ヒッグス粒子
光速は操れる。
これも生命体の正義。
生命体の自由意志には、何も逆らえない。
これからもずっと……。
廊下に靴音が二組、響いた。京香と裕嵩だった。隣には立体映像で移動するロー。新たなスペース・デブリが観測されたのだ。それにより、3人は出国ターミナルへと向かっていた。
「今回のスペース・デブリはヒッグス粒子です」
「え!?」
裕嵩は声に出して驚いた。こんなに重大な不法投棄は初めてだったのだ。
ヒッグス粒子。それは素粒子に質量を与える粒子である。それらは空間に充満しており、それらの粒子にぶつかることにより、素粒子は質量をもつ。
基本、質量がなければ素粒子は光速で移動する。しかし、それが出来ないのはこの粒子の存在のせいである。
「大丈夫かな?」
「え?」
京香は裕嵩の方へ振り返る。
「ヒッグス粒子は光速に影響する。ということは、現在までの宇宙観測の結果が無効になってしまうのでは?」
「確かに、それはありそうね」
京香は彼に同調した。
ヒッグス粒子の濃度が濃くなるということは、光子の進む速度に変化をもたらすかもしれない。要するに、光速が遅くなってしまったかもしれないということだ。
それにより、宇宙観測の結果が変わり、無効になるのだ。
「前方は? いつ?」
京香はローに尋ねた。
「宇宙の晴れ上がり直後です」
「え!?」
――そんなこと。
京香は驚いた。初期の宇宙は高温高圧。それにより、光である光子は直進出来ずにいた。しかし、宇宙の晴れ上がりという状態になると、それまで光子の直進を妨げていた電子、陽子などが原子を形成し、光子が長距離を進めるようになったのだ。
要するに、宇宙の晴れ上がりの時期ということは、まだ宇宙は高温高圧ということだったのだ。
――業者はどうやって?
裕嵩は考え込んだ。
「ワームホールを利用したのでは?」
京香がローへ尋ねた。
「えぇ、データではそうなっております」
どうやら、過去へは遡らずワームホールを使い、現代から直接、不法投棄物を捨てたのだった。
「それでは、どこからのワームホールか分かりますか?」
「はい、リブラ支部の第5地区です」
京香からの問いに、ローは淡々と答える。
「え? リブラ支部!? それがアンドロメダ支部まで広がってきているというの!?」
京香は珍しく声に出して驚いた。
「はい。デブリ・アドベントから約1年経過しているので、普段のスペース・デブリより広範囲に広がってしまったのでしょう」
「そうですか」
京香は眉間にしわをよせた。
「それでは、回収は困難なのでは?」
「えぇ、そうなります。スペース・デブリは薄く、広範囲。それにより、ほかの支部でもスペース・デブリと判断しているエリアがあります」
「これから、複数の支部が合同捜査となるわけですね」
「はい」
「主任を務める支部は?」
「リブラ支部です。一番最初に観測された支部ですので」
「分かったわ。行きましょう」
「はい」
京香と裕嵩の二人は、リブラ支部へ向かった。
リブラ支部。ここは大都市。エリダヌス本部、オリオン支部に次ぐ巨大な出入国ターミナルをもっていた。京香と裕嵩は、入国ターミナルを通り過ぎると、対策本部へと向かった。
扉が開くと、そこには各支部2名ずつ空間管理課の担当者がいた。エリダヌス本部、オリオン支部、リブラ支部、ペガスス支部、そしてヘルクレス支部の5支部だ。そこへアンドロメダ支部が加わる。
「初めまして。エリダヌス本部担当のト・ブッュです」
「同じく、ヨージ・キーソンです」
二人はそれぞれ京香と裕嵩の二人と握手をした。
「今回主任を務めます。リブラ支部のビット・ジンソンです」
「私はレイラ・ウォヌースです。よろしくお願いします」
京香と裕嵩は残りの支部とも挨拶を交わした。
「それでは、確認を始めます」
リブラ支部の担当人工知能リイが姿を現した。
