追憶〈黒〉
黒が師匠に引き取られたのは六歳位の時で、十二年位前の出来事だった、身寄りがない子供を育てる児童養護施設に預けられていたのだ。
その当時の幼い記憶は今や朧気だが、決して良い思い出では無かった。
自分を担当する人間が、外から見えないように痛め付け怒りをぶつけていたからだ。
「お前はゴミだ」と「引き取り手など来ない」と「一生サンドバッグだ」と。
その頃は全てが憂鬱で施設以外の世界など彼には無かった、まるで籠に閉じ込められた鳥の様だった。
いや、ストレス発散の為に痛め付けられたり罵倒されていたのだから、その扱いはペット以下だったのだろう。
里親が決まり去っていく子供達が居る中で、黒だけはその陰鬱な表情を理由に引き取られる事は無かった。
そんなある日、黒の元に男がやって来た、黒い外套を羽織り少し伸びた黒髪の男だ。
「よぉ!」
初対面から馴れ馴れしい返事をしてくる。
それに対して黒は黙って礼をする。
「お前さん、名前は何って言うんだ?」
黒は押し黙っていた、その頃の名前は全然覚えていなかった、と言うよりはゴミだのクズだのばっかり言われて、自分の名前への実感と言うものが全く無かったのだ。
「そうか…」
男は目を閉じ少し考えると、こう言った。
「んじゃあー、お前の名前は今日から黒だ、此れからは黒と名乗れ」
そうして男は黒に笑い掛ける。
「黒…」
黒は初めて自分の名前を口にする。
「あ!そうだ忘れてた!」
そして、急に思い出したかの様に言う。
「君が良ければの話なんだが…」
そう切り出して男が話を始めた「自分の弟子に成らないか」と、もしかしたら命に危険が及ぶかも知れないから此れは任意なのだとも。
黒にとって今の環境は死んだも同然だった、例え血ヘドを吐くような思いをするとしても、例え命を危機に晒す事になったとしても此の話は好機に違いなかった。
だから黒の返事は当に決まっていた。
「僕…成ります、貴方の弟子にしてください!」
しっかりと、そしてハッキリとした宣言だった。
「そうか!」
そう言うと師匠は笑顔になり黒の頭をワシャっと撫でた。
「よし、じゃあ手続きとオマケに一つやる事あるから此処で待っててなー」
そう言い残し男が居なくなって、暫くして帰ってくると男の拳には何故か少量の血が付いていたが黒は何も尋ねなかった。
「ほれ、行くぞ!持ってくもんあったら忘れんなよ?」
黒が師に引き取られてからの修行は相当に過酷だった、自身でもかなりの覚悟をしてきたつもりなのだが、実際にやってみるとそんなレベルでは無かった。
まず最初に受けたのは力の継承の儀だ、彼らが持つ干支の猫の力は血筋を受け継いでいく正式な十二衆とはまた別物だ。
継承が可能な人材を探し出し、力を与えて後継者を育てる。
その儀式自体は直ぐに終わるし、さして問題では無い。
師が黒の額に儀式用の血印を書き呪文を施す。
それが終わると黒の眼球には耐え難い痛みが襲った、失明するのでは無いかと思う程の痛みが三日三晩続いたのだ。
そして痛みが引くと直ぐに修行に入った。
最初は初歩の初歩、木刀を持って刀の振り方の練習、それに加えて徹底的にやったのが防御と受け身だ。
黒が木刀を構え、そこに師の打ち込みが何本も容赦無く襲う。
「怯むな、直ぐに立て、躱せそうなら避けろ!」
手や足や額、どんなところにも攻撃が放たれた。
「敵は待っちゃあくれないぞ、死にたくなかったら歯を食い縛ってでも直ぐに立て!!」
師が言うには、この敵の攻撃に対する守勢の修行と言うのは三つの大事な段階が在るらしい。
一つ目はまず「躱」攻撃を受けないことだ、躱せる攻撃は躱す、当然の事だが当たらなければどんな攻撃もどうと言うことはない。
