってまともに立ち上がることも出来なくなっていたかもしれない。
その氷に触れた際に新たに『アイスサークル』といったものが添付されたメールが届いていたので、それが地面を覆う氷の正体だとわかった。
除去に登録しても次から次に違う添付ファイルが送り付けられる状況に置かれ、ネブリーナ大森林には魔法を使う魔獣がいるとアルフレードが言っていたのを思い出す。
立ち上がり、迫る音から離れるように駆け出しながらどうすべきか考える。
最初に送信したメールはとっくに届いていてもいいはずなのにヌシは動きを止める気配すらない。
ヌシも私と同じで『気絶』などを受け付けなくなるスキルを持ってたりするんだろうか。
それともヌシだと判断して送信した先が、私を追って来ている相手とは違うって可能性も考えたけれど、それに関してはルートコンダクターによって否定された。
ここを脱出するには私がヌシだと判断したハーミットクラブを対処しろと提示されたのである。
対処しろと提示はされても、その方法までは示されず困ってしまう。
とりあえず気絶しない原因だけでもわからないかとヌシ相手に『鑑定』メールを飛ばす。
十数秒と待たずに返送されて来た鑑定メールをチェックする。
ヌシのスキルの項目には『魔導の心得』と記載されていた。
しかもスキルランクは4と思っていた以上に高かった。
ただ私が想定していた気絶を無効化するようなスキルではなかったことに困惑を覚えたけれど、メールと同じで魔法でいろいろと出来るのだろうと考え直した。
それなら『気絶』以外の足止めに使えそうなファイルを片っ端から送り付けてやろうと走りながら新規メールを用意していると進路を塞ぐように眼前に巨大な氷柱が突き立った。
思わず足を止め、別の方向に足を踏み出そうするとそちらにも氷柱が突き立ち妨害されてしまった。
逃げ場を失った私は、ずしずしと迫る音を耳にしながら音源へと目を向け、氷柱に背中全体を押し付けてどうにか『氷』の除去でそれを排除しようと試みる。
氷柱は森との境界を阻む『フロストピラー』と違って押し戻されるような感覚はなかった。
ただ除去に登録している『氷』だけでは不十分らしく、消失速度は遅い。
それならと氷柱に触れた瞬間に届いたメールに添付されていた『アイシクル』も追加で除去に登録すると少し氷柱が消失する速度は速まった。
だけれど私の苦し紛れの行動を完遂するのを待ってくれるほど相手も生温くはない。
霧の中で黒い岩としか見えていなかったヌシの全容が私の目に入る。
それはナイトハウンドよりもひと回り以上大きなヤドカリだった。