日常
慣れない事がバタバタと続いたその翌日、黒は朝の6時ちょっと前には起きて顔を洗い歯を磨き、朝の目覚ましに珈琲を淹れリビングに座る、寝転んだり背をもたれたりして只ボーッとしていた。
カンナの部屋からはちゃんと気配を感じる、今日は特段早く起こす必要も無いからまだ起こしはしない。
(なんというか、とても平和だ…)
平常時、いつ舞い込むか分からない任務に対応する為に待機・出動を繰り返し、例え任務が無い時でも志士の本部に顔を出し己の修練を積むのだ。
修行期間に師匠と暮らしていた間でさえ、こんなにも気が抜けていた時など無いだろう。
特にする事もないしテレビでも点ける、交通事故や窃盗、殺人事件や時折挟まれる芸能界の事柄、そして国際情勢について等とニュースはいつも通りの雰囲気だった。
当たり前だが一昨日の倉庫の件等は一切報道されてはいない。
普通なら一晩であれほどの器物・建築物損壊が起きれば各メディアで一面大見出しの騒ぎになる、しかし公的機関からの根回しや志士の者を使えば常人では行えない手法で幾らでも世間から隠蔽できるのだ。
(まぁ、今回は幸いにもあの少年を除いて一般人にはあの現場を見られてはいない、放棄されたあの場所の管理者に金銭的賠償と公奉仕に準拠せよ的な話をつけたのだろう、元々使われなくなって廃れた倉庫だった様だし当の管理者からすれば棚から牡丹餅みたいな話だっただろうな…)
「ふむ、建築物の修繕もしくは撤去費用と慰謝料、加えて今年度分の固定資産税免除…位が妥当かな」
珈琲を啜りながら適当にテレビを流し観し、そんな事を考えていた。
そうこうして暫くダラっと過ごしているとカンナが寝惚け眼で部屋から出てくる。
「おはようございまぁーす、黒君」
ふわぁぁと欠伸をし目を擦りながら挨拶をする。
「おはよう、朝御飯食べたら出掛けようか」
「はい、歯磨きと顔洗って来まーす」
そしてカンナは洗面所へと向かった。
朝は軽めにスクランブルエッグと焼いたトーストにした、昨日と同じく美味しそうに食べてくれたカンナが「御馳走様でした」をするとおもむろに切り出した。
「黒君、私も料理出来るように成りたいです」
その急な提案に黒は最初驚いたが、カンナにも思うところがあったのだろうと考えた。
「分かった、じゃあ今日の晩御飯から一緒に作ろうか」
二人が支度を終えマンションの正面玄関から出るといつもの黒い車が止まっていた。
玄十郎がいつものように顔を出し黒に挨拶をする、それに対して黒も返すが今日はそれだけとは違う。
カンナが居るからだ、玄十郎はカンナにも丁寧に挨拶をし、黒の横に立つカンナも笑顔で玄十郎に挨拶を返すのだった。
本部に着くまでの道中に三人で少しだけ世間話をした。
玄十郎の普段の様子は寡黙過ぎると思うくらいの人間だったので、カンナと話す時の気さくな一面を垣間見て黒は内心驚いた。
「それでは、また後程に」
車を何時もの様に施設の正面入り口辺りまでに横付けし玄十郎が見送ってくれる、暫くしたら出掛け用にまた車を出してくれるらしいのでそれを御願いしておいたのだ。
資材搬入等の仕事に勤しんでいる一般職員達の合間を通り抜け、受け付けを済ませ、エレベーターで地下階に入る。
犬養の事務室のドアをノックするが返事が無い、二回しても返事がなかったので勝手に入る事にした。
昨日と同じ雑多に資料が置かれた机とその後ろにあるロッカーと資料棚、そしてお菓子が積まれた藁籠の来客用テーブルとソファー。
「犬養さんが不在とは珍しいな」
犬養は余程の事が無ければ現場には出ない、と言うよりは犬養が殆どの案件の指揮や割当てを判断する為、此処で犬養がどしっと構えて居なければ現場が困るのだ。
