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巫女姫は魔王を倒す為に結婚することにしました




 昔々、とある大国では人族と魔族が仲良く暮らしていました。

 魔族は人族と違って非常に強い力を持つ種族でしたが、女神の加護を授けられている人族の身は聖なる力に満たされていて、魔族と同じ地で暮らしていても魔の影響を受けませんでした。

 ある日、人族の聖なる力を悪用しようとする者達が現れます。その者達は魔に侵されない力を逆手に取り、魔族を虐殺しては侵略し、新たな王国を作ろうとしました。


 人族の非情な行いにこの地を愛していた女神は激怒し、人族から聖なる力を取り上げました。

 勿論怒っていたのは女神だけではありません。無辜の同族を奪われた魔族達の中で、一際強大な力を持つ者が頂点に立ち、統率を取りました。人族と魔族の凄惨な戦いが始まります。


 このままでは人族は一人残らず屠られてしまいます。泣きついてきた人族に、女神はせめてもの慈悲として、一人の少年に聖剣を、一人の少女に加護を与えました。

 後に『勇者』『巫女』と呼ばれるようになる少年少女は、聖なる力を用いて『魔王』を打ち倒しました。

 物語はここで幕を下ろし、古いお伽噺として子ども達に語り継がれるはずでした。



 此度の巫女として女神の祝福を受けた姫は、未完成の古い本を読み返しては溜め息を吐いた。

 数百年もの間、本の内容は一文足りとも変わらず、現在に至っても勇者と魔王の物語は終わることなく続いている。

 過去の勇者と巫女達が幾度魔王を倒しても訪れる平穏は束の間で、程無くして魔王は完全なる復活を遂げては人々を竦み上がらせた。


 魔王は絶対に消滅しない。女神に見放されたこの地には二度と平和は訪れない。人族は長い時間を絶望しながら生きてきた。

 負の連鎖は今代で断ち切る。初代より巫女の血を受け継いできた王族は皆抱いてきた思いだが、命を賭けて戦い抜いても尚、魔王は更なる力を付けて復活する。それでも巫女が与えられる力は、変わらず一定の強さであった。

 姫が決意を固めたのは、自身に宿るそれが今までの巫女の誰よりも強い力だと知らされた時だ。


 首もすわらない内から魔王の話を聞かされていた姫は、淑女としての何よりも未来魔王を倒す術ばかりを教え込まれてきた。

 故に少々王女らしくなく年頃を迎えてしまっていたが、最悪命を落とす結末もある姫に周囲は哀れみの視線を向けるだけだった。

 一方、姫は喜ばしいことだと考えていた。自分の代で全てを終わらせることが出来れば、人々は安心して暮らせるようになる。どちらにしろ尽力するのなら、明るい未来を勝ち取りたいと願っていた。



 聖剣が勇者を選び、待ちに待った出立の日がやってきた。

 未完成の古い本を携えて、姫は勇者一行として他に騎士団長や魔導師を引き連れ、少数精鋭にて王都を発った。

 役目を終えるまでに逃げ出さないようにと城に軟禁されていた姫は、生まれて初めての外の世界にそれはそれははしゃいでいた。話で聞くのと自分の目で見るのとでは何もかもが違う。

 はしたなくも馬車から身を乗り出して景色を眺めては、「可愛らしい御方ですね」「姫はお転婆さんでございますね」「麗しい見た目に騙された。とんだじゃじゃ馬娘だ」と勇者達から苦笑されている。そんな取るに足らない笑いでも起きなければ、この旅は暗いだけのものになっていただろう。


 始めの数日間は穏やかな旅路だったが、魔族の地に足を踏み入れてからは戦いに明け暮れた。

 魔族とは人族と同じ人の形をしていると聞いていたというのに、現れるものは何れも動物の形に近い。最初に「魔の影響で新たに生まれた『魔物』ではないでしょうか」と口にしたのは魔導師だったか。

 剣が、魔法が、肉体を持たないそれらを瞬く間に貫いていくのを姫は一人静観している。聖なる力に身を浸している姫に魔の力は無効だ。手を出さずとも立っているだけで魔物は浄化され、独りでに塵となって消えていく。


 前衛向きではない姫は、勇者達に倒された魔物達や空間を清めながら歩いていた。

 人族の身体を容易く蝕む魔の影響、嘗ては各々当たり前に与えられていた能力が、今やたった一人だけが持つ奇跡。

 城にいた時には夢の中の出来事のように思っていたが、魔族の地に辿り着いてからは思い知らされるばかりだ。

 同時に、陸続きの同じ地であるのにここまでひどく淀み、混沌とした場所が実在するとは思わなかった。数百年前、人族と共有していた姿がまるで想像出来ない。



 やがて応戦したのは人の形をした魔族だ。

 これまでの実体のないもの達とは格段に力の差がある魔族を、一行は苦戦しつつも倒すことが出来た。

 姫は邪魔にならないように見届けていたが、相手の魔族の防御に多く割り振られた動きと、装備が騎士のそれであったことがどうにも引っ掛かっている。

 最低限しか語らず、それが役目だと言うように倒れた魔族を不審に思いながらも、姫はその者を浄化する為に近付こうとした。


 その時、それは姿を現した。


 絶命した魔族の元に、一人の美しい男が閑かに佇んでいる。

 光を放っているのではと錯覚する白い肌に、闇よりも深い漆黒の髪。長い睫毛に縁取られた紅い瞳が、何の表情も映すことなく地に伏した魔族に向けられている。

 これは一体何なのか、本当に生物としてこの世に存在しているのか。確かに人の形をした男であるのに、その凄絶な美貌は見る者を混乱させた。

 図らずも思考を絡め取られていたが、我に返るといつ現れたのかも分からない男への恐怖心が湧いてくる。張り詰めては急激に冷え込んでいく空気に気付いて、姫はその圧倒的な魔の力に身震いした。


 魔族を見下ろしたまま悲しげに眉を下げたその男は、緩慢な仕草で屈んで片膝を着くと、その亡骸を抱き起こして肩に担いだ。

 形の良い唇が、小さく「よく頑張った」と動くのを見た姫は、この状況に強烈な違和感を覚えた。

 何かがおかしい。長きに渡って学び、ひたすらに考えてきた事と決定的に何かが違う。

 その答えに行き着くより先に、男は此方に視線を寄越した。冷たい真顔で、此方を軽蔑するように見ていた男だったが、暫くして不敵に微笑んでから尊大に口を開いた。

 我こそが『魔王』である、と。




 魔王との対面から数日、再び魔族とまみえた一行は、以前と同様に剣を交えた。

 やはり、何かが変だ。姫は勇者の聖剣が魔族の命を刈り取る前に制して、自分に任せてほしいと説き伏せた。瀕死の魔族の前に屈み、勇者達からは分からないように癒しの魔法を掛ける。