二つ目は、「防」攻撃を受けてしまってからダメージを最小限に食い止め致命傷を負わないように守ることだ、この場合致命傷になりえそうな箇所を守るためならば手足を盾にしてでも守らなくてはいけない。
そして最後の三つ目は、「耐」攻撃を受けて怯み次の行動が出来なくなる事「是即ち死」だ。
兎に角自身が動ける内は、どんなに痛みが走ろうがどんなに苦しかろうが次の行動をしなくてはならないのだ。
当たり前だが生死のやり取りには相手の動きや間合いを常に気を払う必要があり、この三つを怠れば未来はない。
この荒行を数週間やると、段々と師の大振りの攻撃が分かるようになり躱していける様になってきた。
それに合わせて躱すのが難しい攻撃の場合は、木刀で防ぎ、それすら間に合わなければ手足を盾にしてでも防御する。
「クッ」
「お!やるな、今のを見切ったか」
師が少し驚いたようにして感心する、その反応を見て黒が少しドヤ顔をしようとする。
「が、甘いな」
先程よりも更に速く鋭い一撃が襲ってきて、黒は躱す事も防御行動すら取れなかった。
辛うじて取れたのは、直ぐに立ち上がり姿勢を構え直して次の行動に備える事だけだった。
「良しおめでとう、今日から一段階難易度アップだ」
ニヤニヤと笑うその師の言葉を聞き、黒は心底絶望した。
師はまだまだ幼い黒のレベルに合わせているだけだったのだ。
そして、また半年程経つと守勢の修行だけでは無く、攻勢の修行も始まった。
攻勢の修行は、より実戦に近い形にする為に真剣を用いて行った。
しかし、此方の修行は守勢とは逆で黒は打ち込めるが、師からの攻撃は一切無い。
最初は「真剣の刀でやって大丈夫なのかな」と心配した黒だったが、それを察知した師に言われた。
「今のお前にゃ、片手で目を瞑ってたって殺られやしないよ」
そして宣言通りに片手で目を瞑りながら木刀を扱う師に、悉く「躱され、往なされ、弾かれた」のだった。
疲れ息をつかせて倒れ込む黒に師は言った。
「良いか、命を掛けた闘いに卑怯も何も無い、打ち込む時には極力気配を消し不意を突け」
師が言うには、黒が打ち込む時に気配が駄々漏れているらしい。
そうして約五年程経ち、黒は齢十一になり基礎的な戦闘技術と身体的能力を得た。
その頃には師から「自炊も出来るようになれ」と言われていて色々と料理にもチャレンジしていた。
ある日の晩御飯でハンバーグを作った黒、それを食べた師匠は旨い旨いと大絶賛していた事があった。
どうやらこの男の好物はハンバーグらしい。
そして、黒の齢が十二の時期になると眼の力の発現の修行になった。
此れまでの修行の最中で軽く発現する事も何度かあったのだが、今回からはそれを任意で制御する技術を覚える事になる。
この齢にもなると黒も理解が早く、更に自分でも考え、工夫すると言う事が出来るようになっていた、その為に一ヶ月程で会得する事ができた。
「良いか黒、眼の力には幾つかの種類がある、此れからの修行で使用していき少しずつそれをコントロール出来る様にするんだ」
「はい!」
「それとな」
そして、師は此処まで成長した黒に感慨深げに言い続けた。
「今日からお前にも仕事について来て貰おう」
師の仕事、それは異能力を使って傷害又は殺人を犯した人間達の逮捕や処刑だ。
要するに異能力者が関与する事件への解決を担当をする、とても責任のある仕事だった。
「はい!」
とても緊張していたのだったが、黒は少しでも師の実力に近付けると感じて内心嬉しいと思いながら返事をした。
「まっ、まだ暫くお前は雑用兼見学だけどな!」
そう言うと黒の髪をグシャっとした。
黒は師が仕事の日に事前に装備の用意をしたり、同行して現場に出入りし、そこの雰囲気を掴む事が課題になった。
そして、仕事の最初に黒が師匠と一緒に行ったのは志士本部の犬養のところだった。