黒が少し考えていると部屋のドアが開く、入ってきたのは白髪で少し前髪が右目に掛かる程度のアシメショートの男子。
「やぁ黒君」
彼の名前は神子愁也一番隊子部隊副隊長であると共に現総隊長及び一番隊隊長を務める神子霊山の孫に当たる人間だ。
「あぁ、愁也君」
突然の来訪者に驚いた黒だったが、愁也の方は飄々としている。
「あれ?そちらの方は?」
愁也がそう言い視線を黒の後ろの方に移すと、黒の後ろにピタリとくっついていたカンナが顔を出して挨拶をする。
「えっと初めまして、カンナと申します…」
おずおずと挨拶をするカンナに対して爽やか美青年の愁也はレディキラーな笑顔で返す、カンナは直感的に照れとは少し違う緊張で黒の後ろに張り付いていた。
「初めまして、僕は神子愁也って言うんだ宜しくね」
彼の醸し出す色白で線が細く病弱そうな美少年の雰囲気は女性人気がとても高く、実際に彼に対して密かに想いを寄せている女性達が少なくないのも黒は噂で知っている。
容姿端麗、雅な家柄、そして副長の座と言う位置に見劣りしない程の実力者でもあり、黒は全てに置いて何も持たざる自分とは対極の存在なのだと常々感じていた。
ただ、愁也のその独特な所作や嫌みの無い人柄がと言うのもあり、黒はどちらかと言うと愁也を好きな人間に分類していた。
「犬養さんなら今少し外してるよ~」
飄々とした態度でそう言うと、黒が不在の理由は何故かと思ったのを見透かしたかの様に更に続ける。
「どうやらあの双子の問題児達が悪戯で犬養さんの珈琲に色々と盛ったらしくてね、さっき急いで給湯室に駆け込んでたよ」
「ああ…そりゃまた災難だ」
黒もその件の二人組に関しては心当たりがあったので同情を隠し得なかった。
「愁也君は何故此処に?」
「ん、コレを提出しておこうと思ってね」
多分重要なのであろう報告書類を、親指と人差し指で一摘まみにしヒラヒラと靡かせながら疑問に答えた。
「犬養さんもそろそろ戻って来ると思うし、僕は直ぐに帰るとするよ」
愁也は書類を机に置き、二人に「じゃぁねっ」と軽く別れの挨拶をして帰って行き、そして入れ違いの様にして犬養が戻って来た。
「よぉ、お二人さん」
見るからに窶れた様子で挨拶もそこそこに済ます。
「愁也君から聞きましたよ、散々な目に遭ったみたいですね」
犬養は崩れるように自分の事務机に倒れ込む。
「あれ程までに珈琲でカオスを醸し出せるとは…」
相当なトラウマを植え付けるレベルの物だったのが伺える。
「犬養さんも…何やら大変そうですね」
カンナが、今にも生き絶えそうな表情をする犬養に驚きながら気遣った。
「それはそうと、ほらカンナちゃん用の身分証明!」
そう言うと懐からカンナ用の身分証明書を取り出した、内容自体は適当に入れてあるのだが、公的な機関で正式に発行された物なので歴とした御墨付きの代物である。
「一応ちゃんとした所で作って貰ったやつだから、何処に出しても偽造とかで疑われるこたぁないから安心しな」
「有り難う御座います」
カンナが礼をそう言って受け取るが、身分証明書に載っている自分の写真を見て少し苦い顔をする。
「もっと綺麗に写りたかった…」
「ハハっ、写りが悪いって言うのは身分証明書の写真あるあるだな、外か見て普通に十分可愛いと思うけどなー、なぁー黒?」
犬養が「ちゃんと気を効かせろよ」と言わんばかりに黒に振る。
「えっ?うん、とっても良いと思うよ」
「本当ですか~?なんか心がこもってない気がしますよ?」
カンナまでもが自分が少し照れているのを分かってて、敢えてわざとらしく聞いてくる。