 力が抜けたのか意識を失った魔族が死んでしまったように見えて、慌てて生死を確認しようとした姫の手を何者かが払った。


 おそるおそる顔を上げれば、紅い瞳に睨め付けられて息が止まった。

 魔王だと認識するや否や、勇者達に引き戻される。一行に何を言うでもなく、魔王はまた魔族の身体を抱えては帰る為に空間を引き裂いた。

 踵を返して大きな亀裂に入っていった魔王は、驚いたように目を瞠って姫の方へと振り返った。抱えている魔族がまだ生きていることに気付いてくれたのだろうか。

 助かるかどうかは分からないが、念の為もう一度癒しを送る。すると魔王は何度か薄い唇を開閉させて、結局は何も発することなく空間を閉じていった。



「わたくしは……いいえ、わたくし達は、何の為にこの力を女神から賜ったのかしら」


 夜営の焚き火を囲みながら、姫は誰に問い掛けるわけでもなく呟く。

 まだ勇者達には気付かれていないようだが、聖なる力を有した身でありながら敵である魔族を助けた。決して人族を裏切るつもりでした事ではなくても、巡り巡って自身の首を絞める結果になるかもしれないというのに。

 初めて魔王と対面した時からずっと、強い違和感が胸の内を巣食っていた。


 ローブごと膝を抱え込んでいる姫に、仲間達は「人々の希望となる為ですよ」「いつか全てを終わらせる為だろ?」「同族を魔から救う為でしょう」と思い思いに答えを述べていく。

 何れも間違っていない。姫自身も長い間、そう思って生きてきた。間違っていないはずなのに、何れも腑に落ちない。思い悩んでも、今の自分には解決出来そうにない。

 胸中を渦巻く靄に蓋をして、姫は「そうよね。馬鹿なことを聞いてごめんなさい」と微笑んだ。

 この旅はまだ始まったばかり、ただ一人環境を保てる自分が仲間の不安を煽るわけにはいかない。



 それから、魔族と遭遇する度に姫は最期を委されるようになった。

 適当に理由を付けて説得したのだが、しつこく食い下がっている内に三人共がじゃじゃ馬だから仕方ないと折れてくれた。幼い子どもの我が儘を聞いている雰囲気だったが、この際何でも構わない。

 倒した魔族を魔王が回収しにやってくるのも毎度恒例らしく、三度目ともなると姫以外の三人も気を張るのをやめたようだった。

 魔族を肩に担ぎ、空間を裂く流れを見守っていると、姿を見る程に慣れるどころかより美麗に映る白皙が姫の方を向く。一歩踏み出してきて耳許に唇を寄せられたかと思えば、「あの者は助かった。この者も、問題ないだろう」と告げられた。

 何が正しいのかはまだ分かっていない。それでも姫は確かに歓喜していた。例え魔族が相手であっても、殺されなくてもいい命を救えたのだと思うと逸る気持ちを抑えられなかった。



「君を我が妻に迎え入れたい」


 ここまで魔族を助けていて困ったことがあるとするならば、どういう風の吹き回しなのか、魔王が姫を所望するようになったことだ。

 旅も半ばを迎えているこの頃、顔を合わせる度に求愛し、毎度丁重に断りを入れていても尚、言葉を変えて挑んでくる。初めこそは「姫は渡さない!」と勇ましく叫んでは威嚇してくれていた仲間達も、日を追う毎に冷やかす側に回っていた。一体どちらの味方なのか。

 此方を敵視して冷たい視線をぶつけてきた相手がするとは思えない、甘やかな眼差しにも慣れてきた。物語のラスボスにあるまじき頻度で回収だけに出現しているのも、勇者一行が魔王城に到達するまでの暇潰しなのではないかと思い始めていた姫は、どの言葉も本気で取り合わずに受け流していた。



 さしづめ中ボスと言ったところの魔族を倒して、無事に魔王へと引き渡す。

 ただそれだけのことだが、不思議な信頼関係のようなものが出来上がっていると感じていたのは事実だ。

 何故か、穏やかにこの旅を終えられると思っていた。魔王と自分との関係性が何であるのか、どうしてか分からなくなっていた。



 敵対している存在だという感覚が麻痺していて、いつかは来るこの時の事を忘れかけていた。


 魔王城を前にして、魔王が一人で一行の前に現れたのを疑問に思わないといけなかった。

 今までに魔族を迎えにくる以外では姿を現さなかった男だ。城内の玉座の前ではなく、此処こそが最終決戦の地だと気付かなければならなかった。


 警戒を怠っていた勇者一行は、魔王が片手を上げるその動きだけで、たったその一撃だけで瀕死に追い込まれていた。

 勇者達は姫の癒しを受け、最後の力を振り絞って立ち上がるも全ての攻撃を防がれては弄ばれて、軽く払われた衝撃にすら耐え切れずに倒れていく。


 三人共が指先すら動かせなくなった時、姫は勇者一行の敗北を悟った。

 結果が出るのがあまりにも早かった。圧倒的な力の差に声も出せず、姫は茫然と立ち尽くしている。

 魔王の美しいかんばせを見上げると、そこには無表情が鎮座しているだけで、煩わしげに返り血を振り払う仕草の優美ささえも恐ろしく映った。


 何もかも、油断させる為だったのだろうか。この時の為だけに違和感を、妙な安心感を植え付けてきていたのだろうか。

 自嘲めいた笑いが零れる。一行の核である自分のせいで仲間達が深傷を負っているというのに、魔を無効とする聖なる力のせいで、一人だけ無傷で残っているのがひどく滑稽だ。


 日々の冗談はまだ有効だろうか。

 部下の死を悼み、労いの言葉を掛ける、そんな魔王に良心が残されているとするなら……。


 姫は魔王の眼前に歩み寄り、泰然と微笑んで見せた。


「求婚、慎んでお受けします」


 高貴な紅い瞳が虚を衝かれたように見開かれる。

 当然だが、姫は魔王を好いていてこの台詞を口にしたわけではない。後ろで勇者達が「犠牲になるおつもりですか!」と必死で叫んでいるが、無論そんなつもりはない。

 自分は魔王を倒す為に聖なる力を宿して生まれ落ちた。魔王の力さえも無効にするこの身体、今使わずして、いつ使うのか。

 それに、この場に於いて、仲間達の命よりも大事なものがあるわけがない。


 固まっていた魔王だったが、暫くすると甘く口許に弧を描いて姫の手を取った。

 そのまま持ち上げて手の甲に口付けたかと思えば、不意に真剣な顔をして「早くあの者達を癒せ」と呟く。

 言葉の通り、勇者達を出来る限り癒したところで、魔王は回復した三人を裂いた空間に放り込んだ。一瞬の出来事だったが、姫は仲間達が飛ばされた先の景色が人族の国の王都だったのを見ていた。


