第1章 還りし朱(5)
水面に雫が落ちる音と共に呪架の視界は開けた。
「ここは……?」
どこだろうか?
朱色の空の下、乾いた大地が果てしなく地平線まで続いている。ビルや鉄塔など、視界を遮る物はなにもない。そこには空と大地があるのみだった。
セーフィエルの声が世界全体から聴こえる。
《汝の遺伝子に眠る先祖を顕現させる。気を抜くでないぞ、精神界で死ねば現実でも死ぬぞよ》
蒼白い月のような哄笑が世界に響き渡り、セーフィエルの声は遥か遠くの世界に消えてしまった。
残された呪架は強烈なプレッシャーを感じて振り返る。
眼に焼きつくほど鮮やかに紅いインバネスを羽織った男の姿。魔導を帯びた特有の色香を漂わせる黒瞳が呪架を魅了していた。
男とは思えぬ妖艶な笑みを浮かべて、紅い男は艶やかな声を出した。
「傀儡士の基本は妖糸を操ることだ」
この声音は悪魔が乙女を誘惑するときに出す声だ。声そのもが魔性を孕み、ひと言ひと言が心の奥まで響く。
目の前の紅い男が人の皮を被った魔性の者だと呪架は感じ、不快な汗が全身から滲み出してしまっていた。
金縛りに遭ってしまった呪架の顔を輝線が掠め飛んだ。
それは紅い男が放った妖糸だった。
「妖糸は太さよりも質を重んじろ。より大きな力を細い糸に集約し、不可視に近づけることに意味がある。お前の業を私に見せろ」
呪架は紅い男を見据え、己の持つ改心の一撃を放った。
闇色をした蛇のような妖糸が紅い男を目掛けて飛ぶ。呪架は相手を殺す気で放った。
が、なんと呪架の放った妖糸を紅い男は片手で易々と受け止めてしまったのだ。
これには呪架も絶句した。
紅い男の掴んだ妖糸は霞のように消えた。
「力を細く集約しろと言うたのを聞いておらなかったのか?」
「そんなやり方知るかよクソッタレ!」
「もうひとつ、今のお前にはその妖糸は扱いきれん。早死にしたくなくば通常の妖糸で戦え、この意味はお前の躰が一番知っておろう?」
なんのことを相手が言っているのか呪架にはすぐ理解できた。
闇色の妖糸を使うたびに、躰の内から滲み出す疲労感を感じていた。これがただの疲れではないと呪架は薄々と勘付いていた。闇色の妖糸は呪架の躰を少しずつ蝕んでいるのだ。
紅い男は十本の指を軽く慣らした。
「通常の妖糸でも十分に戦えることを証明しよう。その前に、真物の傀儡士というものを魅せてやろう」
紅い男は十本の指を目にも留まらぬ速さで動かし、宙に奇怪な紋様を描いた――魔法陣だ。
宙に描かれた巨大な魔法陣の『向こう側』から、獣ともヒトともつかぬ恐ろしい〈それ〉の咆哮が世界に響き渡った。
世界を萎縮させる強大な力を持った存在が、魔法陣の『向こう側』にいる。
紅い男が語る。
「傀儡士は〈闇〉を操り、異界の者たちをもその糸で操る。そして、〈それ〉を使役することができれば、あらゆる望みが叶えられると云われておる」
〈それ〉の咆哮に合わせて馬が嘶くような声が聴こえた。
「観るがいい傀儡士の召喚というものを!」
大地を踏みしめる音と共に魔法陣の『向こう側』からニ角獣を飛び出した。
ヤギか馬のような四つ足の魔獣は、人間のような長い鬣を地面まで垂らし、その黒髪の間からは二本の角が鋭く伸びていた。
ニ角獣は前脚の蹄で地面を掻き上げ、鼻からは熱気を帯びた息を荒立てている。
紅い男が指揮者のように手を振ると同時に、ニ角獣は呪架に尖った角を向けて駆けて来た。
呪架は恐れることなく妖糸を振るう。
伸びた輝線は首を振ったニ角獣の角に弾かれてしまった。
歯軋りをする呪架に紅い男は優雅に舞いながら助言をする。
