対
廃棄倉庫の晩を逃げ果たせたクロエと両字は各々に隠遁する事となった。
両字は粗野なアパートの一室を、殺し屋業界のツテを頼りにしとても安くは無い金を積んで借りた。
「見事な程自分にそぐう部屋だな」と両字も我ながら皮肉ってしまうような酷い場所だった。
四畳程の和室に水垢がこびりついた流し台、荒れた畳目が補修もされていない風呂も無く、トイレも部屋を出て共用だと言う有り様だ。
こんなジメジメした粗末な部屋でも各地に放たれている目を掻い潜るにはとても重要な場所だった。
ボスからは警備員の付いた高級ホテルを手配すると言われたが、それならそのホテル分の金を積んで欲しいと断ったのだ。
「飯くらいは豪勢に行くかねェ…」
部屋の端に適当に放っていたジュラルミンケースの中から札束を出し適当に数枚の一万円札を抜き出しジーパンのポケットに突っ込む。
旨い焼肉屋へでも行こうと夜の街に消えていった。
一方、もう一人の殺し屋クロエは叔父である人物の幾つか所有する邸宅の一つに居た。
付き人を寄越すと言われたが一人が良いと断った、先程叔父の部下に届けられた幾つかの荷物を解いていた。
その中の一つの細長く分厚い黒和紙の箱を開ける。
「やはり此れが無くてはな…」
箱の中にあったのは黒色とは対照的な白柄白鞘の日本刀だった、クロエがチャキっと刀の鯉口を切り少し抜き身にする、その刃文は綺麗に波打ち輝く様な煌めきを放つ、「白霧」それは間違いなく名刀の類いであろう。
「父様…」
目を閉じた彼女は決意の固さを再確認するように納めた刀を固く握り締め呟く。
そうして一人静かに佇んでいるとスマホの着信音が響きクロエはそれに応答する。
「はい」
「おおクロエ」
電話の相手は叔父のアラン・グロブナーであった、彼は両親が無くなった後の彼女の唯一の肉親であり両字とクロエのボスだ。
グロブナー家は昔から代々と由緒のある家系であり表向きの資産家としての活動も上々だ、しかしアランにとって表の動きなぞ只の児戯に等しかった、だからこそ駆り立てた野心が燃え上がり裏の実質的な権力者へと成ろうとしているのである。
そして、それはクロエにとって殺された両親の仇を討つためには丁度良かったのだ。
「今回の件は申し訳あ…」
「いやいや、その事は大丈夫だ」
前回の廃棄倉庫での件を、改めて詫びようとしたがアランはそれを軽くに止めた。
「まさかお前たち程の手足れに匹敵する人間が居るとはな、そこらのチンピラとも只の異能者でも無いと言うことか」
件の襲撃者に関してアランは色々と考察を巡らす、常人相手は言わずもがな、クロエは何度か他の能力者ともやり合った事がある、そして生半可な能力者等は秒で淘汰してきたのが彼女なのである。
(そのクロエを退けたか…)
「私の詰めの甘さも有りましたが…」
反省と言うよりは後悔と言う色が付いた声音で言った。
「それでなのだがな、暫くの間計画に必要な人材を集めるために私は飛び回らなくてはならん、だから御前さんと来門にはもう少し働いて貰わなくてはならん」
そしてアランはクロエと両字の両名各々に、当面の費用として三百万円の現金と情報屋の手配をしたと言い渡した。
「はい、了解致しました」
返事をすると通話は以上で切断された。
アランが手配したと言う情報屋は、何度か仕事でやり取りをした事のある馴染みの相手だった。
クロエと両字はこれまでに日本以外の国を飛び回り数々の依頼をこなしてきた、ギャングの暗殺から紛争地各国の政府高官の傭兵や汚職疑惑の高官暗殺すらも経験した事がある。
そんな裏の仕事にも手慣れたクロエだが彼女にも最低限の信条の様なものがあった、まず「女性や子供は殺さない」そしてその二つに関連する黒い噂の絶えない人間からは絶対に仕事を引き受けない事だ。
彼女とて「平気で殺しを請け負う様な分際が何を今更に」と思われるのは重々承知している。