 この男、頼む前から一体どういうつもりなのか。

 恐らく、魔王は勇者達三人を助けた。此処で環境である姫が離脱すれば、勇者達は瞬く間に魔に飲まれて命を落とす。それを踏まえての行動だとしか思えない。


「環境その物か。聖を宿す身は癒し手には向いていないな」


 人族にも少なからず魔の力は存在している。

 魔族に比べれば微々たる量ではあるが、中でも力の強い者は魔導師を志している。癒しの魔法であってもそれは魔の力が根源だ。巫女ならば癒し手でもあるだろうと思われがちだが、姫が祈るよりは魔導師に祈らせた方がよっぽど人々を癒せる。

 元々、回復役が足りていない編成だった。あのまま退却しても姫には止血が限界だった。負傷した魔導師にも全回復までは祈れなかったはずだ。つまり、どうやっても立て直せなかった。

 この男にそこまで見抜かれてしまっているのなら、正攻法で打ち勝つなど出来るわけがないだろう。


「人族から唯一の環境を奪えば、我々魔族の勝利は決まったようなものだな」


 聞いてもいないのに、男は魔王然とした笑みを薄い唇に刷いてみせた。初めて遭遇した時にも感じたが、この男にそう言った笑顔は似つかわしくない。

 ふと思い出したように取り繕うところが、わざと『魔王』を演じているように見える。道中で愛を乞う姿も、何の脈絡もなく空虚だった。

 それにしてもあまりに当然過ぎる言い訳を用意されていた。しかも誤魔化せるとも思っていない。だけど 、真実を語る気は一切ない。姫にはそんな言葉に聞こえた。


 姫の身を手中に納めずとも、この男は一瞬で人族を滅ぼす力を持っている。

 復活を繰り返す度に力を強めていると聞いていたが、果たしてそれは本当のことなのか。……この男は数百年もの間、こちらの勇者一行ごっこに付き合ってきただけではないのか。

 仲間達と引き離されてから猜疑心の塊のようになっている。何の為に望まれたのか、皆目検討もつかない状態では仕方がないのかもしれないが。


 一つだけ分かっているのは、今のところこの男に人族をどうこうしようという気がないことだ。

 ならば、争って勝つよりも改めさせる方法を考えよう。この男が『魔王』としてこの世に憚る必要が無くなるように。



 あれから魔王城へと連れて行かれ、「人族を滅亡へと導くその時まで好きに過ごせ」と言い渡された姫は、男の演じている設定に乗ることにした。

 人族を滅亡へと導くその時とやらがいつ来るのかは分からないが、「ええ、短い余生を楽しませていただきます」と微笑み返しておいたので、男の言う通り好きに過ごしている。


 魔族の人々はとても肌が白い。雪花石膏のごとき肌はあの男に限った話ではないのだと、魔王城の門を潜って初めに思ったことだ。


 姫は男から与えられた自由の中で、まず人族と魔族の違いを探った。

 宛がわれた侍女達に単刀直入に問えば、魔力が強い者の方が若く寿命も長い、という如何にも魔族の形象に沿った答えが返ってきた。が、特筆することがあるとするならば本当にそれだけのようだった。


 魔族側から見て分からないだけかもしれない。

 そう考えた姫は魔族の食文化を学ぼうと厨房に突撃しては驚かれ、食べ物に差がないのであれば身体能力かと、騎士達の詰め所に押し入り、鍛練に乱入すると当然注意された。

 全て今までに自分がいた城でされる反応と同じだった。自分達人族と何も変わらなかった。


 何より、『巫女』の名を冠する人族である姫に、誰もが優しく接してくることに違和感は最高潮に膨れ上がった。

 生まれてから城を旅立つまで向けられていた憐れみとは違って、皆が皆純粋に妃として姫を歓迎している。どうも、あの男は数百年もの間一人で頂点に立ち続けていたらしく、本当のところは国を挙げて大々的にお祭り騒ぎしたいくらいだそうだ。

 あの男、『魔王』とは、ここまで慕われる存在であるのか。幼少から刷り込まれてきた像とかけ離れ過ぎている。


 今まで自分は何を信じてきたのだろうか。

 彼ら魔族のことを、何だと思い込んでいたのだろうか。



 姫は図書館にて魔族と人族について調べ直すことにした。持参した未完成の古い本を携えて、隅の席を陣取ってはありとあらゆる資料を積み上げて読み耽った。

 人族の持つ知識と大差がない資料の数々に溜め息が出そうになっていた頃、一つの興味深い項目が姫の目に留まる。


「魔の影響により、封鎖された地域一覧……?」


 ざっと目を通しただけでも、何十と羅列される地域名に自然と眉根が寄る。

 魔の影響とは、人族だけが受けるものではなかったのか。

 詳しく見ていくと、十数年単位で封鎖された地域が一ヶ所ずつ増えていっている。慌てて魔族の人々が住める地域の数を数えると、封鎖された地域と数が変わらない。背筋に冷たいものが走る。