「くっ…本当に可愛いよ」
と勘弁してくれとばかりに目を合わせずに言った。
本当に犬養の全く真似てほしくないところを真似してきたもんだなと黒は思った。
「それなら良かった!」
しかし、彼女の悪い含みの一切無い純粋な笑顔に、それは只の杞憂だったのだと悟った。
「犬養さんは、もう少し反省してくださいね」
それに対して惚けた顔をしながら此方を見てきた、殴りたい…。
「んで話が変わるが、御前にコレを」
犬養は昨日の様に書類を2つ黒に渡した、片方はこれからカンナの諸契約に使う為事前に保護者署名入り済みにして貰った申込書、そしてもう片方は昨日の会議室でクロエと両字についての会話をした時に追加で調べて貰うように頼んだものだ。
「取り敢えず現状でそいつ等の事柄について直ぐに洗い出せるものは全部出してある」
「有り難う御座います」
「更に続きがあれば、随時お前に報告するが…」
そう言い犬養は少し表情を固くした。
「何か問題でも?」
「ん、まぁ今のところは問題ない、ただ俺の勘と言うか…少し違和感がな」
犬養にしては珍しく神妙且つ難色を示す表情をしていた。
「では、僕達はこれで」
それ以上は犬養も特段通達する事が無いだろうと判断し、黒達はその場を去ることにした。
「おう!じゃあなカンナちゃんも、二人共仲良くなー」
ヒラヒラと送りの手を振る、それに対してカンナは笑顔で「さようなら」と一礼をし黒に付いていった。
来た時と打って変わり慌ただしく作業に追われる職員達の合間を抜け、玄関に出ると黒い車が既に停車していた。
「黒様、カンナ様どうぞ」
今日は昨日行ったショッピングモールではなく駅沿いの商店街に向かう、其処に居並ぶケータイショップでカンナ用のスマートフォンを見繕うのだ。
「畏まりました」
行き先を告げると玄十郎は丁寧に返答をしゆったりと車を走らせる、目的地までの道中に三人は朝に観たニュースや通り掛かった建物の話題等と世間話を交わした。
常に寡黙で快適な運転をする玄十郎だったが賑やかなカンナが来てからは特に良く話してくれるようになった気がした、それに重ねて黒があまり自分から話題を振らない性格だったのもあったからだろう。
「お気をつけて」
駅を利用したい人と買い物に来た人達が混ざりあってごった返している、美味しそうな匂いを醸し出す飲食店や華やかなアパレルショップ、高級アクセサリー店から安価な小物を扱う雑貨屋まで様々な店が居並んでいた。
「此処も凄いたくさんの人が居ますね」
カンナは楽しいお出掛けだといった感じで言った。
「昨日のモールもお客さんが多かったけど、確かにこっちもいつも賑わってる場所だね」
二人は目的地に着くまでの散策を楽しんだ。
目当てのケータイショップでカンナ好みのスマホを選び、プラン選びやや書類の手続きをなんとかこなした。
お腹も空いた頃だったので二人は和食処「霜月」と言う店で昼食を摂る事にした。
「使い方は色々試してればすぐに馴れると思うけど、分からない事があったら幾らでも聞いてね」
嬉しそうに自分のスマホを持つカンナに黒は言う。
「はい!んーここをこうして…」
早速電源を入れて試している様子だった、黒もスマホを持っていたが仕事の専用回線機で使うかたまに大牙から連絡が来るくらいだったのでそんなに気にしたことは無かった。
「黒君の電話番号を教えてください」
どうやら料理が来るまでの間に説明書を見ながら初歩的な使い方を覚えたらしい。
「はい」
そう言いつつ自分の連絡先を画面に出してカンナに渡すそれを見ながら視線を交互に移しながらポチポチと打っていく。
