01
「……夢、か。」
ぼんやりと、今しがた見た夢を反芻するように、もう一度目を閉じて懐かしい顔を思い浮かべれば、温かい気持ちが胸を占める。覚醒しきっていない頭を振って起き上がり、時を確認しようと窓の外に目を向ければ、眩しいほどの光で溢れていた。あまりの眩しさに顔を顰め、ふと太陽が高いことに気づく。
「やばい。完璧に寝坊!」
空が白むと同時に起きる家主にとっては、あってはならぬ失態だった。「やばい、やばい」などと呟きながら、慌てて身支度を整えて部屋を飛び出す。パンが焼ける良い香りに包まれながら、ドタバタと階段を下りる。勢いのまま台所へと駆け込と、食事の用意をしていた少年が眉を顰めた。
「ミエル、うるさい。」
「ご、ごめん! ……ああっ、しかもご飯まで! ごめんよホーニヒ!」
なおも台所の入り口で叫び続けるミエルを一瞥し、ホーニヒと呼ばれた少年は溜息を一つこぼすと、元々目付きの悪い眼をさらに鋭くしてミエルを見据える。
「ほら、早く顔を洗ってきなよ。早く食べて開店準備しなきゃ、だろ?」
ミエルは何度も頷くと、慌てて顔を洗いに行った。その背中を見送りながら、ホーニヒは溜息をもう一つ零し、中断していた食事の準備に取り掛かった。
「それで?」
食卓に行儀悪く肘をつきながら、ホーニヒが言った。
ホーニヒはミエルの近所に住む15歳の少年だ。ミエルが王都で得た初めての友人であり、ミエルが営む香水店で小遣い稼ぎと称して働く臨時の従業員である。宿屋の三男坊で、自由奔放。背はミエルより頭3つ分高く、短く切られた茶髪に利発そうな顔立ちから実年齢より年上に見られることも多い。
ミエルのことを手のかかる子どもだと思っている節があり、店の手伝いだけでなく、こうして食事の世話をしてくれることもある。
パンとクズ野菜のスープ、カリカリのベーコンに炒り卵。この国で一般的な朝食に舌鼓を打ちながら、ミエルは真向かいに座る声の主に小さく首をかしげて続きを促す。
「寝坊なんて珍しいじゃん。夜更かしでもした?」
「ああ、そのことか。単に寝すぎただけだよ。懐かしい夢を見たからかな、きっと覚めたくなかったんだろうね。」
くくっと屈託のない笑顔を向けられて、ホーニヒは、ふーん、と興味がなさそうな相槌を返す。それを気にするでもなく、ミエルは楽しそうに話す。
「師匠と暮らした日々、師匠の元を離れて旅立つ時の夢だったんだ。あんな幸せな夢は久しく見てなかったから、すごく嬉しいよ。」
あれからもう3年かあ、と呟きながらミエルは千切ったパンに炒り卵乗せて食べる。
5歳で肉親に捨てられ、餓死寸前で彷徨っていた時に出会ったのが調香師のマームイだった。何を思ったのか、ミエルを拾い、あまつ“ミエル”という名を与え、人としての生活を、人に与えられる温かさを教えてくれた。そして弟子として育ててくれた。修行中は容赦ないほど厳しかったが、それ以外は自分の子どもに接するかのように優しかった。マームイとの思い出が増えるたび、拾われる以前の孤独な記憶を塗りつぶす。今ではもう、“ミエルでなかった時”の記憶など思い出せない。
「でも、師匠の香りだけは思い出せないんだよなー」
マームイの顔や好んだ香りは思い出せるのに、マームイが纏っていた香りは思い出せない。ひだまりのような、温かくて柔らかいあの香りは……。寂しさが滲む声で小さく発せられた言葉に、ホーニヒは呆れた表情で言う。
「いい加減、親離れしろよ。」
「はあ!?」
思いがけない言葉に、口に含んだ最後のベーコンを吹き出しそうになり、慌てて飲み込む。「君、何言ってるの」と言い掛けた言葉をホーニヒが席を立ちながら遮る。
「ほら、食い終わったんだから開店準備。お客は待ってはくれないよ。……まあ、年中閑古鳥が鳴く店だからのんびりしてても良いのかもしれないけどね。」
「ホーニヒ!」
言うが早いか、ホーニヒはさっさと台所を後にする。「食器はちゃんと洗っといてよ」という無慈悲な言葉を投げかけながら。
残されたミエルは弾かれたように食べ終わった食器を片付け、店内へと足を踏み入れる。店内を見渡すと、開店準備はあらかた終わっていた。口は悪いが面倒見の良いホーニヒが、手早く準備を行ったようだ。感謝の言葉を口にし、釣り銭の確認を終える。これで開店準備は万端だ。ミエルは深呼吸を一つし、息を整えると威勢良く声を張り上げる。
「さあ、開店だ! 今日もしっかり働こう!」
「だからうるさいって。」
棚の在庫を確認していたホーニヒのぼやきを無視し、ミエルはカウンターの下にある棚からハンカチーフと香水をそれぞれ一つずつ取り出すと、キレイに折り畳まれたハンカチーフに香水を湿らせる。途端、朝露に濡れる清々しい森のように爽やかな香りと、しつこくない程度に甘いりんごの香りがふわりと漂う。
「よしよし。ホーニヒ、今日は良い天気だからね、アップルミントにするよ。お客さんに聞かれたら<本日のおすすめ>って言っといて。ああ、あと、営業中の札に変えてきてくれる?」
「ああ、分かった。」
店主のニンマリとした笑顔を気味が悪そうに見た後、ホーニヒは<営業中>と書かれた札を持って店外へ向かった。