 あの混沌とした土地は、『魔王』と魔族が意図的に作り出して人族との間を隔てている場所だと思っていた。

 魂を持たない『魔物』も、魔王が自分達勇者一行を阻む為に使役しているものだと思っていた。


 魔族には魔を浄化する力はない。

 なら、あれらは魔族にもどうすることも出来ない。


 心臓が煩く音を立てる。今、この時の自分の感覚が正しい状態なのだとしたら……。

 資料に埋もれていた未完成の古い本を取り出し、何度も何度も読み込んだ内容を一から順に追っていく。

 やはりおかしい。身に染み付くまでこの内容を読んできて、何故今まで何の疑いもなく人族の正義の話だと信じ込んでいたのか。


「どう考えても先に手を出した人族が悪いじゃない……」

「此方が全力で迎え撃ったのも事実だろう。犠牲者も人族の方が遥かに多い」

「そこからどうやって人族が正義になるのかしら。……あ」


 憤りのままに独り言を溢し、ちょうど良い返事があったものだから熱を上げそうになった姫は、乱雑に本を閉じた瞬間に誰と会話しているのかを知った。

 いつの間に現れたのか、姫の向かいの席に男が鎮座している。濡れたように艶めく黒の長い睫毛を伏せて、手元の文字を追っていた男は、姫の視線に気が付いて顔を上げた。


「君の噂は聞き及んでいる。随分とお転婆だそうだな」


 幾度となく掛けられてきた言葉であるのに、何故かこの男が口にすると妙に羞恥を刺激される。

 城に連れられて以来、顔を合わせていなかった男。一体何処からそんな噂を仕入れたのか、……四六時中情報収集をしていたので心当たりが多すぎるが。

 熱くなった頬を手で押さえて、一つ咳払いをした姫は開き直って男との会話を続けることにした。


「でも、そうよね。王妃がお転婆は何かと不都合もあるわよね……」


 こんな形とはいえ、自分が誰かの妻になるのは想定外の出来事だ。

 姫の役目は巫女として魔王を倒すことだけ。それ以上未来の話は誰からも聞いたことはない。巫女としては歴代最強かもしれないが、淑女としては歴代最低ではないだろうか。


「いや、君でなければならないのだから君は君でいい。私は気にしない。元気なのは良いことだ」


 姫は口を開けたまま固まった。野放しにはされてきたが、さすがに良しとされたことはない。

 この男、数百年と生きている者でありながら、他者へ求める基準がゆるくはないだろうか。それとも、所詮子どもの扱いだと多目に見ているのだろうか。


「何だかゆるゆるだわ。あなたって、思っていたより堅苦しい人じゃないのね」


 毎日好き勝手に城内を闊歩しているが、これでも『魔王』に連れ帰られたのだからほんの少しは構えていた。

 それが、元気なのは良いことだ、なんて言われてしまうと本格的に気が抜けてしまう。


「元は平民、ただの成り上がり『魔王』だからな」

「ならわたくしも、『巫女』で『姫』なだけのただの小娘だわ」

「っ、そうか」


 この男も、普通に笑えるらしい。

 姫のめちゃくちゃな『ただの』に対して溢した笑みは、旅の道中での貼り付けた悪い笑みとは全く違う、柔らかくて温かいものだった。

 大層で重たい『魔王』の肩書きに、美しすぎるが故の冷たい顔立ち。姫は魔族全体だけでなく、ここでもひどい誤解をしていたようだ。

 この男だって自分達と何も変わらない。少しばかり長く生きているだけの、血の通った普通の人、なのかもしれない。



「それを調べるなら、これも必要だろう」


 男が手渡してきたのは古い紙だ。縒れていたり端が破けて色斑になっていたり、見るからに使い込まれているそれを広げてみると、描かれていたのはこの大陸の地図だった。

 形はそうなのだが、姫が知っているものと何かが違う。新しいものと照らし合わせてみようかと積み上げている資料に手を伸ばそうとすると、「嘗て、魔族と人族が仲良く暮らしていた頃の地図だ」と男は呟いた。


 何処にも境界線がない大国の真ん中に、男は魔法で黒く線を引いてみせた。人族と魔族の地が分裂した後に出来た境界線だ。

 魔族側の土地を男は一つずつ黒く塗り潰していき、白い土地が約半数になったところでその手を止めた。

 姫はその地図に記された地域の名前と手元の資料を見比べた。黒く塗られた地域は封鎖された地域と全て一致する。


 長い時を経て魔に飲み込まれていった土地、人々の住処が全て侵される日はきっとまだ遠い。それでも着実に終わりに近付いているのを、男は始まりからその目で見続けてきたのだろう。

 漸く男がこの身を望んだ理由が分かった。だから、わざわざこの惨状を姫に伝えたに違いない。


 やはり、男に人族を滅ぼす気など毛頭なかった。

 魔王という立場上、そういう訳にも行かないのだろうが、こんなに素敵な計画を用意していたならもっと早く言ってほしかったくらいだ。

 期待にむずむずしてくる唇を噛み締めて、姫は渾身の演技を仕掛けた。わざとらしく芝居がかった口調で『魔王』を挑発をする。


「嗚呼、わたくし、愛する人族の嘗ての地が魔に侵されていくのを黙って見てはいられませんわ」


 如何にも悲劇のヒロインとばかりに悲しんでみせ、視線だけは強いものを男に送る。

 姫と男の間にはまだ何もない。妻として連れて来られた、ただそれだけだ。数日前には敵対していた関係なのだから、二人で協力し合う理由がない。

 だからこそ姫は持ち掛けた。仲良く敵対しているフリをしよう、と。

 その意図に気付いたらしい男は、美しいかんばせに『魔王』の仮面を貼り付けて姫の誘導に従った。


「聖なる姫よ、所詮ただの人である巫女ごときに一体何が出来る?」


 仰々しい問いに笑ってしまいそうになりながらも、姫は決め台詞を口にした。


「まあ、わたくしは聖なる巫女姫なのよ? あなたに滅ぼされる前に、この地を浄化してみせるわ」


 眉を吊り上げて腰に両手を当てる姫に、男は唇の端を僅かに痙攣させた。意外と直ぐ笑う性格らしい男には、姫の恥ずかしくもカッコいい台詞は良く効いているようだ。


「ならば足掻いてみせろ。直ぐにでも絶望の世界を見せてやる」


 倍以上の威力の恥ずかしい台詞を返されて、ついに姫は小さく噴き出した。

 お互い、どうしてこんなにも嘘を吐くのが下手なのか。この男もよく数百年魔王を演じて来れたものだ。

 これにて表面上、至極合理的に夫婦で外出する約束を取り付けた。何もかも始まったばかりだが、唯一と最強が手を組んだからには最高の未来しか見えなかった。



 作戦は単純明快、魔力の多い男に集ってくる魔物を姫が浄化する、以上だ。容易ではあるが、かなりの回数をこなす必要がある。

 特に姫にとって大変な作業になると男から説明されても、姫は青い大きな瞳を輝かせるばかりだ。

 行き先は魔に飲まれた地域であっても、何より外に出られるのが嬉しくてたまらなかった。やってみなければどのような結果になるかは分からないが、聖なる力を行使して土地を救えて、おまけに散歩も出来る。多少の苦労等どうということはない。