だがせめて少しでもそうしていたかったのだ、例えそれが精神的に逃げているだけなのだとしても。
そしてあの倉庫で目撃者の少年と対峙した時、その自分を消し去ってまで成し遂げるしかないとなったのだ。
此れまでの憎しみを仇に全てぶち撒け討ち果すまで絶対に野垂れ死ぬことなど許されないし、それは何処の何人たりとも邪魔させる事は出来ないのだと。
月夜の光が差し込む暗い部屋に一人で物憂げに佇む彼女は少し寂しげであった。
焼肉屋でたらふく肉を平らげた両字は居酒屋で酒を呑んでいた、両字は機会的にあまり酒を呑まない方だが今日は気前良くと言う感じだ。
「くぅ~、旨い」
ジョッキに入ったビールを一気に喉に流し込む、更に焼酎やらウィスキーやらまたビールやら色々と注文をしグビグビと流し込んで店を後にする。
両字の身体はその能力に依り頑強な作りになっていて、毒薬やウイルスそしてアルコールも含まれるおよそ体内に影響するものへの耐性回復が常人の十数倍程もあり、もし仮に両字に影響を及ぼす程であっても体内の臓器を強制的に修復するので数分間気を喪う程度で済む。
両字が酒をわざわざ呑まないのは多少の量では、ほろ酔いすらも叶わないからだ。
昔、個人で流れの用心棒をやっていた時、依頼者とその取引相手に食事に招かれ毒を盛られた事があった。
前菜から出されて最初の方は味に特別不審な点は無かったのだが、次々と出される料理を食していく中で段々と味に違和感と舌に少しの痺れを感じた。
どうやら最初に極少量の毒を盛ったのだが、想定外にも両字には全く影響が無かった、その為に焦った料理人は異変に気付かれるレベルまで毒の量を増やしていってしまったらしい。
勘づいた両字が真っ先に厨房に駆け込み料理人を鷲掴みにした、そしてその物凄い殺気を帯びた剣幕に料理人はあっさりと白状をした。
粗方両字を毒殺して排除した後に、ゆっくりと有力者である依頼人を拐かすなり脅すなりして有利に話を付ける腹積もりだったのであろう。
その後、直ぐに連絡した依頼人の親組織が相手方組織との片をつけ、護衛の依頼が済んだ両字はその人からとても気に入られ感謝と組に入る事を誘われたのだが、「自分にはやらなければいけない事があるから」と断った。
そんなこんなで、常人ならとっくに酩酊し地面に伸びている程の量を呑んだ両字なのだが、彼にとっては只のほろ酔い気分で夜の街を闊歩する。
両字は拠点とする場所を抑えられたり、多勢の軍勢に計画的に襲撃される事を常に警戒している。
格闘や拳銃精度、攻撃に関しては常人の域を出ない彼だが、クロエが『攻撃特化の矛』とするならば両字は間違いなく『最強格の盾』だ。
そしてその最強の盾が一番恐れているのは行動を封印される事であり、敷いてはその要因になるのが多勢の実力者達による拠点襲撃なのだ。
倉庫の件からまだ日が浅い今なら、寧ろ"あの連中"も少数での動きや情報不足で動く可能性が高い。
もし此の一人歩きで相手を返り討ちに出来れば、それはうってつけの囮になると言うわけだ。
そんな両字が酔いの上機嫌で歩いていると、街道から逸れた人気の無い裏道の方から声がする。
いかにもガラの悪そうな男達の声が数人分聞こえてきた、多分誰かを脅迫する様な文言だろう。
いつもなら首を突っ込まずに無視していく両字だったが、今日は酔いの興が乗っていた為に自然と声のする方へと足が運ばれていく。
街灯が薄く照らす暗い夜道に、寂れたそこそこの広さの駐車場、ほぼ駐車している車もなくそこに不良らしき男達が四人、そしてその輩に絡まれているのであろう男女のカップル。
「俺らさー、楽しく遊んでくれる相手が欲しいんだよねぇ~」
「オラァ!死ねよッ!」
数人掛かりで、男一人の顔や身体を殴る蹴るのリンチをしている。
「止めて下さい!!本当に死んじゃう!!」
そして彼女の方は泣きながら、彼氏をこれ以上傷付けないでと嘆願する。
「だ、ダメだよ…僕は大丈夫だから、~ちゃんは早く逃げて…」
