66話 【呼び出し手】と迫り来る気配
源竜渓谷でお世話になって、一週間と少しが経過した。
この渓谷の気候は暖かく穏やかで、特に大滝の周囲は水しぶきで少し涼やかでもあり、昼寝にはもってこいだった。
十分美味しい食事も堪能し、渓谷の観光もいよいよ大詰めかもしれない。
……そう感じていた、ある日のこと。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。お父さんがね、少し早めに帰った方がいいかもって昨日言ってたの」
木陰のある泉に浮いていると、同じく横で浮いていたローアがそう切り出した。
「……んっ、竜王さまが?」
「うん。この前来た銀龍とずーっとお話ししていたんだけど、昨日いきなりそう言われちゃって。……お父さん、とって難しそうな顔をしていたから、もしかしたら何か起こるのかも」
「銀龍もきな臭いとかって言っていたしな……。でもローア、帰ってもいいのか? 渓谷に何かあるかもって時だし、少し心配だろ?」
聞くと、ローアは困った表情になった。
「それは心配だけど、でもお客さんとして連れてきたお兄ちゃんたちが危ない目にあっても困っちゃうもん。だから……」
俺たちの安全を取るか、故郷に残って問題を解決していくか……ローアが迷っているのはよく分かった。
そんなローアの肩を押すように、即答した。
「ローア、俺たちのことを心配してくれるのは嬉しい。でもここはローアの故郷で、両親やお姉さんたちだっている。だったらきっと、力になってあげた方がいい。ローアがあとで、後悔しないって意味でも」
「お兄ちゃん……」
我ながら珍しく殊勝なことを言っている自覚はあるが、しかしそれが本音だった。
……自分は親も早くに亡くして、故郷にも帰れない身だ。
だからこそ、肉親や故郷を守れるうちは力になった方がいいと、そう思うのだ。
「それに俺たちも、この渓谷には一宿一飯どころかそれ以上によくしてもらった恩がある。今の話を聞けば、俺もこの渓谷の力になりたいって思うし、皆だってそう言うはずだ」
そう言ってやると、ローアはしばらく考え込んでから、迷いを振り払うように大きく頷いた。
「……分かった! それならわたし、お父さんに何が起こっているか聞いてみる。それでお兄ちゃんたちも助けてくれるって、伝えてみるね」
「ああ。そうしてくれると……っ!?」
ローアと話していた最中、突然目眩に襲われた。
風景が……否、一瞬空間そのものが歪んだような。
その後では、冷や汗がどっと吹き出してきた。
それに渓谷の西側……もしくはもっと先で、何かとんでもない気配があった。
魔力が重く、その空間だけ落ち窪んで地が抜けているかのような……計り知れない不気味さがあった。
ローアも同じものを感じ取ったようで、不安げな表情でそちらを見ていた。
「い、今のは……?」
「ともかく、皆と合流しよう。話はそれからだ」
俺はローアを連れて泉を出て、すぐに皆の元へ向かった。
服などを整えて竜ノ宮の前に来た時には、既に成体のドラゴンたちがいくらか集結している頃だった。
「【呼び出し手】さん、ローア!」
「マイラ、それに皆も揃っててよかった」
全員考えることは同じだったようで、我が家の神獣たちも全員集まっていた。
これからどうすべきか、皆で相談しなければ。
……口を開きかけたその時、竜ノ宮の上空に巨大な影が現れた。
見上げればそれは、確かに銀龍のものだったが……。
「しっ、師匠……!?」
クズノハが漏らした悲鳴に近い声音と同時、俺は目を見開くこととなった。
銀龍の美しい鱗は、各所が剥がれ落ちて血が滴っている。
異名の元となった虹の天輪も薄れ、人間で言うところの、肩で息をしている状態となっていた。
銀龍は切れ切れと、それでも覇気の篭った声音で、ゆっくりと言った。
「かような見苦しい姿ですまないが、ことは一刻を争う。単刀直入に言うので、心して聞け。……この渓谷に、【魔神】率いる悪魔の軍勢が迫っている。力ある者は渓谷の西方面に集結し、これの撃退にあたるべし」
「なっ……【魔神】!?」
となれば大方、さっきの尋常ならざる超魔力の気配は【魔神】のものか。
そして銀龍はその【魔神】と、そいつが率いていた軍勢に手傷を負わされたのだろう。
……逆に初代【呼び出し手】と共に戦い抜いた猛者をここまで追い詰められるのは、【魔神】以外に考えられない。
「し、師匠! しかしまずは降りてきて、手当てを!!」
「……ならん」
クズノハの焦りを孕んだ言葉に、銀龍は重々しく答えた。
「今はこの渓谷の有事。このような老骨に治癒を施す魔力があるなら、もっと有効に使うがいい。特に【呼び出し手】に仕える身ならば、今やるべきことは一つ。……分かっておろう?」
「そ、それは……」
クズノハは迷いのある瞳で、こちらを見てきた。
……今やるべきこと、それは俺もクズノハも分かっている。
銀龍に手傷を負わせるほどの【魔神】がこの渓谷に入り込めば、一体どうなることか。
……以前見た、アスモディルスに壊滅させられた集落の風景が頭をよぎった。
けれどクズノハの、友人の師匠をこのままにしておくわけにも……!