 知らぬ間に用意されていた外出着に着替えて、男の迎えより早く部屋を飛び出そうとすると、侍女達が何やら微笑ましいものを見るように笑っていた。

 夫婦仲が良好なのは喜ばしいこと、等と声を掛けられたが、ちゃんと否定しておいた。何しろ男とは同じ目的を遂行する為の関係、ただの同業者だ。夫婦なんてものには程遠い。

 やっとこさ男が迎えに来て、「待たせたか?」と聞くものだから「ええ、物凄く!」と元気良く返事をした。その日の内にこの噂は城中を駆け巡ったという。



 予め決めておいた地域に男と足を踏み入れると、急激に空気がどす黒いものに変化した。

 まるで同じ地の続きとは思えない程に様変わりした景色。初めて仲間達と魔族の地に到達した時と同じ、圧倒的な魔の気配に姫は身震いする。


「来たぞ」

「分かってるわ」


 一発目にも関わらず、合図等必要ないとばかりに一瞬でそれらを消し飛ばす。男にも当たってしまうのだが、さすがは数百年の時を生きる魔王というべきか、聖なる力を受けても全く動じない。効いてもいない。

 少しずつ場所を移動しながらそれを繰り返し、何となく効率の良い方法を掴み始めた頃に姫の体力が尽きた。その身が崩れ落ちる前に、男は寄ってきていた魔物を払い除けて抱きかかえる。


「ほんと、情けないわね……」

「そんなことはない。まだ初日なんだ。君は充分頑張った」


 幾ら本人が元気だと自称していても、長年城に閉じ込められていた身。遠出するだけでも負荷が掛かっているというのに、仲間達との旅の疲れも抜けきらない内から力を酷使すれば倒れるのは火を見るより明らかだ。

 身体を持ち上げられるから、あの日の魔族のように肩に担がれるのかと思いきや、優しく横抱きにされる。どうにも出来ないので仕方なく男の胸に頭を預けて、白くて冷たそうに見えて温かいものなんだなと、当たり前のことを考えた。



 姫の体力と相談しつつ、二人で数日掛けて一つ目の地域の魔物を狩り尽くした。

 こういった作業、本来は仲間である勇者達と魔王を倒した後にするのだろうけれど、この際細かいことは気にしない。

 赤黒い雲に覆われて薄暗く、魔が産み出した者達で犇めきあっていた土地も、浄化を終えてみれば何の変哲もない土地に戻っていった。

 濃い霧が晴れていくように、時空が正しい位置に戻されるように、青い空と緑の平原が広がっていく。その光景の美しさは言葉に出来なかった。


「やったわ!」


 思わず男と手を叩き合って喜びそうになって、何とも言えない気恥ずかしさがやってきてお互いに手を引っ込める。

 今日のところはここでお仕舞いだ。男が空間を裂くのを見て、このまま引き上げるのかと思いきや、何故か昼食を二人分受け取っているのを見た姫は動揺した。

 何せ城の中でも魔王と食事をしたことはないのに、誰もいない長閑な土地で二人きり、景色を眺めながら食べることになるとは思わなかった。


 一頻り辺りを見渡しては静かに歓喜していた癖に、男は急に『魔王』の仮面を取り出す。


「フン、無駄な足掻きを。……次はどの地域にしようか」

「聖なる力を嘗めないで。……そうね、こことかどうかしら」


 いつまでも下手な演技を挟んでしまうのは、お互いが連れ添って行動するに『夫婦』だからという理由が、まだまだ弱いと感じていたからかもしれない。


 それにしても、まだ始めたばかりの姫と違って、魔王歴が長い男が下手過ぎるのはどうだろう。

 勇者一行ごっこに付き合っていたのではなく、まさか魔王ごっこを魔王本人がしているとは誰も思わないはずだ。真面目で堅物そうな美貌に、人族は数百年も誤魔化されてきたのか。


「あなたは本当に演技が下手だわ。どうして数百年やってきて上達しないのよ」

「私が魔王であればそれでいいからな。必要がなかっただけだ」


 つまり、歴代の勇者一行はこの男が『魔王』であれば倒すまでで、真実はどうでも良かったということだ。

 そうやって自分自身では何も考えず、教え込まれた正義だけを信じて、人族は間違え続けてきた。


 この男は一体何の為に――軽率にも問い掛けようとして姫は口を噤んだ。

 誰も『魔王』の言葉に耳を貸そうとしなかったのだろう。それでも招かなければ環境である『巫女』も魔族の地にやってこない。

 どうにもならない悪循環の数百年をやり過ごして、やっと本来の意味で役目を全うしようとする姫に巡り合った。


「空気が、美味しいわね」


 わたくしはあなたを信じてみて良かった。

 まだ過程の段階で言うべき言葉ではないが、姫は小さく付け加える。聞こえたのか聞こえていないのか、隣で男が笑ったように空気が揺れた気がした。

 


 こうして姫は男と数日置きに昼食を共にするようになった。

 一つの地域が浄化されたお祝いに、綺麗な景色をたった二人で満喫する。並んで食事を摂るだけで特に会話もしない日もあった。それでも確かに、二人の間には優しい時間が流れていた。


 また一つ浄化を終えて、ついに手を叩き合って喜んで、また一つ浄化して、そんなに疲れていないからと、魔法を使わずに手を繋いで歩いて帰る日が増えていく。

 やっぱり少しは疲れている、躓かれては困る、なんて適当な口実を作ってはどちらかが手に触れる。温もりを確かめる度に、胸の内に甘い疼きが走るようになったのはいつ頃からだろう。