今でこそ犬養とは軽いやり取りをするが、当時の黒は師匠以外の大人と接すると言う機会が全然無かったのでとても緊張していた。
師匠が数回ノックをして、返事を聞かずにドアを即開け放つ。
「よぉー、峰司!」
とってもフランクだった、つい先日に副総長に就任したと言う相手に対する態度では無い。
「ったく、お前は本当に…」
少し呆れた声で帰ってくる返事。
そして、師匠と黒を見ると少し驚いた顔をしてから握手の手を出した。
「そうか、君が…黒君だね、ちょっと君の師匠の呼び名もあって、ややこしい事にはなっているが、これから宜しくな」
黒はコクりと頭を下げ、その握手に答える。
そう、ややこしい事と言うのは「黒」と言う呼び名についてだ、志士の中でも特殊な猫の者達。
それは彼等が血縁に依ってでは無く、師弟制によって代々役目を継いでいくものだったからだ。
そして「黒」と言う呼び名はその当時の猫部隊現役、又は師の位置に当たる人間が名乗る習わしとなっていた。
その事情があるのにも関わらず、此の師匠は引き取った少年の真名を「黒」にする、と言うややこしい事にしたのだ。
「正直に言って…、黒って呼んだらお前ら二人から返事が来るとかまどろっこしくて超めんどくせぇのは、俺は嫌だ!」
此れが、犬養の純粋で率直な感想だった。
「だから黒は黒で、お前は真名の龍儀で呼ぶ」
龍儀という名を出して師匠は、少し意味有り気に嫌な顔をしていた。
「まぁ、しゃーないか…、そこらへんややこしい事にしたのは俺だしな、その名はお前と黒だけが呼べば良い」
黒は此れまでに殆んどの場面で「師匠」と呼んでいた為、少し変な感じだったが、それを受け入れる事にした。
彼の名は末神龍儀、猫部隊の当主の称号「黒猫」を継ぐ人間にして黒の師匠で在る。
「犬養さん…それは本当に事実なんですか?」
黒には信じられなかった、師匠が誰かからあの様に恨まれる様な事をしたのかと。
「まぁ待て黒、少し冷静にな」
黒は知らず内に自分が、拳を握り締め歯を食い縛る様に言葉を発していた事に気付いた。
「結論から言えば、お前の師匠…龍儀は十五年前のイギリスの統轄域にて作戦を実行した人物に間違いない」
犬養の情報元は当時の機密情報に関する物で、その詳細が明確に載っている物で在った。
「そして、その作戦内容が今回の相手、夕霧クロエと拗れる原因だった様だ」
犬養に拠れば、当時の世界情勢下に於いて各国での特異危件に関する連携が取れない時期であった。
クロエの父方の夕霧家はその昔、五大名家と呼ばれる程までの地位だった。
それは世界大戦が始まる前の裏の歴史であり、今のように干支志士が中心となって治安を守る以前の話だ。
その事により夕霧家では代々に渡り一族の復権を望む教育が施されていた。
クロエの父「夕霧光弘」は勿論の事その教育を父から受けて育った、夕霧の一族は女系に異能力が引き継がれる。
そんな光弘の母は彼を出産した時に亡くなり、他に兄弟姉妹も出来なかった為に、父は一族と妻への責任感からも厳しく彼をしつけた。
そしてまた、光弘自身も一族の為に能力を使えない自分がどうすれば良いのかと考え、ひたすら剣技の研鑽を積んだのだ。
若くして夕霧家の頭領となり、一族復権の野心を抱く青年がそこには居た。
そんな折りに父親が縁談を持ってきた、その相手こそクロエの母アリス・グロブナーだ。
本国に於いてのグロブナー家も夕霧家と似たような境遇にあった。
そこで、両家の娘と息子で結婚させて強固な協力関係を結ぼうと言う訳だったのだ、それは俗に言う「政略結婚」の様なものだった。
「でだ、此処にその当時の交渉に関する連絡を録音したデータがある」
犬養はノートパソコンを出してそれを軽く叩いて見せた。
「こ、これは…」
そのパソコンを起動して音声を再生して貰い、その内容を聞いた黒は驚愕の事実を知る事になった。