第4章 光に潜む闇(6)
蒼白い夜の世界が広がっていた。
生臭い黒土が広がる大地を冷たい月が煌々と照らしている。生命は寝静まっているのか、死んでいるのかわからない。この世界を包み込んでいたのは静寂だった。
その静寂を壊す呪架の叫び。
「なんで!」
ダーク・シャドウの傍らにいる少女の姿を見てしまった。
傀儡エリスの姿がそこにはあったのだ。
ダーク・シャドウに腕を掴まれ、必死になって逃げようとしているエリス。
「離して、離して!」
嫌がるエリスを助けようと呪架が駆け寄ろうとしたが、それは呪架の躰を掠めたダーク・シャドウの妖糸に制止させられた。
「おまえの戦うべき相手は私ではない」
無機質な仮面が向いた先にいるのは慧夢だった。
「他人に踊らされてる感じでイヤだな」
そう言いながらも慧夢はストレッチで躰を解していた。
この世界に連れて来られたときに、呪架と慧夢を拘束していた妖糸は解かれていた。
二人のために与えられた戦いの舞台。
誰にも邪魔をされない死闘。それはどちらか一方の死を持って終結する。
ダーク・シャドウは白い仮面を投げ捨てた。
「この戦いは素顔で見守る義務がある」
仮面の下から現れた険しい麗人の顔を見て慧夢は微笑んだ。
「やっぱりネ、生きてたんだ……父さん」
その言葉を聞いた呪架の脳に電撃が走った。
呪架は悟ってしまった。肉体は死んでいた。父――愁斗は自分と同じ傀儡に身を堕としていたのだ。
はじめて見る父の顔に呪架は複雑な想いを交差させた。
母と自分を残して消えた父。悲しみなのか、憎しみなのか、呪架は自分の感情がわからなかった。
ただ――なぜこんなことをするのか、わからなかった。
「……お父さん……わからないことが多すぎる……なんでわたしたちを置いて、お兄ちゃんを連れて姿を消したのか……」
「生まれる前から、おまえたち双子は呪われていた」
沈痛な面持ちで愁斗は声を絞り出した。
呪架はエリスからなにも聞かされていなかった。もしかしたら、エリスも知らなかったのかもしれない。
愁斗に育てられた慧夢もなにも聞かされず、ただ傀儡士としての技を叩き込まれた。
生まれる前から呪われていたとはいったい?
愁斗が淡々と語りはじめる。
「元凶は僕の父にあるが、新たな呪いを君たちに背負わせたのは僕の罪だ。生まれてくる双子は殺し合う運命にあると予言されていたんだ」
ではなぜという疑問を呪架がぶつける。
「俺たちをこんな場所に連れて来たのはなんでだ、俺らを戦わせるためだろ!」
「僕が運命に抵抗しなかったと思うのかい。君たち二人は傀儡士になると予言されていた。二人ともに技を教えないこともできたが、傀儡士しての業を後世に残す必用もあった。だから敢て僕は慧夢にしか技を教えなかった。なのに君は覚醒たんだ傀儡士として……」
それが生まれたばかりの双子が引き離された原因だった。
運命はさらに悲劇へと向かった。
「慧夢は帝都の手に堕ち、紫苑は帝都に牙を剥き、二人は争う結果となった。僕は運命に逆らうことを諦めた。これは僕に与えられた罰でもあるんだ、愛した人を裏切った代償」
そう語って愁斗は視線を落とした。
今からでも二人の戦いを止めることはできるはずだ。なのに愁斗は疲れ果てた老人のように動こうとしなかった。彼は心底から運命を変えることは不可能だと痛感しているのだ。
慧夢はすでに運命を受け入れていた。
「ボクは今の状況を楽しんでるからいいよ。強い者と戦えるなんて感じちゃうだろ。つい最近まで顔も知らなかった妹に思い入れなんてないからね」
しかし、呪架はここに来て心が揺れていた。
慧夢を血の繋がった双子だと意識しはじめてしまっていたのだ。
この場所には皮肉にも家族が揃ってしまっている。
幼い心に返ってしまったエリスの前で、血で血を洗う争いをできるのか。
エリスは静かに愁斗の腕に抱きついている。記憶を失い幼子になっていたとしても、なにかを感じているのかもしれない。とても哀しそうな瞳をしているのだ。
呪架は構えた。
ここで戦わなければ生きる意味を失う。けれど、戦いの果てにも生きる意味が残っているのか、それは呪架にもわからなかった。
惑う呪架の頬を慧夢の妖糸が掠めた。
「今のが戦いの合図だよ。ボクを楽しませてくれることを期待してるからねっ?」
「望むところだ!」
――本当に自分は戦いを望んでいるのか?