 数日置きに外で食べるだけだったのが、城に帰っても毎日一緒に、三食共に。たまに下手な演技を交える時もあるが、いつしか二人はただの仲良しな夫婦になっていた。



 やけに魔物の数が多く、魔の影響が深く根差している地域だとは思っていた。

 いつも以上に時間が掛かり、体力の消耗も激しい。そんな土地の魔物を一掃し、空間を清めて元の姿が現れるのを待っている間、隣の男はどうも落ち着かない様子だ。

 期待とも恐れともつかないそれに姫は疑問符を浮かべていたが、先に広がった景色を見て、そのどちらもだったのだと理解した。



 現れた街並みは、本でしか見たことがない至極古い造りをしている。

 あちこちが崩れている廃墟の群れは修復に取り掛かった形跡もなく、数百年の間、そのままの姿で保管されていたようだった。


「最初に魔族と人族が争った地。……最初に魔に飲まれた、俺の故郷だ」


 男が自身を『俺』と呼ぶのを聞いて、そう言えば元は平民で成り上がりだと語っていたのを思い出す。

 この数日、此処が何処なのか分かっていていつも通り作業していたのだろう。どんな思いを抱いていたか、先程の様子を見ていれば何も知らない姫にも分かる。

 何と声を掛けていいのか、姫が無意味に唇を開閉したり、手を伸ばしては戻したりを繰り返していた時、一帯に強い風が吹き荒れる。


「あ……」


 気が遠くなる程の長い時間、皮肉にも魔に守られていた街並みは塵となって巻き上げられていく。

 それらを急いで追い掛けて、空を掴む男の寂しそうな背中はとてもではないが見ていられず、気が付けば男の身体に腕を回して強く抱き締めていた。

 そうでもして捕まえていないと、今に街並みと同じく掻き消えてしまうそうだった。


 男は驚いた素振りを見せながら、姫の手にそっと触れてくる。

 嘗ての仇の子孫である人族の姫を、側に置いても笑っていられるほどの時間とは。十数年しか生きていない姫には想像もつかない。


「憎み方など、とうの昔に忘れてしまった」


 自嘲する男は姫の手を優しく握る。

 この男は魔王でも何でもない。少しばかり力が強かっただけの、ただの戦争の被害者だ。

 誰もが子から孫へと語り伝え、忘れていないと言いつつ風化してきた中で、一人で当時の記憶を抱え続けてきた悲しい人だ。


「わたくし、絶対に終わらせるわ。必ず『魔王』をこの世界から消してみせる」


 そして、この男を魔王の役から解放する。

 旅に出る以前、姫は漠然と人々を救えればそれでいいと考えていた。史上最強の唯一ならば終止符を打てると、適当なことを考えていた。

 実際に自らの手で事実に触れて、知って経験して、改めて誓いを立てる。


 真剣な声音で呟いたからか、男は「勇ましいな」と淑女を相手に言う台詞ではないことを言っておどけた。

 せっかく男を安心させようと真面目にしていたのに、誓いを馬鹿にされるのは面白くない。むくれて腕の力を弛めると、男は身を反転させて姫を見下ろしてくる。


 何故なのか、怒っていたはずの気持ちが萎んで消えていく。つい先程まで大真面目だったのは姫の方であるのに、今は男の方が真剣な顔をしている。

 頬を撫でられて、銀の髪を後ろに除けられて、顎を掴んでくる仕草に、心臓の音が大きくなる。


 あの頃、冗談で向けられていたものとは違う。視線の熱さに焼け焦げてしまいそうになりながら、その紅い瞳から目を逸らせなかった。

 極度の恥ずかしさから、鼓動に合わせて全身が震える。


 こういう時は瞼を閉じて大人しく待っているのがいいのか、勘違いになって更なる羞恥に襲われないように、このまま見つめていた方がいいのか。

 盛大に混乱しているところ、男が堪えきれないとばかりに噴き出して、姫は思わず「はあ?」と口を開いた。


「魔王討伐、期待している」


 姫の顎を持ち上げていた手は離されて、代わりに両手で頬を挟まれる。

 誤魔化されたのは納得が行かなかったが、男が普段通りの柔らかい笑みを見せてくれたので、人の顔を潰して笑ったのは目を瞑ってやることにした。



 浄化作戦は順調に終わりへと向かっていた。

 最後の一つに残されていたのは、魔に侵された土地の中で最も規模が大きな地域。始まりの地すらも問題なく浄化出来た姫と男には大きさ等些末だ。

 思えば、数ヶ月もの間、毎日男と各地を回っていたらしい。内容は単調で禍々しい事この上ないが、ある意味新婚旅行だったと考えると、楽しい旅であった。


 全てが終わりを迎えた時、自分と男の関係はどうなるのだろうか。

 土地の浄化の為に妻として選ばれた姫は、僅かに不安を抱えていた。

 人外じみた美貌の男の足下にも及ばないが、王族に生まれた姫の見た目はそこそこ麗しいはずだ。淑女としての難はあるが、姫の性格に眉をひそめるような男ではなかった。

 それなりに優しく扱われ、大事にされてきた自覚はある。

 けれど、男は姫を女として求めることはなかった。


 平和が訪れた後は、便宜上の関係は解消されてしまうのだろうか。何故、自分はそれを残念だと思っているのだろうか。

 姫にはその感情が何であるのか思い至らなかった。

 今は不安と焦燥が強いが、抱えていて嫌な感情ではない。片を付けた暁には男に打ち明けてみようか。男なら、この感情を受け止めてくれそうだ。


 時が来たら下手な演技は完全に取り払って、素のままで男に強請ろう。

 あなたと毎日一緒に食事がしたい、と。


 少し先の未来に思いを馳せながら、姫は普段通りに支度をしていた。

 初日から続く男の迎えを心待ちにして、何度も部屋の扉を横目で見ていた。


 この日、姫の元に訪れたのは男ではなく男の側近であった。血相を変えて飛び込んできた側近の口から伝えられたのは、他ならぬ男の凶報だった。



 寿命。

 姫は医師から聞かされた言葉の意味を理解出来なかった。

 昨日までいつもと変わらず元気でいて、見た目にも老いを感じさせない男に、不相応なその言葉。

 急に寿命が尽きた原因を、医師は口ごもりながら、聖なる力を浴び続けたから魔の力が弱ったのだと説明してくれた。


 演技が下手な男が無反応であったから、何も影響はないのだとひどい思い違いをしていた。

 膝から崩れ落ちた姫に、寝台に横たわっている男は気だるげに口を開いた。「君のお陰で漸く死ねる」と。


 以前から計画していたような口振りに、姫は男が自分の身を欲した真の理由を悟った。

 信じたくない気持ちが何度もその想像を振り払うが、無情にも男は真実を語り始める。


「私は、魔の力が強すぎて死ねなかった」


 男は元々強い魔の力を持っていたが、それは平均よりもやや強い程度のもので、魔王と呼ばれる程ではなかった。

 その力を同胞を守る為に最大限に奮い、人族を退けては数年。ついに聖なる力にも制されない力に膨れ上がり、増長していくのをつぶさに感じて数十年。

 そして数百年の時を積み重ねて、高まり続けてきたそれは『魔王』である男の身体を生かし続けた。


 悠久の時を経て、業火の如く燃え上がっていた人族への憎しみを忘れてしまった。同じ志の元に集まった友も皆いなくなってしまった。

 国の為、今いる全ての魔族の為だとは分かっていても、心の内では何の為に戦えばいいのか分からなくなっていた。


 数年に一度、『巫女』と『勇者』をこの地に迎え入れ、例に倣って倒される。一月にも満たない時であっても、聖なる力と聖剣が存在していた空間は清められる。

 未来の子ども達に住める土地を残す為に、犠牲になると申し出た騎士達は、物語の『中ボス』として勇者一行を待ち構える。役を遂行した誰もが晴れやかな死に顔で旅立っていくのを嘆きつつ、不謹慎ながら内心では羨ましいとも思っていた。


