03
――カラン、カラン。
来客を告げる鐘が鳴る。扉を開けた人物の心境を現すかのように控えめに響く音に、店の中心にある棚で作業をしていた男が面を上げた。
「いらっしゃいませ。」
「……こんにちは。」
男が顔を上げた時、短く整えられた茶色の前髪がさらっと揺れた。夜を溶かしたような濃い紺色のエプロンの下から覗く、白いシャツと黒いパンツ。一見、何でもない普通の格好でも、すらりと伸びる長身の彼にはよく似合っていた。まだあどけなさが浮かぶ顔立ちは利発そうだが、至って平凡。だのに、目を細めて薄い唇に笑みを浮かべる様子は、美形ではないのに妙に惹きつけられる。
リリーは、頬にほんのり熱を帯びるのを感じつつも無理やり男から目を離し、店内をぐるりと見やる。扉を開けた時から、自分が追いかけてきた香りが店内に広がっていたのだ。目の端では、男が何事もなかったかのように棚での作業を再開していた。その様子に一つ息を吐き、香りの出処を探る。
大小ある棚には、これまた様々な形の小瓶が並び、薄い光を受けて反射していた。中に入っている液体は、薄紫色、薄赤色、薄黄緑色、水色と色彩豊かで、見ている者を飽きさせない。リリーの目が僅かに見開かれ、その瞳はキラキラと輝きを増す。女の子はいくつになってもキレイなものが好きなのだ。リリーは、肩からほっと力が抜けるのを感じた。店の奥には石鹸やポプリが置かれ、手に取られるのを今か今かと待っているよう。さらについっと視線を動かせば、窓際には丸机があり、対に座れるよう椅子が二脚置かれていた。店の業種にしては格式高さを感じさせない、人の温もりに溢れた店だと思った。
(ここは香水店なのね。……でも、)
「こんな街の外れにこんな店があるなんて、驚きだわ。」
香水店は主に上流階級を相手取る商いだ。城下町の中心や貴族邸に近い場所に店を構えるのが定石であり、この店のように辺鄙な場所にあっては商売になるのか、と思ったが故の言葉だった。ポツリと、口から出た自身の言葉にはたと気づき、リリーは後悔した。
他意はなかったのだ。他意はなかったのだが、侮辱的な意味合いで取られてはいないだろうか、と顔から血が引く。脳内で「リリー、また脳と口が直結しているぞ」という兄の声が響いた気がした。相手に声が届いていないことを願うばかりだが、いかんせん、小さな店に二人きりの状況である。そんな儚い願いなど叶うわけがない。
「……ああ、ここしか場所がなかったんですよ。店主は万年金欠ですからね。街の中心部なんて場所代が高すぎて払えませんよ。」
だが、リリーが小さく呟いた言葉を拾った男は、さも当然の疑問だろうと言葉を返す。日頃、他の客たちによく聞かれているのだろう。スラスラと答える様子に、気を悪くする色は見つからなかった。
「お嬢さんは何かお探しの香りでも?」
「え、ええ。そう、そうよ。外で、すごく良い香りがしたの。何だろうと思って辿ってきたら、この店に行き着いたのよ。」
「ああ、そうなんですか。それはありがたいことで。」
そうにこやかに告げ、男は続けて「それはどんな香りですか?」と尋ねる。内心では「そんな外まで香るものなんてあったか?」と首をひねりながら。
「この店の中も同じ香りがするわ。」
「……ああ。それじゃ、これかな。」
男は少し思案し、先程まで自身が作業をしていた棚に視線を移す。透明な液体が入った、丸みを帯びたフォルムの小瓶に手を伸ばし、小瓶の上部にあるひし形のフタを持ち上げる。フタには小さな棒が付いており、棒の先に集まる水の玉が、先刻まで中の液体に浸っていた様子を物語っていた。男は躊躇なく棒の液体を自分の左手の甲に垂らすと、用済みだと言わんばかりに小瓶を無造作に棚へ戻す。そして手の甲に円を描いて香水を肌に馴染ませると、反対の手で仰ぐようにして嗅ぎ、リリーの鼻先へと差し出した。
ふわり。ふわり。
「……そう、これよ。」
香りを確かめたリリーの目元が和らぐ。植物独特の瑞々しさの中に、一本芯の通った凛々しくも華やかな香りが鼻孔をくすぐる。妖艶な甘みとは違う可憐な甘さは、溢れんばかりの花を両腕に抱き込んだ時のような噎せ返るような香りではなく、もっと洗練されたもの……。森の中に佇む一輪の花が目の前に現れた、そんな光景が瞼の裏に浮かんだが、それは一瞬の出来事。
「前のお客様が出入りした時と、その人の忘れ物に気づいた店長が出ていった時に香りが漏れたんでしょうかね。」
でも雨だし、広範囲に行き渡るようなモノじゃないんだけどなあ、と。男は釈然としない顔を隠そうとせず一人ぼやく。
ならば自分は香りに導かれたのだ。どこか温かいと感じるこの香りを知るべく。そして、目の前に居る平凡ながら目を奪われるこの男に出会うべく……。乙女の思考でそう結論づけるリリーを尻目に、男は彼女の後ろにある扉をチラチラと気にしていた。
(にしても、ミエルのヤローどこまで行ってんだ? このお嬢さん、どっかの大店か貴族の娘だろ。なんで共の一人も連れずにこんな外れに出歩いてんだ? ただの迷い子かと思ったけど……もしや商売敵か? ああっ、もう! 買うなら買うでさっさと買って、さっさと帰ってくんねーかなー。)
珍しく、朝から客足が途絶えない日だった。
男はいつも相手取る宿屋の客種とは違った、“香水店”特有の方方を相手にして疲れていたのだ。「いつもはこんなに客は来ないのに、全くもってなんて日だ」……とは、給金を貰っている身としては口が裂けても言えないが。待てど暮らせど開く気配のない扉から視線を移し、娘を見下ろす。未だ香りに夢中のようで、すぐさま購入して帰る気配はない。今のところ財布を出す気配さえないが、一応、客である。それも香水店の。彼女を無下にはできなかった。
「早く帰ってこねーかなぁ。」
男の独り言は、音にはならなかった。
カランカラン、カランカランと、激しく鳴る来客を告げる鐘にかき消されて。
なかなかに進展しない…