「ニ角獣の角はただ硬いだけではない。魔力の源がそこにある。二流の傀儡士には到底斬れぬ」
斬れぬと言われて引く呪架ではない。
斬れぬと言われれば斬って見せると心に誓う。
呪架は指先に意識を集中させた。
一撃に魂を込める。
ニ角獣の角がすぐそこまで迫っていた。
「喰らえ!」
呪架の手から放たれた煌きはニ角獣の角に当たり、蒼白い火花を散らした。
ニ角獣の動きが止まり、呪架は息を呑んで咽喉元を動かした。その咽喉にはニ角獣の角が突きつけられていた。
しかし、呪架とて報いていないわけではない。
一本は斬り損ねたが、もう一本は地面に転がっていた。
それを見た紅い男は大そうに拍手をした。
「ようやった。一本斬れれば上等。だが、私がニ角獣を操っていなければお前は死んでいたぞ」
ニ角獣は呪架の咽喉元に角を突きつけたまま動かない。けれど、髪の奥から覗く赤い瞳は呪架に凄みを利かせ、荒立てる熱い鼻息を呪架の顔に吹き付けている。紅い男が操り糸を解けば、呪架の首は大量の血を噴出すことになるだろう。
呪架はゆっくりと後退して、額の汗を拭うと紅い男を睨みつけた。
紅い男は呪架の気迫を軽く受け流し艶笑した。
「これが傀儡士の召喚術。傀儡士の技量があれば、どんな存在でも操ることができる。このニ角獣はほんのお遊びだ。さて、次は通常の妖糸のみで戦う戦法」
紅い男は宙に妖糸で目にも見える蜘蛛の巣を描く。
蜘蛛の巣を見上げていた呪架は躰に違和感を覚えた。肢体になにかが巻き付き、強引に蜘蛛の巣まで吊り上げられ、虫のように蜘蛛の巣に捕らえられてしまった。
「なにをする気だ!」
喚く呪架に紅い男が説明をする。
「基本動作として妖糸は斬る以外に、巻きつける、モノを操ることができる。そして、他にもお前を捕らえた〈蜘蛛の巣〉をつくることもできる。その妖糸は柔らかいために、粘着性がある」
〈蜘蛛の巣〉に磔にされた呪架は身動きひとつできなかった。粘着性があるどころか、鋼で躰を固定されたみたいに頑丈だ。
今まで動きを封じられていたニ角獣が急に暴れ狂い出した。紅い男が〈操り糸〉を解いたのだ。
角を斬られたニ角獣は憤怒し、前脚を高く上げて嘶き、紅い男に向かって突進して来た。
「熟練した傀儡士は同時に複数の妖糸を放つことができる」
そう前置きをして、紅い男は右手から放った三本の妖糸を縦に払い、左手から放った三本の妖糸を横に払った。
六本の妖糸はニ角獣を十字に斬り裂き、鮮血の雨が地面に降り注いだ。
細切れにされたニ角獣の肉片を見ることもなく、紅い男は上を見上げて〈蜘蛛の巣〉に捕らえられている呪架の顔を見つめた。
「今はお前に見せるために遅く妖糸を放った。これが私の秘伝〈悪魔十字〉。本来は六本同時に放つが、今回は三本ずつ放った」
その技を呪架はしかと見た。
妖糸は一本だけでも練るのが大変なのに、それを片手で三本。呪架は両手を合わせて二本が限度だ。しかも、左手から妖糸を放つことを不慣れとしている。今の呪架に〈悪魔十字〉を不可能だった。
傀儡士のことをなにも知らないと呪架は思い知らされた。自分の技はお遊びだった。召喚など知りもしなかった。
紅い男は新たな魔法陣を宙に描いた。
〈それ〉の呻き声が羽音と共鳴し、『向こう側』から蛾のシルエットが飛び出した。
蛾のような翅を持っているが、躰は灰色の毛を生やしたゴリラのようで、顔には大きく紅い昆虫のような眼が二つある。
蛾男と呼ぶべき怪物は鋭い嗅覚を働かせ、地上の血溜まりを発見した。肉塊にされたニ角獣が沈む血の海だ。