 そんな時、男は姫に出会った。

 この数百年で顔を合わせてきた巫女の中で、最も強い聖なる力を有しており、役に入りきっていない姫に。

 男は、姫を手元に置けば死ねるのではないかと考えた。


「自分の為に誰かを欲したのは初めてだった」


 話を終えた男は何処か満足げに笑っていた。一方で、姫は様々な感情に心を支配されて一言も発せずにいた。


 何の反応も返さない姫が、気を悪くしたとでも思ったのだろうか。男は、姫が如何に素晴らしい巫女で、可愛らしい妻であったかを伝えてくる。

 その全てが過去形にされているのが、姫の綯い交ぜな感情から怒りを突出させる。それでも男の境遇を思えば、ぶつけることなんて出来そうになかった。


「君と過ごした日々は、この数百年で最も楽しかったかもしれないな」

「そんなの、わたくしだってそうよ!」


 いい加減黙りを決め込んでいるのも限界になった姫は、傍らの椅子から寝台に身を乗り出す。

 同調しているのに言い返しているような剣幕に、男は「全く、元気な娘だ」と呆れた風に笑う。初めて、男との年齢差を感じた。

 姫の頬に男の大きな手が触れる。肌質だってこんなに若くて、男性にしてはきめ細やかであまり硬くない。なのに、どうして枯れた手よりも生気が感じられないのだろう。


 美しく微笑んでいた男が、不意に表情を引き締めた。

 告げるつもりはなかった、ただ共に日々を過ごしていただけなのに、良い歳をして単純なものだと。

 何やら前置きをした男が、弱々しい魔法を使って手中に青い薔薇を咲かせる。その薔薇を姫の銀の髪に差し込んで、「やはり、まだ惜しい気もするな」と形の良い眉を下げた。


「私は、君が好きだった」


 好き『だった』? 今は違うとでも言うつもりなのか。

 問おうにも時間切れだったのか、男は深い夢の中へと潜っていってしまった。



 男の告白から数日、あれから声も聞いていなければ、起きていること自体が少なくなった。

 医師によるとまだ耳は聞こえているはずだが、いつ最期の時が訪れるかという状態だそうだ。

 毎日男の元に城中の人々が訪れた。ほんの気持ちだけでもと、男を延命させる為に皆が魔の力を込めていく。

 こんなにも慕われている魔王が世界の何処にいるのか。


「あなたってほんと普通の人だわ。ただの善良な王ね」


 相変わらず、姫のめちゃくちゃな『ただの』にはしっかり睫毛を震わせる辺り、この男は笑いの底が浅い。何がそんなに楽しいのか、姫が話すだけでいつまでも笑っていそうだ。


 持ち前の気力で男に話し掛けているものの、食事もほとんど喉を通らない状態の姫の身体は日に日に衰弱していった。

 何せ、男の側にいるだけで毎日何十人もの魔の力を浴びている。想いの込もった力は強い。自分の力が永久機関ではないと身を以て教え込まれた。

 男もこの苦しみを味わっていたのだろうか。いや、姫が苦しいのは別の理由からか。

 目を閉じると男と過ごした思い出が蘇ってくる。


「あなたが、わたくしに毎日祈りを送っていたの、気付いていないと思っていて?」


 姫が力を酷使しても疲れにくくなっていたのは、外出を積み重ねて体力がついたからではない。男が人知れず癒しの魔法を使っていたからだ。

 他にも、いつ誰から聞いたのか、必ず昼食に姫の好物を混ぜてきたのを知っていた。「美味しいわ!」と姫が興奮する度、男は何が嬉しいのかご機嫌だった。

 大木に登って落ちた日は大変だった。

 見掛けによらず丈夫な姫は掠り傷を負っただけなのに、男が姫を抱えて医師の元へ走るものだから、次の日から侍女達に散々冷やかされた。


 花畑が現れた土地で走り回っていれば、いつの間にか花冠を拵えていて頭に乗せてくれた。

 姫の白銀の髪と青い瞳に映える色を選んだと、寒色で統一された花冠は貰ったその日から今も部屋に飾っている。枯れて色褪せていくのが、とてつもなく寂しい。

 あの青い薔薇も、瞬く間に散ってしまうのだろう。


 どうしてこんなに泣き出したい気持ちになるのか。分からないと思っていただけで本当はよく分かっていた。

 姫は毎日を共に過ごす内に、男のことを好きになっていた。男と同じ、そんな単純なことで男を愛するようになっていた。


「ねえあなた、わたくし達、本当に口約束だけの夫婦だったのね」


 確認してみれば、婚姻に関して書類も何も提出されていない状態で、男は元より姫を無事に帰すつもりでいたらしい。

 自分一人で何もかも決めて、挙げ句早々に置いて行こうとしているとは、何処まで勝手な男なのか。



 男との残りの時間を過ごしていたある日、城に勇者一行の三人がやってきた。


 まさか玉座の前で勇者達を出迎えるのが姫になるとは、両者共に予想だにしなかった結末だろう。

 姫が現れた途端に、騎士団長と魔導師は急いで剣や杖を納めた。勇者だけが何も手にしていなかったのに気付き、鞘に目をやると柄が見当たらない。

 聖剣を何処に置いてきたというのか。疑問に思いつつも、三人共が元気そうで姫は安堵した。


 姫と三人の間で他愛のない会話が交わされる。とても此処が魔王城とは思えない程、穏やかで優しい、ただ再会を喜び合うだけのもの。


「姫、私達が、姫が魔族達にしていたことを知らなかったと思っていますか?」


 最初に切り出したのは魔導師だった。

 そう問われて初めて、三人が道中の自分の行いを見逃していたのを姫は知った。

 旅の始まりから姫を甘やかしてきた三人だ。気付かれていたのは当然とも言える。


 三人が男から受けた傷に致命傷は一つもなく、転移させられた場所も王宮の敷地内であったお陰で回復が早かったそうだ。

 後に姫が何を思い悩み、何を成し遂げたいと願っているか、『魔王』の行動に強い違和感を覚えていた三人は必死で考えた。

 姫ならば、あの『魔王』の思惑を見抜いていたのだろうと、生まれついた常識を捨てるつもりで知恵を出し合った。

 そして、この旅は終わりを迎えたのだと。


「『魔王』なんて存在していなかったんですよね。僕達勇者は、ずっと聖剣の使い方を間違えていたんです」


 勇者が空になった鞘を姫に見せた。