ヨロヨロとした足取りで不良達にサンドバッグにされながらも、身を呈して彼女を守ろうとする男。
「愉しいねぇ~、無様に許しを乞う姿が堪らな~い!!」
虐めを楽しむ男達の下卑た言葉。
成る程、周りに住宅はなく無人の施設や騒がしい店が目立つ、辺りの濃暗よる人気の無さと、街路の人通りの喧騒で多少騒いでもバレない事を狙って用意周到に襲っている訳か。
(ったく…折角上機嫌だったってのに、胸糞悪い奴らだぜ…)
此処で首を突っ込む義理もないが、両字にもそれなりの信条と言うものがあった。
酔ってフラついた真似をしながら、女子の身体を抑えていた一人の男にぶつかる。
「おっと、悪いなぁ暗くてぶつかっちまった」
わざとだ、今一番に自分にヘイトが向く様にわざとらしく大仰に言う。
「あ?気を付けろよオッサン!」
直ぐ様食って掛かるが、両字が謝った視線の先は不良ではなく女子の方だった。
不良なぞ端から眼中に無しと言う煽り、それに対して怒気を放つ男が女子から手を離し半端な姿勢で殴りかかる。
こう言うときは加減が中々に難しい、こいつ一人を圧倒的にのしてもリンチしている男子を益々痛めつけ様とするだろうし、逆に余りに弱く出て見せるとヘイトを上手くを買うどころか土台で相手にされない。
ならば相手からの顔面への攻撃をまぐれの様に一撃だけ手で受け止める、そして二発目の腹部への攻撃は敢えて受け、そのまま当て身で男の身体を押し返しふっ飛ばす。
痛みがないわけでは無いが、今日はアルコールが入っているお陰だろうか幾分の痛みが抑えられている。
すると他の男達がいきり立つが、それを見ていたリーダーが飛び掛かろうとするのを制止した。
「あんた何者だ?厳つい見た目してるけどヤクザか何かか?」
「安心しろよぉ、別にそこいらとは関係ねぇぜ?」
これは相手に警戒されないように言った、事実アウトローの人間ではあるが、この事自体は嘘ではない。
「お前ら暇なんだろ?なら俺が代わりに殴られ役してやるよ」
これは上質な釣り餌だ、ただの弱い相手ではなくそこそこ実力の有る奴を一方的に痛めつけられるという。
その言葉を聞くと、リーダー格とおぼしき男が壁に押し付けらた人質の首から手を離す。
「へーオジサン、面白い事言うね」
にやけた顔が隠せないと言う雰囲気で、身体を動かし此方に向き直す。
両字は解放され地面に項垂れた男子に寄って話す。
「此の御時世に身を挺して彼女を守るとは兄ちゃんホント大したもんだ、此処は引き受けるから御前らは急いで逃げろ」
「あ、有り難う御座います、離れたら直ぐに警察に連絡します…」
男子は不良達に聞こえないようにトーンを抑えて両字に申し出た。
が、「いや要らないぜ、寧ろ呼ばれると俺が困る」そう言うと両字は男子の背をそっと押して促す。
静かに二人が去ると周りの男達が殺気立つ、先程両字に押し飛ばされた男は特に彼への意趣返しに燃えている。
「十分だ、十分間殴られてやる」
殴られている間に破けないようにジャケットを脱いで壁に掛け、自分のゴツい両の掌をパッと開いてアピールする。
「此の御時世で、他人の為に体張るオジサンも中々イカれてると思うけどね」
リーダーがそう言い両字に向かって黙って指を指すと他の三人の男が掛かる、一先ずは様子見と言ったところか。
顔面、腹部、脚部、どの部位もところ構わず、そしてパンチでもキックでも手段も構わず乱打する。
それに対して両字は両腕で必要最低限のガードを繰り出し、たまに避けると言う行動をとる。
(思った通り、此の三人は只の素人だ…)
三人の威勢だけは良かったのだが、四、五分も経過すれば息は切れぎれで殴る拳の方が痛くなってくる。
「何なんだよ!!」
「ありえねー…」
膝に手をついて悪態をつくので精一杯だった。
「終わりだな」
終幕の一言だったが、不意に両字の顔面を目掛けて鋭いストレートが打ち込まれる。
(おいおいおい!)