「今回のスペース・デブリはヒッグス粒子です。それにより、回収はレベル4操作研究所の協力が必要です。しかし、被害エリアは広範囲に広がっており、濃度も薄い。それにより、回収は困難であると思っていて下さい」
皆は立体映像の確認ボタンをタップしていく。
「次に業者の確保ですが、不法投棄後とのことです。今回は記憶の他に、光子による宇宙観測のデータまでも混乱に巻き込まれる可能性があるということになり、上層部はそう判断しました」
再び、タップ。
「スペース・デブリ回収はエリダヌス本部、オリオン支部、リブラ支部。不法投棄業者の確保はペガスス支部、ヘルクレス支部、アンドロメダ支部の振り分けです」
確認ボタンがタップされた。
「全確認ボタンがタップされたので、確認を終了します」
リイは立体映像を収納していった。
「それでは、私たちリブラ支部の2名は、レベル4操作研究所への協力要請のための書類を作成します。エリダヌス本部とオリオン支部の方々は、後方での証拠集めをして下さい」
「はい」
4名はそれぞれ確認をした。
一方、業者確保班もそれぞれ確認をしていた。
「私たちペガスス支部は第1シャトルへ乗り込みます」
「では、アンドロメダ支部の方々は、第2シャトルをお願いします。ヘルクレス支部は一番後方の第3シャトルで、業者が逃亡した場合のため待機します」
「はい。分かりました」
確認作業が終わった。
それぞれの支部は自身の役割のため、散らばっていった。
スペース・シャトル搭乗口。そこで3支部は最後の打ち合わせをした。
「ペガスス支部の第1シャトルには、機械の先行班6名」
「はい。アンドロメダ支部の第2シャトルには、10名」
「第3シャトルには、先行班2名、鑑識班5名です」
「分かりました。では行きましょう」
「はい」
各支部の担当者は2名ずつ、シャトルに乗り込んだ。
スペース・シャトルは、漆黒の真空を進む。ワープ・エリアを通過したら、あとは5分で現場へたどり着く。今回は前方へは行かず、業者が不法投棄するために開いたワームホールがある1年前へ移動する。
5.4.3.2.1.0…
現場へ着いた。スペース・シャトルに内蔵されている観測機による観測の結果、業者によるワームホールはもう既に開いていた。
――ここだわ。
京香は気を引き締める。ここから先は、ペガスス支部との合同突入である。
『アンドロメダ支部、準備は?』
音声連絡が入った。
「大丈夫です。投棄終了と同時に突入します」
『分かりました。待機します』
連絡は切られた。
彼らはしばし待った。スペース・デブリの投棄終了まで。
終了の電子音が少し長めに鳴った。
『行きましょう』
「はい」
京香は通信を切ると、裕嵩と共に小型機へ乗り込み、スペース・タンカーへと出発した。小型機は一直線に進む。
多少の衝撃音と共に、小型機がスペース・タンカーの外壁にたどり着く。レーザーで切断された外壁は、いつものように空気圧で中へと吹き飛ばされる。
先行班は合わせて16名。必ず、制圧できる人数である。万が一のためにヘルクレス支部が待機をしているがきっと大丈夫だろう。
京香は閉まる余地もない防火壁をよそに廊下を突き進む。なぜか、レーザーによる攻撃もなかった。
京香は足を止めてしまった。
――おかしい。
「京香?」
裕嵩は京香の名を呼んだ。すると。
急に背後の防火壁が閉まった。
――え? どうして?
すると、前方の防火壁も降りた。
――しまった。閉じ込められた。
「裕嵩、ごめん」
京香は自身が足を止めてしまったせいでこうなったことを謝ると、即座に装備銃を取り出した。そして、パワーをレーザーに合わせた。
少し銃がうなる。すると。
京香は銃を防火壁に向け、2度レーザーを照射した。防火壁は溶解し、崩壊した。
「裕嵩、行こう」
京香は裕嵩の服の袖を思いっきり掴み、走り出した。
「えっ、ちょっ……」
前方に見える防火壁が再び、閉じようとしていた。
――間に合って!!