エリスの黄泉返りが失敗に終わったのは慧夢のせいだ。それによって呪架は激情と怨嗟に駆られた。
今は……呪架は慧夢に渾身の一撃を放つ。
一本の妖糸に全神経を注ぎ放った一撃を慧夢は軽々と躱した。
「殺しの一手は遊びの中に混ぜて使うものだよ」
慧夢の放った妖糸が呪架の足元を掠め、飛び上がった呪架に二本目の妖糸が襲い掛る。
空中では自由に体勢を動かすことができず、呪架は妖糸を放って迫り来る妖糸を相殺した。だが、二本目の妖糸は囮だったのだ。
六本の妖糸が同時に呪架に襲い掛かり、二本目を防ぐために使われた手は次の動きに入れず、残った手から三本の妖糸を放つことしかできない。
三本の妖糸が呪架の躰を切り裂いた。
腕と胸を軽く薙がれ錆色の液体が滲み出した。香りも血とよく似ているが、おそらくまがい物だろう。ヒリヒリするような痛みも感じた。ただの傀儡ではないと呪架は己を感じた。
呪架の製作者は真物の人間を創造するつもりで傀儡を創ったのだ。想いがこもっていなければ、こんな精巧な傀儡はつくれまい。
視線だけを動かし呪架は愁斗の顔を見た。翳る顔から表情を読み取ることはできなかった。
風が飄々と鳴り黒土の腐臭が舞い上がった。
土を踏みしめながら呪架が疾走する。
呪架の猛撃が開始された。
輝線が煌きを迸らせ連撃が繰り出され宙を奔る。
相手の妖糸を注視して慧夢も神速で技の応酬をする。
熾烈な死闘の中で慧夢の首筋が微かな血の筋を滲ませる。
呪架の赤黒いローブが徐々に刻まれていく。
刹那でも集中力を切らせれば、妖糸は死神の鎌と化して首を刎ねる。
濃密な鬼気が噎せ返るほどに充満していた。常人がこの場に居合わせれば失神しかねないほどだ。
慧夢の額から零れ落ちた汗が煌くと共に妖糸によって切断された。妖糸に切られ四散した汗が再び妖糸によって切られる。紙一重の攻防が繰り広げられているのだ。
魔鳥のように舞った呪架が地面に着地したとき、その足がぬかるんだ黒土に攫われてしまった。
眼を剥きながら躰のバランスを崩した呪架に、容赦ない妖糸の嵐が吹き付ける。
「ぐッ!」
歯を食いしばった呪架の左腕が回転しながら宙を舞う。
切断された痕から大量の紅い液体が爆発したように噴出し、黒土を赤黒く染めて泥濘を形成した。
すぐさま噴出す液体が止まったのは傀儡としての仕様だろう。
本物の肉体が受けた傷ではないのに、酷い痛みに呪架は襲われていた。戦いにおいて傀儡が痛みを感じるなど非合理的である。なのに敢て痛みが残されていた。
腕を切られた呪架を見る慧夢の眼差し優越感を湛えていた。
「もちろんまだヤるよね?」
「おまえが死ぬまでなッ!」
怯むことない呪架の闘志は紅蓮に燃えていた。
「そうでなくちゃ」
艶やかに笑う慧夢の表情がとても残酷に映る。
慧夢が三本の妖糸を放ち、呪架も残った腕から三本の妖糸を放つ。これで互いの攻撃は相殺された。
しかし、慧夢には残りの腕がある。
宙に描かれる魔法陣。
慧夢は呪架に攻撃を仕掛けると共に、残る腕で華麗な魔法陣を描いていたのだ。
魔法陣が激しい閃光を放った。
「光の遊戯に魅せられといい!」
慧夢の高らかな宣言に合わせて魔法陣の『向こう側』から、歌うように清らかな〈それ〉の声が心を震わせた。
〈それ〉の息吹は世界に花の香を運び、魔法陣の『向こう側』から翅の生えた乙女が顔を魅せた。
七色に輝く蝶の翅を持つ乙女は愛くるしい笑顔を浮かべた。『フェアリー』と称するのが適切かもしれない。
『フェアリー』は死の黒土を自由気ままに飛び交い、通った大地に色取り取りの花を咲かせていった。
瞬く間に辺り一面は芳しい花畑となり、夜だった世界に光が差しはじめた。