「迷うな、若人よ」
「……!」
力強いその言葉に、俯き悩んでいた頭を上げた。
銀龍はこちらの心の内を鋭い瞳で見抜いたかのように、はっきりと告げた。
「今、我らのなすべきは【魔神】討伐。それは貴殿も分かっているだろうし、覚悟も既に固まっていると見える。……かつての我が主もそうだった。この渓谷を、友の故郷や仲間を守るべく、【魔神】に最後の戦いを挑みに向かったのをよく覚えておる」
銀龍は懐かしむように、もしくはどこか憂いを帯びたように、一度目を閉じた。
けれどその後には再び瞳の輝きを強く鋭くして、俺を見据えた。
「貴殿の目は、かつての我が主と同じ目をしておる。それに今逃げよと言ったところで、どうせ相棒の故郷を、この場所を放ってはおけぬのだろう?」
当然だ、といった思いで頷いた。
ここはローアの生まれ故郷で、ローアの帰る場所でもある。
それに世話になった場所を置いて逃げ出すほど、恩知らずでもありたくない。
今はローアの故郷を守るために力を貸す……それが人情というもので、自分が今なすべきことなのだ。
「では行け、若き【呼び出し手】よ。竜王の奴は気を遣って貴殿を帰したがるだろうが、その件についてはワシから話を通しておこう。奴は今、竜ノ宮の深くで大竜巻の強化を急いているようだからな」
「……分かりました。そちらも気をつけて!」
銀龍へそう言うと、ローアは光を纏ってドラゴンの姿に戻った。
その赤い瞳には、覚悟の炎が強く宿っているように思えた。
「乗り手のお兄ちゃんが行くなら、当然わたしも行くよ。ここはわたしの故郷なんだから、わたしも頑張らなくっちゃね!」
「ああ、頼むぞローア!」
ローアに飛び乗ると、フィアナとリーサリナもそれぞれ神獣の姿に戻った。
そしてクズノハは、やれやれとため息をついた。
「全く……師匠もああ言っておるので、今は【魔神】討伐に注力しよう。早く戻って師匠を治癒するためにも、全力を尽くして【魔神】を叩き伏せてくれる!」
「わたしたちも、ローアさんの故郷を守るための力になります!」
そう力強く言い、翼を広げたリーサリナ。
直接一緒に【魔神】と戦うのはこれで初めてだけれど、頼もしい限りだ。
そしてローアやフィアナ、リーサリナのような飛行可能な神獣が、俺に加えて人間の姿のマイラとクズノハを乗せて羽ばたくと、直下のドラゴンたちから咆哮が上がった。
「末の姫さまが出陣なさる! 皆の者、露払いをせよ!」
セイナーシスの咆哮を皮切りに、他のドラゴンたちも呼応していく。
「我々の住処を侵す【魔神】を、かつての大戦のように退けよ!」
「竜種の誇りを今こそ示さん!」
「若い者は渓谷と子供の守りに回せ! 他の者は総出で姫さまと【呼び出し手】殿の援護に向かえ!」
素早い連携によって、次々に飛び立つドラゴンたち。
背後を見れば、いつの間にか百体以上の成体のドラゴンたちがいくつもの編隊を組み、大竜巻から出ようと羽ばたいていた。
「あれだけの数のが揃うと、圧巻だな……!」
「ドラゴンはそれぞれ縄張りを作るから、ああして固まることって少ないから。多分、大昔に【魔神】と戦った時以来じゃないかなーって」
ローアはあっけらかんと言ったが、こちらは胸が熱くなる思いだった。
かつて【魔神】の進行を退けたドラゴンの群れと同じ規模の戦力が助力してくれるのなら、相手が何であれ臆することはない。
ここまでくれば、後は自らと皆の力を信じて突き進むのみ。
……そして脳裏に思い浮かんだのは、あの青年の言葉。
近々「大きな壁にぶち当たる」と言っていたが……なるほど。
【魔神】が相手となれば、これほど大きな壁はない。
けれど、超えてみせる。
彼の託してくれた技術と思い、そして神獣たちの力を結集して──
「──必ず、最後の【魔神】を倒す!」
「うんうん、ご主人さまもそういう台詞が様になってきたねー!」
「……フィアナ、今の茶化すところじゃないかも」
普段通りなローアとフィアナの会話に、少しだけ頬が緩んだ。
けれどお陰で、余計な緊張もほぐれていく思いだった。
そうして準備万端となったところで、俺たちは渓谷を守る大竜巻から外へと出た。