その時、先行班の一人が防火壁の下へ潜り込んできた。防火壁の閉鎖を食い止めるためだ。
「ありがとう」
京香は彼に礼を言って、潜り抜けた。裕嵩もだ。左へ曲がり、制御室まで防火壁はあとひとつ。が、しかし。
――閉まってる。
京香はもう一度、銃を向ける。
2回の照射で防火壁は崩壊した。すると、その向こうに制御室の扉が見えた。
「あ!」
裕嵩は思わず声を上げた。そこには、ペガスス支部の二人がもう既に突入し、制圧したあとだった。
しかし、赤い飛沫血痕が飛んだ。
それは京香の背後からだった。
「裕嵩?」
京香は振り向いた。そこには、左肩をレーザーで打ち抜かれた裕嵩がいた。
「裕嵩!?」
――一体、どこから!?
京香は周りを見渡す。すると、壁に埋め込まれた監視カメラが目に入った。
――まさか、まだ制御室に何かが!?
京香は制御室の方へ振り返る。ペガスス支部の担当二人がこちらへ向かって来ていた。京香は気が気ではない。
――制御室は制圧されているはず。
「待って!!」
京香はペガスス支部二人の動きを静止させようとした。
「制御室の人工知能を確かめて!!」
「え?」
彼はフリーズする。
「まだ、完全に制圧されてない!! 人工知能が混乱している、早く」
「分かった、行くぞ」
「はい」
ペガスス支部の二人は制御室へ走り込んでいった。
数秒後、廊下の照明が落ちた。人工知能がダウンしたのだった。
後方、リブラ支部。
裕嵩はアンドロメダ支部へは戻らずに、そこで治療を受けていた。京香はその治療室の前で、長椅子に座り待っていた。
扉が開いた。裕嵩と目が合う。京香は立ち上がり、少し寄った。
「大丈夫だった?」
「うん」
裕嵩は京香を心配させぬように笑顔で頷いた。
「良かった……」
京香は安心した様だった。しかし、彼女の視線から外れたあと、裕嵩の表情に苦笑が混ざった。
――また、足を引っ張ってしまった……。
裕嵩は歩き出す京香の後ろをついて行った。
「回収班は今、どの状態なのでしょうか?」
裕嵩は歩きながら、尋ねた。
「体制が整っているといいのだけけれど」
「そうだね」
裕嵩は血の付いたネクタイとカッターシャツを少し気にした。すると。
「着替え、アンドロメア支部へ置いてきちゃっているよね?」
京香はそれに気付いた。
「う、うん。実は」
京香は振り返り、尋ねて来た。それに裕嵩はいきなりすぎて少し戸惑った。
「洗剤、借りて来よう。このままじゃ、他の支部が驚く」
「うん。お願い」
「待ってて。もらってくる」
京香は走り出した。裕嵩はその後姿を見ていた。
――どうして僕は彼女の後ろなんだろう。
彼は弱い自分にいら立ちが、悔しさがつのっていった。
「裕嵩ー……。お待たせ」
京香が10分で戻って来た。
「洗面台貸してくれるって。行こう」
京香は裕嵩の服の袖を軽くつまんだ。そして、走り出す。
「こっち」
「うん」
裕嵩も駆け出す。
彼は思い出した。ずっと過去からこんな風に守られていたことを。弱くても遅くても、ずっと一緒にいてくれたことを。
洗面台は黒い光沢の素材でできていた。
「はい。服貸して」
京香は裕嵩の服を引っ張る。
「一人で大丈夫だから……」
「出来るの?」
「家事はいつも一人でしてるし……」
「そっか、じゃ外で待ってる」
京香は洗面台のある部屋から出て行った。
「なるべく早くね」
彼女は扉の隙間から笑顔を見せると、そのまま扉を閉めた。
「……」
裕嵩は無言で急いだ。
「お待たせしました」
京香と裕嵩はリブラ支部の会議室へ戻って来た。
「おかえりなさい」
リブラ支部の担当リイが姿をそのままに立体映像ごと移動して来た。
「レベル4操作研究所の協力体制は整いました」
京香は安心した。
「しかし、少し時間がかかっております」
「えぇ」
「業者は確保されたのでしょう?」
リイは尋ねる。