絶景ともいうべき世界に生まれ変わったのだ。
しかし、それは偽りだった。
花々が次々と枯れて逝く。
差しはじめていた光もどこかに消えうせ、夜の世界を紅い月華が照らした。
そして、『フェアリー』にも異変が起きはじめていた。
愛くるしい顔の下でなにが蠢いている。皮膚を喰い破って湧き出てくる蛆。乙女の顔は髑髏と化してしまった。
それを見て慧夢は艶笑していた。
「ボクは光属性に躰をつくり変えられた。けどね、心は深い闇のまま。光が正義だと誰が決めた? ボクが司っているのは偽善さ!」
慧夢は薔薇色の背徳を背負っていたのだ。
『フェアリー』の手は蟷螂のような大鎌に変貌し、髑髏の形相は死神を思わせた。
耳を塞ぎたくなるような絶叫をあげて『フェアリー』が呪架に襲い来る。
「死神が俺の命を狩りに来たか……」
邪悪な笑みを呪架は浮かべた。
刹那、呪架の手から放たれる妖糸の戦慄。
大鎌と妖糸が一戦交える。
勝ったのは大鎌だった。
けれど、呪架は動じていない。むしろ嗤っていた。
呪架の少し前方の地面が妖しく輝いた。
魔法陣だ!
呪架は慧夢に気付かれぬように、地面に魔法陣を描いていたのだ。
おぞましい〈それ〉の呻き声が世界に木霊し、怯えあがった『フェアリー』の動きが凍りついてしまった。
〈それ〉の呻き声は大気を振動させ、花枯れた死の荒野を震えさせ、おぞましい〈死〉をこの世に解き放った。
巨大な黒馬に似た怪物に跨る異形。黒く逞しい筋骨隆々の巨躯から伸びる太い腕の先には、投げ槍と蠍の尾でできた鞭を持っている。そして、皮膚の全くない頭蓋骨には王冠が戴いていた。
異界の〈ゲート〉を守っていると云われる者――それが〈死〉だ。
黒馬が嘶き前脚を高く上げ、〈死〉が槍を『フェアリー』に向けて投げつけた。
『フェアリー』の背を抜けて貫通する槍。
〈死〉の雄叫びと『フェアリー』の絶叫がシンクロした。
蠍の鞭が『フェアリー』の首を刎ねた。
地に転がった髑髏の頭部に湧いていた蛆が干からびて逝く。『フェアリー』が〈死〉に殺された。
慧夢は実に楽しそうだった。
「ボクもそんな子を召喚したいケド、ボクはこんなのしか召喚できないよ」
慧夢はすでに新たな魔法陣を宙に描いていたのだ。
魔法陣の『向こう側』で〈それ〉は〈死〉を慈しんでいた。
黄金の風が世界に吹き込み、魔法陣から巨大な純白の翼が飛び出した。その巨大さは他を圧倒しており、〈死〉の巨躯を遥かに凌ぐ大きさだった。
翼が大きくはためき、両方の翼が〈死〉を優しく包み込んだ。翼が〈死〉を呑み込んでしまったという方が正しいかもしれない。
〈死〉を呑み込んだ翼は魔法陣に『向こう側』へと還っていく。
呪架よりも慧夢が召喚においては優れていたようだ。
両腕を広げて慧夢は歓喜に打ち震えた。
「どうだい、カッコイイだろ?」
艶やかに嗤う慧夢は魔の手が迫っていることに気付いていなかった。
『純白の翼』が還った魔法陣はまだ消滅していなかった。まだ『向こう側』と『こちら側』が繋がっている。
魔法陣の『向こう側』から蠍の鞭が放たれ、広げていた慧夢の左手首を切り飛ばしたのだ。〈死〉の最後の抵抗だった。
慧夢は言葉では表せぬ狂気の絶叫を発した。
鮮血が噴出す手首を妖糸で縛り上げ止血し、髪の毛を汗でぐっしょりと濡らし、玉の汗を地面に溢し続けた。
「ボクの……ボクの手がァァァッ!」
慧夢の顔は幽鬼のように蒼白く変わっていた。
互いに腕と手首を失った呪架と慧夢。死闘は更なる苦境に進もうとしていた。
対峙する二人の間に死の風が吹き抜けた。
妖糸を放とうと構えたのはほぼ同時だった。
しかし、邪魔が入った。
「我が子が殺し合う姿はもう見たくない!」