 聖剣は最後の魔に侵された土地の前に突き立てて残してきたのだと。すると、忽ち聖なる力が土地を浄化していったのだと、勇者は語る。


「姫さんのお陰で全部終わって、人族と魔族はまた共に暮らせるようになりましたってところだ。長旅、お疲れさん」

「物語はめでたしめでたし……は、どうやらまだのようですね」


 全てが上手く行った。巫女として、勇者一行として、使命を全うした。『巫女』である姫の願いは叶ったが、姫自身の心は深く沈んだままだった。

 姫にとって一番大事なものが今、この世界から欠け落ちようとしている。

 強くあらねばと気を張り続けていたのに、三人の声を聞いていると堪え切れなくなる。


「……魔王を演じていた人は、もうこの世からいなくなるの」


 日に日に動かなくなって、人ではなく精巧な人形と化していく男を、姫は認めたくなかった。

 今に目を開けて下手くそな演技をしてくれるだろうと、表面上信じ続けていたから嘆かずにいられた。

 口にすれば現実となって迫ってくる。溜め込んだ分全てを放出するとばかりに、大粒の涙が溢れては視界を霞ませる。


「姫は、その人と共に生きていきたいのですね?」


 まるで幼子に語りかけるように、優しく魔導師が問い掛けてくる。姫も子どもようのに何度も首を縦に振る。


「なあ姫さん、男は生来死にたがりだが、愛した女を残して逝くのは忍びないっつー面倒臭いもんだ」


 姫が気になって死ぬに死ねないから、今世にしがみついてるどうしようもない男だ。と騎士団長は付け足す。

 魔導師と勇者も、「全く幼気な姫を泣かせるなんてとんだ甲斐性無しです。何百年生きててこれですか」「これじゃあ、王の元に無理矢理連れ帰るわけにはいきませんよね」と、男を批判しているのか姫をからかっているのか分からないことを言っている。


「姫、希望であり続けた唯一になら、最強を救うのは造作無いはずですよ」


 聖剣が選んだ勇者は、太陽そのものの明るい笑顔で姫を励ました。

 何者にも勝るであろう光しかない笑みを前にして、姫はとても泣いていられなくなる。これが女神の選定の正確さかと思わずにはいられない。

 不思議なものだ。彼等三人と姫が旅をしていた時間は、男と各地を浄化していた時間よりも遥かに短かったというのに、どうしてこうも、仲間達の言葉は勇気に変わっていくのだろうか。

 つい先程まで暗澹たるものが胸の内を占めていたとは思えない程、底知れぬ力が湧いてくる。


「そうよね。全てを救ってこそ、女神に聖なる力を与えられし巫女姫だもの」


 いつもの元気な姫に戻ったのを見届けた三人は、各々「婚姻の儀には是非友人代表で」「姫の花嫁姿、楽しみですね」「動き出したらあれだが、麗しいのは間違いないからな」と先の予定の話をしながら踵を返していく。

 三人への感謝の言葉が口を突いて出ようとするが、まだ巫女姫として、男の妻としての仕事は終わっていない。

 


 急いで男の元へと戻ってきた姫は、男の手を握ってはこの数日の文句を一から十まで連ねていった。

 何も知らなかった自分に、巫女である以外の喜びを教えておいて、役目が終わったら一人で旅立とうなんて、どれだけ勝手なことなのか。

 言い逃げは幾らなんでもずるくはないか。どうしてこんなに寂しくて悲しい思いをしなければならないのか。

 再び込み上げてくる涙を飲み込みながら怒りを吐き出していると、静かに眠る男の睫毛が揺れる。一応、まだ届いてはいるようだ。

 

「あなただけに影響があると思ったら大間違いだわ」


 事実、姫の体調が悪くなり始めたのは最近のことではない。あれだけの期間、魔に浸された土地にいたのだから、唯一とてたまには負けている。


 滑らかな白磁の肌に濃密な黒の睫毛、死に際であっても艶やかな黒髪。

 姫の銀髪は栄養失調で傷みつつあるのに、一体どういうことなのか。本当に死ぬ気があるならもっと劣化してみせてほしい。


 男の身を蝕む聖なる力、姫の身を巣食う魔の力。取り替えて元の場所に戻せば、この男の魂は現世に縫い止められるだろう。

 姫はいつも浄化をする時のように、男に向かって手を翳した。だが、魔の力自体の送り出し方が分からない。魔法を使うのとは展開が違う。

 どうにも方法が思い付かない姫は、静かに椅子の上に腰を下ろして男に語りかけた。


「ねえ、あなたが起きないから、もう全部終わっちゃったのよ……? 何も見ずに逝くつもりなの?」


 仲間達が自分達の代わりに最後の土地の浄化を終えたこと。聖剣は土地に突き立てるのが正しい使い方であったこと。

 また人族と魔族が仲良く暮らせる国が戻ってきたこと。

 順を追って聞かせながら、「二つに割れた国を統合するのに、これからの采配を振るのに、わたくし達二人とも必要なのよ?」と念を押しても男の反応はなかった。

 ほとんど時間が残されていない。


「わたくし、あなたが好きなの。あなたと毎日美味しいものが食べたいわ。これからの行く末を、一緒に見たいの」


 もう姫の告白が男に届いているのかも分からない。

 魔王ではなく眠り姫になってしまった男の姿を見ていて、ふと脳裏にその言葉通りのお伽噺が過る。結末の呪いを解く方法を思い返す。何故、今こんな夢の物語が脳内を巡っていくのか。

 これが天啓だというのなら、姫には縋るしか道はない。


「……魔王と勇者の物語より、わたくし達の方がお伽噺みたいね。わたくしからなんて、これっきりよ」


 覚悟を決めた姫は、髪を耳にかけて、男の唇に自分のそれを重ね合わせる。

 魔を移すように、聖を取り返すように。

 不思議な程に身体が軽くなってきた頃に離れると、男の白皙に血色が戻ってきているのを見た。これ以上ない安心感に包まれて脱力する。

 泣き出してしまう姫の頬に、さ迷いながらも男の手が添えられる。


「おはよう、あなた。もう少し付き合ってもらいたいの」


 姫がこの寿命を終えるまで、いつか語り継がれる物語の幕引きまで。


 長い睫毛が持ち上げられた先で、紅い瞳が優しく細められる。男は呆れの滲む笑みを浮かべ、「仕方がないな」と姫を引き寄せて唇を合わせた。





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