001 異世界転移の権利者に当選しました。
『異世界に行ってみませんか?』
バイトを上がり、帰宅途中で受信したスパムメールの文面に苦笑する。
今はSNSやチャットアプリでのやりとりが主流だから携帯のメールなんて使う人ほとんど居ないだろうにね。
こういうくだらないメールが届くのを良しとして、わざとフィルタリングしてない私も私なのかもしれないけどさ。
今までいろんなスパムメールが来たけど、ここまでひとを騙す気があるのかと問いたくなるような内容は久しぶりだった。
ひと通り流し読みする。怪しげなURLや不規則な文字列が記されていることもなく、謎のファイルが添付されているようなこともない。
返信することで次のメールが返送されてくるタイプなのかな。
スクロールさせて改めて本文を読み直す。
どうやらバカバカしいバイトの斡旋らしく、異世界に行って過ごすだけで毎日現地の貨幣換算で3万円前後のバイト代が支払われるといったものだった。
24時間仕事場に拘束されてるようなものだとしたら時給1250円くらい。
私がやっているバイトとそんなに変わらない時給みたい。
行けるものなら行ってみたいよね、前々から誰も知らないどこか遠くに行ってみたいと思ってたしさ。
これが本当なら家出する気力もない私には願ってもない申し出だよ。
下手に家出したところで、自分の身を売ることになったりするような頭の悪い目に遭うのはバカらしいからね。
家族は悪人ではないし、世間的に言えば善人なのかもしれないけど私にしたら碌な人間ではなく、一刻も早くおさらばしたいくらいだからさ。
成人して就職するまでは子供として演じるのが一番面倒が少ないので今の状況に甘んじているだけなんだし、それまでは従順に飼育されているつもりだけれど、どうしても考えてしまう。
今すぐにでも行方不明になりたい。
正直、私はなにがしたいのかわからない。
真面目な良い子として面倒を被らないよう立ち回って来た。
夢なんてないし、やりたいこともない。
ただただ無難に生き続け、今の環境を脱出したいという一心だけが胸の内に燻っている。
思春期にありがちなことなのかもだし、ガキなんだろなって思うけど、この衝動を抑えるのは一生無理な気がする。
両親とおさらばして、ひとり暮らしを始めたら忙しいからと適当な理由を付けて帰省することもなくなるような予感というか確信があった。
そんな不毛な物思いに耽りながら薄暗く人通りのない路地を歩いているとスマホが新たな通知を知らせる。
暗がりの中で明々と光るスマホの画面には、ついさっき受け取ったばかりのスパムメールの続きらしきものを受信されていた。
『おめでとうございます。あなたは異世界転移の対象者に選ばれました』
明らかな詐欺メールの文面にため息が出る。
もう少しひねった内容で笑わせてくれるくらいしてもいいのにな。
なんて思いながらメールに既読を付けると画面にポップアップが表示された。
今までにはなかった現象に未読のままゴミ箱に捨てるべきだったかと焦る。
ポップアップには『OKをタップして権利を承認してください。辞退される場合は別の方に権利が移行します!』の一文の下に『OK』と『キャンセル』のボタンが並んでいた。
こういうのってどっちを押しても良くないことが起こるとしか思えなかったので、いったんスマホの電源を切って再起動しようと電源ボタンを長押しする。
でもスマホの電源が切れず、困惑した。
音量ボタンやホームボタンを押してみたり、ポップアップに触れないように画面に触れて操作してみたけれどスマホは一切の操作を受け付けなかった。
思わず息を呑む。
バカらしいのはわかり切ってる。
それでも目の前の不可思議な出来事に惹かれるものがあった。
明滅する街灯の下に佇む。
数分前に離れた大通りを走る自動車のエンジン音が妙に耳に付く。
無意識に浅くなっていた呼吸を完全に閉ざす。
ごくりと唾を飲み込み意を決した私は、ゆっくりとした動きで指を画面に近付け、そっと『OK』ボタンをタップした。
瞬間、周囲の景色が溶けたチョコレートのようにどろりとしたものになり、形を失っていく。
奇妙な変貌をする景色の中で私自身は、下降するエレベーターに乗ったときに感じる軽い浮遊感とともに立ちくらみと似た頭から血の気が引くようなめまいを覚えた。
それも瞬く合間に途絶え、やがて周囲の景色は輪郭を取り戻した。
しかし、私が居たのはさっきまで立ちつくしていた薄暗い路地ではなく、鬱蒼と生茂る真っ暗な森の中だった。
遠くから犬の遠吠えのようなものが聞こえ、虫の鳴き声やフクロウの鳴き声のようなものも方々から届く。
さらには住宅街とは思えない湿った空気に混じった草木のにおいが、目の前の景色が幻覚ではなく現実なのだと補強する。
呆気にとられていると脳裏に着信音が響く。
慌てて手の中にあるはずのスマホに目を向けようとしたけれど、さっきまであったはずのスマホは陰も形もなかった。
だとしたらどこから着信音が鳴ったのかと制服のポケットや手提鞄を手早くあさってみたけれど見つかることはなかった。
その代わりに私の眼前に半透明のウィンドウが浮かび上がった。