モロに衝撃を受け、その衝撃で口内を切り口から少し血を出す。
「クッ…、やっぱりな」
手の甲で口元の血を拭いながら言う。
「次は僕が遊ぶ番だよ!オジサン!!」
明らかにさっきの奴等とは一味違う、身のこなしと拳の繰り出し方。
頭を狙った鋭いワンツー、そこを辛くも往なすと直ぐにボディーブローが襲う。
腹に当たるが、完全な衝撃が来ないようにヒットと同時に一気に飛び退き幾分か緩和する。
「やっぱり只者じゃねぇな、兄ちゃんよぉ」
「オジサンも良く躱してるよ」
こんなセンスの塊が掃き溜めに居る事にただただ驚く。
そして更に左右の揺さぶりを狙ったフックを交互に連続で繰り出す、真っ直ぐに出されるストレートと違って少し外に出るフックは到達速度が下がる筈だが相手の繰り出す拳は速さが全然劣らなかった。
完全に躱す事は不可能と即判断した両字は防御して耐える、その衝撃は皮を貫き肉や骨を痛める。
対して相手の拳は明らかに鍛えているもので、一朝一夕の物ではないと判った。
「その才能…勿体ねぇな、本当に…」
両字の言葉に相手は動きを止める。
「もしかして、僕の事を何処かから堕ちぶれたからこうなったとか思ってたりする?」
静かに両字に問う。
「てっきりそうかと思ったが、御前は良く有る話って訳じゃあなさそうだな…」
訝しげに両字は言った。
「ハハッ、そうだよ僕は兎に角誰かを殴りたくて壊したくて、自分からこうなったんだァ!!」
狂気的で、そして晴々と上気する笑顔がそこにはあった。
夢破れて才能をもて余す人間が掃き溜めで埋もれたり、邪道に逸れてアウトローに堕ちる、なんて話しはテンプレレベルに良く有る話だ。
だがこいつは違う、自らの才能を暴力と快楽に注ぐ人間だ。
「なぁ、御前中々やるみたいだしよぉ、俺も少し本気出して良いかい?」
そう告げると両字が構え直す。
「一方的に殴るのも好きなんだけどね、まぁ良いよ」
相手が両字の動きを一通り見て侮っているのは薄々感付いているし、悔しいがそれが事実だ、だが相手は知らない、両字の本領がそこでは無いと言う事を。
一気に攻めんと両字が顔面を目掛けて右ストレートを打つ、それを頭を横に反らし寸でで躱すと、相手はカウンターで両字の空いた右脇腹にレバーブローを打ち込む。
更に怯んだ両字の顔面に対して、だめ押しのワンツーを追撃しクリーンヒットさせる。
重々しく両字から動くと、相手はそれに合わせてステップで適切な間合いを取りつつカウンターを放つ、攻撃もさることながら回避も巧い。
「いってぇ!!」
両字が顔をさすりながら痛みの声をあげる。
「普通なら誰でも伸びてるのにオジサンしぶといね」
「俺はタフが売りだからな」と言いニカっと笑う。
先手を取っても無駄と言うことが分かったが、動かない事には何も変わらない、だから自分の"武器"を活かしていくことにした。
動いて動いて動きまくる、打って打って打ちまくる、殴られて殴られて殴られまくる。
それから両字は積極的に前に出て数十回の打ち合いになるが、悉く往なされ防御され反撃される。
相手も相変わらずの攻撃をするが両字の反則的なタフさと、素手での喧嘩で拳の耐久力が徐々についてこれなくなっている。
結局、前半の三人含め二十分間以上の時間が掛かっていた。
「そろそろ、おしめーだなぁ」
両字がそう幕を落とす。
「あんたこそ何者だよ、こんなにボコボコに殴られて立ってられるとか訳わかんねー、正義の味方気取りか?」
もう降参だと言わんばかりに座り込む。
その発言を聞いて、両字は「俺が?正義の?味方?」と大笑いをする。
「違うな、俺は自分のしたい事をしてるだけだぁ。此れまでも、此れからもな」
壁に掛けてたジャケットを羽織り両字が去ろうとする。
「あんたは殴らなくて良いのかよ?」
歩みを止めて両字は言った。
「へっ俺は、元々ズルしてるようなもんだからやんねぇよ」
「ハッ!」
一度もこんな化け物を相手にしたことの無かった男は、此の事実にただただ笑うしかなかった。
「ま、説教臭いのは嫌いな俺だがよぉ、お前の力の使い道を変えたら、今よりもっと気持ち良く思えるかも知れねーぜ?」
身体の所々痛む場所を擦りながらそう言い残し、街路の方へと姿を消していった。
(ったく、本当は寸止めで格好つける予定だったのに想外で狂ったぜ、あーあだっせぇな俺…)
「無理だ…俺には柄じゃねぇーよ、冗談言うなよオジサン」
両字が去った後、男は疲れきった身体を仰向けにして独り呟いた。