実はこんなにアナログで甲斐甲斐しいやり方で無くても出来るのだが、スマホ初心者とスマホ無頓着のコンビだった為にこうなった、多分周りで知っている人間がいたらその光景に微笑ましく思っていただろう。
「黒君のここの番号面白いですね!9696でクロクロだー」
「えっ?本当だ…!」
今まで興味が無さすぎて気付きもしなかった自分の番号の語呂、カンナはそんな些細な事でも楽しそうに発見してくれる。
「よし、これで何かあった時に連絡できるね」
続けて黒が「迷子にならないし」と付け加えると。
「私は確かに自分の記憶が無いですけど、迷子になる歳でもないですよ、もぅ!」と頬を膨らませて反論した。
笑いながら御免御免と謝る黒、そうこうしている内に料理が運ばれてきて二人は食べることにした。
黒が注文したのは肉うどんと玉子とじカツ煮の定食、カンナは豚の生姜焼き定食にした。
「とっても美味しいです」
生姜焼きと御飯を美味しそうに食べ、熱い味噌汁をハフハフと飲み言う。
「美味しそうで何よりだよ」
黒も麺が伸びてしまわぬ様にうどんを先に食べ啜る、カツ煮の方も御飯と合わせて食べ進めていく。
御飯が食べ終った二人の元に良い頃合いで注文していたデザートが届けられた。
カンナが頼んだのは苺の冷製甘味(簡単に言うとイチゴパフェ)と抹茶きな粉餅。
どうやら先程の黒とは対照的にデザートの方に目がないらしい、カンナ曰く「デザートは別腹」だとかなんだとか。
黒も合わせて届けられた自分の水羊羮を食べることにした。
デザートも美味しく平らげて二人は「霜月」を後にした。
今日の主目的であるスマートフォンの契約は殆ど終わっていたので、この後をどうするかとかは特に決まっていなかった。
適当に歩いていると老舗であろう佇まいの書店を見掛けて黒が声をかける。
「此処で本でも買って行こうか」
自分の暇潰し用の小説とカンナが欲しい本を探すのが目的だ。
黒が選んだ物は剣客物のシリーズ小説「山海放浪記」と言う、昔から良く読んでいた本で久し振りに続編が出たと大きく宣伝POPが打たれていたのだ、この本は高名な師から剣術を学んだゴロツキだった少年が各地を旅し、色々な人との出会いや様々な経験を重ねて流浪の武士として成長して行くというストーリーだ。
お気に入りの本と適当に選んだ歴史物の本を数冊持って歩いていると、何冊か本を選び出したカンナが歩み寄ってきた。
「買いたい本選びましたー」
カンナが選びだした本は探偵物のミステリーやホラーミステリー等ナゾナゾ大全、兎に角謎が好きらしい。
そして、数種類の本の一つに「基礎から教える料理本」なる物があった。
どうやらカンナが自分でも料理を作れるようになりたいと言っていたのは本気だったらしい。
そんな健気なカンナに対して黒は内心微笑ましく思った。
「じゃあ、これで決まりだね」
此処でカンナに本を買ったのは暫く彼女と同行する上で必要な事でもあった、犬養は長期的休暇とは建前上に銘打っていたが数日に一度は本部にカンナを連れて参上し修練を積まなくてはならない、その間本部で待機しなくてはいけないカンナの為にも暇潰用の本を用意したのだ。
(そもそも現状の志士では人手が足らなくて緊急任務だってあるかもしれない、こうやって休暇待機なんて絶対に有り得ない筈だからな…)
犬養の言葉を信じていない訳ではないが、黒も志士の実状を知らない訳ではない、前線の一人として此れから起こり得ることをその肌に感じ取っているからだ。
後は今晩の夕食となる食材をいつものスーパーで買って帰るだけだ、勿論カンナと今朝約束した料理の練習も忘れてはいなかった。