少女の叫び。それは記憶が欠けているはずのエリスの叫びだった。
だが、もう遅かった。
ひとりは妖糸をすでに放っていたのだ。
戸惑いながらも呪架の手からは輝線が奔っていた。
血の薔薇が花びらを散らせた。
残っていた慧夢の腕が地に堕ちた。
両膝を地面に付いた慧夢にエリスが駆け寄る。
「慧夢!」
それは母の悲痛な叫びだった。
エリスは我が子を胸に強く抱いた。
「死なないで慧夢!」
「これが母さんの温もりか……ボクも母さんと暮らしたかったよ」
慧夢の憔悴した瞳からは一筋の涙が零れ落ちていた。
すぐに駆け寄って来た呪架は無我夢中で慧夢の傷口を妖糸で止血していた。今しがたまで殺そうと戦っていた相手なのに、呪架は悲しくて胸が張り裂けそうだった。
「お兄ちゃん……ごめんなさい……」
「あははは、今さら謝られるなんてね。でもさ、お兄ちゃんっていい響きだよね。もっと普通の形で紫苑とは出逢いたかったよ」
慧夢は呪架との死闘で大きな嘘をついていた。
父から妹の存在を聞かされたときから、慧夢は顔も知らない妹に想いを馳せ、心から愛していたのだ。そして、妹は傀儡士とは無縁の生活を送り、母と幸せに暮らしていると夢を見ていた。
慧夢は思わず苦笑していた。
「ボクは誰にも愛されていなかった。父さんも母さんも、愛していたのはキミだ。紫苑なんて名前をつけられたのが証拠だよ」
紫苑は愁斗の母の名前。呪架と同じように愁斗は母を心から愛していた。だから、娘の名前に紫苑とつけたのだ。
エリスは慧夢を抱きしめて肩を震わせていた。泣きたいのにこの躰では涙が流せなかった。
「自分の子供を愛さないはずがないでしょう。愁斗に連れられたあなたが、どんなに苦しい修行をさせられているのか、想像しただけで毎晩泣いたわ」
「父さんはスパルタだから嫌いだよ」
悪戯に慧夢は笑ったが、顔色は優れずに徐々に生気を失っていた。
呪架は死に逝こうとしている兄を見捨てることができず、遠くに立ち尽くしている愁斗に顔を向けた。
「お兄ちゃんを助けて!」
涙や鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして呪架は悲痛に叫んだ。
慧夢も傀儡になれば助かることができる。
しかし、慧夢の想いは違った。
「ボクは疲れたから眠りたい……今すぐにでも殺して欲しい……」
呪架とエリスが反対の言葉を泣き叫ぶよりも早く、愁斗の手が動いていた。
無情の煌きが慧夢の首を刎ねた。
無機物のように地面に転がる慧夢の首を見て呪架は絶叫し、血飛沫を全身に浴びたエリスは絶句して気を失った。
怨嗟の念が呪架の心を激しく締め付けた。
「どうして殺したッ!」
狂気に操られるままに呪架は愁斗に飛びかかった。
「慧夢の最期の望みだった」
「クソッタレ!」
泣き叫ぶ呪架の頬が愁斗の拳によって抉られた。
地面に横転して転がる呪架。
傀儡士が大事な手で人を殴ったのだ。
頬を押さえて今にも噛み付かんばかりの呪架に対して、愁斗は無言を貫いて紅いインバネスを翻した。
空間を切り裂き別の世界へ消えようとする紅い背中に、呪架は渾身の一撃で妖糸を放った。
振り返った愁斗の手から放たれる輝線が呪架の妖糸を切り裂き、勢いを衰えさせないまま呪架の手首を落とした。
愁斗はとても哀しい表情をしていた。
そして、再びインバネス翻し空間の裂け目の中へと姿を消した。
残された美しく儚い紅い残像。
慧夢の流した血の海に溺れるエリスの躰を、呪架は不自由な腕で抱き起こした。
朱に染まったエリスの躰を抱く呪架の心は果てない地獄に堕ちた。
その嘆きを反映するように、夜の世界はいつしか朱空に……。