第1章 還りし朱(4)
敵意の消えたセーフィエルを呪架は屋敷に通した。訊きたいことが山のようにあるからだ。殺してしまっては口が聞けなくなる。
「初めから殺す気など毛頭あるはずがなかろう。汝の力量を知らんがためじゃ」
と、セーフィエルは語った。
客人など通したことのない応接室は埃が積もっており、とても客人を迎えられる状態ではなかったが、部屋に入ったセーフィエルが吐息を吐くと、部屋中の埃は窓の外へ飛ばされてしまった。
長い足を組んでソファに座るセーフィエルの向かいには、呪架が注意を払いながらソファに腰掛けている。
「なんの目的で俺に会いに来た?」
尋ねる呪架の瞳の奥を見据えながらセーフィエルは答える。
「こちらの方角から妾の血を感じた。汝じゃ」
「曾孫の顔を見に来ただけかよ?」
「曾孫……ひとつ気になることがあるのじゃが、確かめても良いかえ?」
「なんだ?」
「じっとしておれ」
ローテーブルを乗り越えてセーフィエルの顔が呪架の唇に近づく。
間近に迫ったセーフィエルの顔は、呪架の顔に触れることなく迂回した。
なんとセーフィエルは呪架の首元に歯を立てたのだ。
首に当たる柔らかい唇と、肌に突き刺さる硬く鋭い歯の感触。痛みは虫に刺された程度だった。
呪架の首から口を離したセーフィエルは血の付いた唇を艶めかしく舐めた。男ならば唾を呑み込んでしまう仕草だ。
相手の行動に噛み付くことなく呪架はセーフィエルの言葉を待つ。
眼を深く閉じているセーフィエルの顔は、賢人が宇宙の真理を紐解く瞬間に見えた。
「やはり……妾が感じていたのはこれじゃったか」
独り言を呟いたセーフィエルに呪架が問う。
「なにがだ?」
「汝は妾の曾孫であり孫じゃ」
「はっ?」
思わず素で呪架は口から言葉を漏らした。
なぜ呪架の祖母であり曾祖母であるのか、呪架には理解ができなかった。
「汝はなにも聞かされておらぬのか?」
「なんだよ、知らねぇよ」
「祖父母の蘭魔とシオンの話を聞いたことがないかえ?」
「つい先日に名前を知ったばっかりだよ」
この屋敷に残っていた資料からその名前を知った。蘭魔もおそらく傀儡士であったと思われ、シオンは愁斗の母であるということぐらいしか呪架には情報がなかった。
セーフィエルは宙を仰いだ。その瞳は愁いを帯びている。
「シオンもエリスも妾の子じゃ」
祖母と名乗り、曾祖母と名乗り、姉妹の母と名乗ったセーフィエル。その容貌は二十代後半にしか見えない。魔性の若さと美貌を持っているのだ。
セーフィエルの言葉を信じるのならば、呪架の父である愁斗はセーフィエルの子供であるシオンの子供であり、愁斗はのちに同じくセーフィエルの子供であるエリスとの間に呪架をもうけたことになる。
「近親相姦か……」
呟く呪架にセーフィエルは軽く答える。
「妾の一族では優良な種を残す為のごく当たり前の行為じゃ。下等な人間とは遺伝子の根本が異なる故、問題はなにも生じぬ」
これを聞いた呪架は急に笑い出した。
「はははっ、やっぱりな……お母さんは人間じゃなかったのか。なにか違うと小さい頃から思ってたんだ」
呪架はセーフィエルをひと目見たときから人間ではないと感じていた。セーフィエルが人間ではないのなら、その子供のシオンとエリスも人間ではない。つまり、呪架も純粋な人間ではないことになる。
ここで呪架は疑問を投げかけた。
「祖父は人間だったのか?」
「人間じゃった。のちに魔人となったがな」
祖父が人間だったならば、呪架の躰に流れている血の3分の1だけが人間の血だ。
残りの3分の2は何の血が流れているのか?
「人間じゃないお前は何者だ?」
「くだらぬ愚問じゃ。獅子が獅子であり、鼠が鼠であると同じこと。人間とは別の存在――便宜上、妖魔といふ言い方が良いじゃろう」
セーフィエルの黒瞳は呪架の瞳の奥から、なにかを読み取った。
「エリスの話を聞きたくないかえ?」
「俺の知らないお母さんの話か?」
「さて、それは知らぬが、重要な話じゃ」
「訊かせろ」
呪架は息を呑んだ。
「妾の娘子たちは遠い場所におる。帝都政府に幽閉されて居るといふのがわかり易いじゃろう」
「お母さんは死んだんじゃないのか?」
「死と消滅は意味が違う。消滅といふのはアニマまでも滅びること。肉体が滅びているだけならば、黄泉返りは可能じゃが、問題は娘子たちのアニマが降霊術では呼び出せぬ、〈裁きの門〉の奥に幽閉されているといふことじゃ」
「とにかくお母さんが黄泉返る可能性はゼロじゃないてことだろ?」
「蘭魔の傀儡と妾の研究していた〈ジュエル〉法を組み合わせれば器はできる」
その〈ジュエル〉法とは、呪架がこの屋敷に来てから成し遂げようとしていた方法だった。
しかし、それだけでは黄泉返りは不可能だ。
「じゃが、器を完成させても、肝心のアニマ――娘子たちを助けに行かねばならん。それに妾は傀儡をつくることができぬ。そこで相談なのじゃが……」
呪架は頷く。
「わかった、俺らの利害は一致してると感じた。俺のお母さんとおばの黄泉返り、そして帝都政府への復讐だな?」
「そうじゃ、そのために汝には器となる傀儡をつくって欲しいのじゃ」
呪架は復讐の相手がわかり、〈ジュエル〉法を開発したセーフィエルとの利害も一致した。
問題はまだ呪架に傀儡をつくる技量がないことだ。
「俺もお母さんを黄泉返らせようと、この屋敷にある資料を読んで傀儡をつくろうとしていたんだ。けど俺は傀儡士の業を誰かに教えてもらったわけじゃない、傀儡つくりが上手くいかないんだ」
「うふふ、妾は汝を気に入ったぞ。妾に見せたあの技は自ら編み出したものか、あっぱれじゃな。傀儡をつくる技量はあると見たが、それを教える者がおらぬのか」
「傀儡の原動力は〈闇〉だと書いてあったが、その〈闇〉についての知識も俺にはない」
呪架の傀儡士としての技は、すべて自らが生きるがために編み出したもの。荒削りで洗練されたものとはとても言えない。今の呪架には師が必要だった。
呪架は驚きで眼を見開いた。
有無を言わせぬままセーフィエルの唇は呪架の口を吸っていた。
口を離したセーフィエルが艶やかに微笑む。
「学んで来るが良い……傀儡士の業を」
ぼやける呪架の視界。蒼白いセーフィエルの顔が揺れている。
「俺になにをし……」
呪架の意識は闇の中に吸い込まれ、視界はゼロになった。