第4章 光に潜む闇(4)
地下水脈から下水道を通り、やがて呪架は川に放流され下流へと流されていた。
幅の広がった川で流れが緩やかになり、呪架は川岸に向かって必死にもがきはじめた。
両腕が使えないために足だけで水を蹴り、死の荒野を這う思いで川岸に上半身を乗り上げた。
呼吸が異常なまでに乱れ、視界も意識も霞んでしまっている。
死神の足音は刻淡々と迫っていた。
一日か、半日か、数時間か……残された時間はあと僅かだ。
――その僅かな時間で自分になにができる?
呪架は歯を食いしばった。歯の隙間から滲み出す血は、胃や肺からの出血である。生きていることだけやっとなのだ。
死に対する恐怖心はない。
しかし、死は望んでいない。
呪架は生きたいと魂の底から願った。
今、呪架を突き動かしているモノは復讐心に他ならない。母を葬った世界に対する憤りと、狂った世界への報復。なにもかも破壊してしまいたかった。
自らが死ぬことと、たった独りで世界に取り残されること、自分の存在を他に見出せない点では、どちらも死んでいる。違いは背負う辛さだ。呪架は苦しみを背負っていた。
あの頃のエリスは決して戻らぬ過去の幻影。
セーフィエルは遠い親戚か他人にしか思えない。
血の繋がった双子の慧夢でさえ、殺すべき敵と化した。
呪架は世界に生きながら孤独を感じた。
生きながら死んでいる。
なぜか呪架の脳裏に顔も知らない父のことが浮かんだ。
父――愁斗はおそらく死んでいる。マルバス魔導病院の院長との契約により、死して腕を切り取られた。その腕は今、呪架の右腕として生きている。
傀儡士が大事な腕を捨てるはずがない。
呪架の腕はもう動きそうもなかった。下水や川を流されたことにより雑菌が傷口を侵し、傷口の奥までも腫れ上がってしまっている。
例え妖糸が振るえなくても、生きてさえいれば機会が巡って来ることもある。
呪架は立ち上がろうと川に浸かっていた下半身を動かそうとした。だが、動かない。
死の呻き声が呪架の耳に届いた。
幻聴ではない、確実な死が呪架に迫っていた。
血の臭いを嗅ぎ付けた四つ足の獣が呪架にゆっくりと近づいて来る。
白銀の毛が生え揃ったフェンリルの末裔。三メートルもある白銀の野犬が呪架の命を奪おうとしていた。
呪架の近くまで来た白銀の野犬が遠吠えをあげた。群の仲間を呼んでいるのだ。
仲間で皮を剥ぎ、肉を抉り、内臓を噛み千切り、獲物を分け合う。
野犬の腹を満たす肉が呪架の末路なのか?
一匹だった白銀の野犬が、二匹、三匹……と増えていく。
呪架は近づいてくる白銀の野犬に向かって野獣のように咆えた。
負けずと白銀の野犬も咆え返した。
呪架は再び咆え返そうとしたが、口から出たのは声ではなく黒血。
ついに白銀の野犬どもが呪架に喰いかかろうと襲って来た。
死を目前にして紅い戦慄が奔った。
白銀の毛並みが紅く染まり、舌をだらしなく垂らした野犬の生首が地に堕ちた。
鮮やかに紅いインバネスを翻し、仮面の主は次々と煌きを指先から放った。
前脚を斬り飛ばされ、尻尾を切り落とされ、首を断絶される。
紅い残骸が川の水に浸り、絵の具を垂らしたように、紅い色が下流へ流れて逝く。
残り一匹になった野犬が背を向けて逃げようとした。だが、容赦ない煌きは野犬を縦に切断した。
目を覆いたくなるような無残な光景の中で、無機質な仮面が呪架を見下した。
「死にたくないのならば、私の手を取れ」
冷徹な声を発し、ダーク・シャドウは細い繊手を呪架に伸ばした。
呪架は心を決めていた。
――人の足元を這ってでも、屈辱を背負ってでも、強かに生き延びてやる。
呪架は腕を伸ばそうとしたが、もうすでに両腕とも死んでいる。仮面の奥でダーク・シャドウもそのことに気づいているだろう。だが、あえて手を伸ばすのみ。
必死の思いで呪架は躰を地面に這わせ、背筋を使って躰を海老反りにさせ、汗の滲む額をダーク・シャドウの掌に押し付けた。
「腕が動かない、これで勘弁してくれ」
「おまえの魂は私が貰い受ける」
「助かるなら悪魔でも売ってやる……」
呪架の意識は静かに落ちた。
死の淵に旅立った呪架の躰をダーク・シャドウは抱きかかえた。
再び呪架がこの世で目を覚ますかは、すべてダーク・シャドウの手にかかっている。