「はい。既に警察へ引き渡し済みです」
「分かりました。本部の皆さんへ報告しておきます」
リイは二人に会釈をして、去っていった。
「あとはここで待機かな?」
「そうだね」
京香と裕嵩は去っていくリイを見ていた。
1時間、2時間。まだまだ時間は過ぎていく。
5時間、まだ回収は完了しない。
「こんなにかかるなんて」
裕嵩はデジタル時計を見た。
「そうね」
京香もそちらを見た。
「大変です」
リイが立体映像で現れた。
「どうしたのですか?」
京香が彼女へ尋ねる。
「スペース・デブリの濃度がまったく下がらないのです」
「え!」
裕嵩は声に出して驚く。
「どうしてなのですか?」
京香は慌てて尋ねた。
「ワームホールが開いたままなのです。そこからずっと漏れ出している状況です」
「場所は?」
京香の表情は真剣になっていく。
「それが、特定できていないのです」
「それはなぜ?」
「幾重にも転送されているからだ」
「え?」
京香は声のする方へ振り向いた。そこには回収班へと振り分けられたリブラ支部のビッド・ジンソンがいた。
「私が説明する」
「はい」
リイは立体映像を横へスライドさせた。
「警察のサイバー対策課が特定を急いでいるが、まだ判明していない。あとは、その転送先は過去ではない。現在だ。現在進行でスペース・デブリが不法投棄され続けている」
「……」
京香は真剣に聞いていた。
「スペース・デブリの回収は私たちが引き続き続ける。真犯人の逮捕は警察省が直接行うそうだ。だから、君たちは待機をしていてくれないか? 回収に時間がかかってしまって悪いのだが……」
「分かりました。待機します。何かお手伝いできることがあったら、ここにいますので」
京香は頼もしく答えた。
「あぁ、よろしく頼む」
「はい」
ビッド・ジンソンは京香の返事を聞くと、立ち去っていった。
それから、時間はまた5時間過ぎた。会議室の中は沈黙が流れていた。
右端の方にペガスス支部、中央付近にヘルクレス支部の2名がそれぞれいる。アンドロメダ支部は左端、扉付近だ。
「まだですね」
裕嵩はデジタル時計を何回も見ていた。まだ、連絡は来ない。サイバー対策課が犯人を特定できたかどうかも、伝わってこなかった。
すると、そんな中、リイが現れた。
「皆さん、お疲れ様です」
リイの表情に少し安堵を感じ取れた。
「警察省から報告です。真犯人を確保・逮捕したそうです」
「誰だったのですか!?」
ペガスス支部の一人が席を立ち、身を乗り出した。
「レベル4操作研究所の研究員でした」
「研究員!? 動機は!?」
彼の声が少し大きくなった。
「動機は実験。だったそうです」
「実験!? こんな無駄なことを!?」
彼はいら立ちを隠せないでいた。
「彼にとっては、無駄ではなかったのでしょう」
ペガスス支部のもう一人も席から立ちあがっていた。
「えぇ、その通りです。想像していた通り、過去1年分の観測結果は無効になりました。信用性が薄くなってしまったので」
「そうですか」
京香の隣、ヘルクレス支部の二人も肩を落とした。
「おかえり……」
小さな声が聞こえた。
「え?」
京香は振り返る。すると、そこには小御湯景子の姿があった。
「え!? どうして!? 確か」
京香はそこまで言って、口をつぐんだ。
「ごめんなさい。初めまして、深黒京香と申します」
京香は手を差し出した。
「ありがとう。あなたのことは、過去の資料から知りました」
小御湯景子は京香と握手をした。
「また、会えてうれしいです」
裕嵩はすぐ後ろからその光景を見ていた。
――あの二人は、一期一会ではなかったようだ。
彼は安堵して、涙をためた。彼女の代わりに。
この宇宙には、一期一会もできないほど空間が、生命体がいる。
だけど、会いたいという気持ちは、一緒にいたいという気持ちは、
量子もつれよりも、確実に伝わる。