鋭い爪の付いた前脚を血溜まりに下ろし、蛾男は口からストローのような器官を出して血を啜りはじめた。
血は見る見るうちに吸い上げられ、蛾男は更なる食料を探して嗅覚を研ぎ覚ませた。
蛾男の眼が〈蜘蛛の巣〉に掛かった呪架に向けられる。
赤黒いローブが放つ死の香に誘われて、不気味な羽音を立てて蛾男が呪架に近づく。
躰が張り付いてしまっている呪架は逃げることもできない。
「クソッ!」
短く怒りを発する呪架。その耳に叫び声が聴こえた。
紅い男の前の空間が裂け、風を吸い込みながら叫び声をあげている。
闇色の裂け目。
その奥から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。常人であれば耳を塞がずにはいられない。
紅い男が蛾男を指さした。
「〈闇〉よ、喰らうがいい!」
裂け目から飛び出した〈闇〉が荒れ狂う風のように、絶叫しながら蛾男に襲い掛かる。
〈闇〉は触手のように伸び、蛾男の胴を掴み、足首を掴み、眼を覆い、やがて全身を呑み込んでしまった。
蛾男を呑み込んだ〈闇〉はそこら中を飛び交い、呪架や蘭魔が呑み込まれるのも時間の問題と言えた。
だが、紅い男が威厳を込めて命じる。
「自分の世界に還れ!」
〈闇〉は荒れ狂っていたのが嘘のように静まり、元来た裂け目の中に還っていった。
そして、閉じられる闇色の裂け目。
世界は何事もなかったように静まり返り、ニ角獣の肉片や血の一滴までもどこかに消えてしまっていた。
紅い男は両手から妖糸を放ち、呪架を捕られていた〈蜘蛛の巣〉を切り刻んだ。
地面に軽やかに着地した呪架は地面から顔を上げようとしなかった。
呪架の額から零れ落ちた汗が乾いた大地に染み込む。
あの〈闇〉こそ、呪架を『向こう側』へ連れ去ったもの。それを紅い男が見事に使役していた。
呪架の視線の先に紅い男の靴が見えた。顔を上げると紅い男が呪架を見下している。
「喰われたくなくば〈闇〉を決して恐れてはならぬ。逆に〈闇〉を恐怖させ、我が僕とするのだ。〈闇〉を従えてこそ真の闇の傀儡士と云える」
「俺にそれができるのか……」
不安は〈闇〉が付け入る材料だ。
呪架は静かに瞳を閉じ、心を鎮めた。
瞼の裏で泳ぐ残像。
『向こう側』に連れ去られたときの光景を呪架は頭を振って消し去った。
再び呪架が目を開けると、木の天井が見えた。
全身を濡らす大量の汗はソファにまで染み込んでいた。
呪架は精神界から現実の屋敷に戻って来たのだ。
ソファの上に寝かされていた呪架は上体を起こそうとしたが、内臓が激しく痛み、急な咳が襲い、口の中に鉄の味が広がった。
躰が〈闇〉に侵蝕されているのだと呪架は感じた。これは『向こう側』にいたときからだった。このまま闇の傀儡士として戦えば、その代償として命を削ることになる。
悠長に構えている時間はない。
口の中に広がる血を飲み込み、呪架は上体を起こした。
傍らにはセーフィエルが立っているが、その表情は月のように無機質なものだった。
「全て見させてもろうていた。傀儡が完成したら、今後はそれで戦うのが良いじゃろう。それで躰への負担は少し軽減されるはずじゃ」
しかし、呪架は召喚を知った、〈闇〉が操れることを知った。
まだ使い方や使役の仕方はわからず、今後の課題となったが、あの力を使うには〈闇〉に身を置くことになる。強力な力は大きな代償を必要とする。
その覚悟を呪架はとうの昔にしていた。
己の躰が滅びるのが先か、目的を果たすのが先か……。
時は流れを止めることなく呪架を闇に導く。