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香りの錬金術師  作者: mel
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プロローグ

「思い出をいつでも好きな時に引き出せる鍵が欲しいの。悲しいことも、嬉しいことも、記憶の底に沈んでしまったから。今すぐそれらを呼び覚ます鍵が欲しいの。」

「そんなもの、ないに等しいよ。仮にあるとしても、持たない方が幸せだと思う。」

「だとしても……、私はそれが欲しい。例え、過去に囚われようと、記憶の波に溺れたとしても。私には、必要だから。」










 コポコポコポ。

 朗らかな陽の光が差し込む室内に、湯が踊る様にリズミカルな泡を立てて静かに音を繰り出す。まるで家主の不在を咎めるかのように、存在感を主張するかのように激しく踊る。普段はその様子を飽くことなくじっと見つめる真剣な瞳も、その様子を見守る瞳も見当たらない。柔らかな光に包まれた小さな部屋に、ただただ湯が沸く音が静かに鳴り響く。そんな穏やかな世界は、隣の部屋から聞こえてくる小さな声で破られた。


「……師匠、今、何て言いました?」

 震える声を押し込め、子どもが傍らに立つ大人へと問う。

「もう、良いかなって言ったのさ。私が教えられることはもうない。あとは経験を積んで、自分で掴むしかない。だから、もう君を送り出しても良いかなって思ったんだ。……独り立ちの時だよ、ミエル。」

 師匠と呼ばれた大人は柔らかな笑みを浮かべ、優しい色を灯した瞳で子どもを見下ろす。15歳。歳の割に小さく、未だ10歳前後の子どもと間違われるほど線の細い姿を。手にした薬草を手が白くなるまで握りしめ、不安気に揺れる瞳を見てふっと息を吐くと、目線を合わせるように屈んだ。握りしめられた可哀想な薬草を引き抜き、諭すように続ける。

「前にも言ったけど、しきたりはしきたりだからね。覚えているね?」

「……調香師は師匠となり一人の弟子を導く。10年の修行の後、弟子は巣を離れ遠い土地へと旅立つ。一人前のパヒューマーになるべく。それまで、師匠には決して会ってはいけない。」

「うん、そう。何事も経験だ。これから先、君が迷子になろうと、野垂れ死にしようと、もう私は君を助けてはあげられない。けれど、遠くから君のことを大切に想っているよ。君が一人前になるまでは会えないけれど、成長した姿を見られることを今から心待ちにしているよ。」

 おいで、と両手を広げる師の胸へ、ミエルは迷うことなく飛び込んだ。師にはバレているだろう涙をそっと拭いながら、大好きな温もりを少しでも逃さまいと、ひだまりのような香りが染み付いた体を小さな腕で抱きしめた。

 いつか来ると分かっていた。分かっていながら、分かっていたからこそ、来ないでいて欲しいと願っていた、愛する師匠との別れ。それでも、いつまでもここに留まる訳にはいかないのだ。なぜなら、ミエルはマームイの弟子だから。「香りの錬金術師(アルケミスト)」と呼ばれる、調香師の弟子なのだから。もう少しで訪れる旅立ちに胸を震わせながら、今を噛みしめる。

 くぐもった、されどしっかりとした声で「立派な調香師になります」と決意を顕にする、この小さな子どもが成長していく姿を側で見守れない。その寂しさを胸に閉じ込めて、マームイは纏わりつく弟子の背中を優しく撫でた。


 1週間後。

 鳥がおはようと声を立て、空が白み始めた頃、小さな石造りの家から小さな影が元気に飛び出した。

「体調に気をつけて、元気で暮らすんだよ。」

「マームイ師匠、今までありがとうございました。……一人前になったら、また会いに来ますね。」

「やれやれ、7日前のしおらしさはどこへ行ったんだか。私が生きている内にまた姿を見せてくれると良いんだけど。」

「だ、大丈夫です! がんばります! 何事も経験です!」

 小さな手を握りしめ、自分を奮い立たせるミエルの姿を目に焼き付けるように見た後、マームイは晴れやかな笑顔を弟子に向けた。

「……ああ、何事も経験だ。それじゃ、元気でね。」

「はい! 行ってきます!」

 ミエルは元気に返事をし、マームイに背を向けて一歩を踏み出す。10年間育った家を離れ、一人で歩いて行く。一人前の調香師になるべく、輝かしい未来を夢見て。

 それが3年前のことだった。

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