空間を妖糸で断ち割ったダーク・シャドウは呪架を連れてその中に消えた。
〈闇〉の叫びが木霊する暗闇を歩き、腐食する空気を己の魔気で払い、ダーク・シャドウは出口に向かっていた。
なにかを感じてダーク・シャドウの足が止まった。
ダーク・シャドウは渾身の一撃で妖糸を放つ。
切り裂かれた空間の裂け目に流れ込んでくる閃光の波。
光の渦にダーク・シャドウは迷わず飛び込んだ。
消毒液の臭いが鼻を衝く。
その部屋にいた白衣の男が振り返った。
獅子の頭部を持つマルバス院長。
「なんのようじゃな?」
「手術室を借りる」
「ふぉふぉふぉ、よかろう。自由に使え、わしは休業の看板を出してくる」
マルバス院長は白衣を翻して部屋を出て行った。
ダーク・シャドウは抱えていた呪架を凍てつく手術台に寝かせた。
死の淵を彷徨っているというのに、呪架の顔は安らかに瞳を閉じている。過酷な運命を生きる者の顔ではなく、本来の歳である思春期を謳歌すべき少女の寝顔。
ダーク・シャドウは素顔を隠していた白い仮面を外した。
仮面の下から現れた恐ろしいほどに端整な顔立ち。二十歳前半か、あるいはもっと若いかもしれない。中性的で魔性を帯びた顔立ちは、どこか妖艶さを漂わせ、深い黒瞳に映り込む呪架の顔と雰囲気が酷似していた。
女性のように細い繊手でダーク・シャドウは呪架の服を脱がしはじめた。
露になる呪架の裸体はすでに赤らみが鋼へと変わっていた。全身から生気が抜けつつある。事は一刻を争っていた。
だが、ダーク・シャドウは小川のように、ゆっくりと作業を進めていた。
ダーク・シャドウは考え深げな瞳を閉じた。その指先は呪架の胸の中心で止まっている。
「一族の呪いは……おまえで終止符が打たれる」
ダーク・シャドウの指先から妖糸が放たれ、それはまるでメスのように呪架の胸を刻んだ。
その胸に今、刻印された血の紋章。
滲み出す血は黒いまま、紅くは染まらない。
「後戻りはできない!」
叫びと同時にダーク・シャドウは呪架の胸に手を突き刺した。
大きく眼を見開いて呪架の上半身が跳ね上がった。
絶鳴はなかった。
生命としての呪架は死んだ。
ダーク・シャドウは呪架の胸の中で手を動かし、なにかを鷲掴みにすると一気に引き抜いた。
血を滴らせながらダーク・シャドウの手に握られているものは、闇色のクリスタルだった。
〈闇〉の侵蝕されている呪架の〈ジュエル〉だ。
呪架のすべてはただひとつの漆黒の結晶に込められた。
すでに呪架の新たな躰は用意されていた。呪架に瓜二つの傀儡の躰。傀儡士の業が創り上げた傑作。
鮮やかな手並みで傀儡の胸が裂かれ、闇色の〈ジュエル〉が胸の奥深くへとしまわれた。
セーフィエルも知らぬ秘儀。
新〈ジュエル〉法。
目にも留まらぬ速さで作業は進められ、傷口も残らず生まれたままの肌で生まれ変わった。
「紫苑は死んだ……蘇れ呪架」
囁くダーク・シャドウの声に反応して、呪架の瞼が微かに痙攣した。
儚い人の時間は終わり、傀儡としての永久がはじまる。
闇を帯びた深い黒瞳が開かれた。
その瞳がはじめて見た者は、白い仮面の主。すでに素顔は隠されてしまっていた。
「俺は……どうなった?」
全身の痛みは消えていた。躰が前よりも軽く、力がひしひしと漲ってくるのを感じた。
「傀儡になった」
淡々と言ってダーク・シャドウは鏡を指さした。
「姿見がそこにある。生まれ変わった自分の姿を見るといい」
呪架は言われるままに手術台から飛び降りて、大きな鏡に自分の姿を映し出した。
なにも変わっていないように思えた。
違和感もなにもない。
ただ、肌は瑞々しく透き通り、染みや無駄な毛穴はなくなっていた。小奇麗な絵画のようだ。
「俺は本当に傀儡になったのか?」
鏡に映るダーク・シャドウに訊いた。
「それ以外に方法がなかった。魔人と呼ばれた天才傀儡士も、躰を侵す〈闇〉には勝てなかった。その息子も同じ運命を辿った。二人とも自らの躰を傀儡とすることで、〈闇〉の侵蝕を克服し、更なる力を得た」
「おまえはいったい誰だ?」
呪架は振り返り白い仮面を見つめた。
「躰を傀儡にすれば、〈闇〉をいくら使っても躰に負荷がない。傀儡にならなければ、〈闇〉に喰われ久遠の苦しみに囚われる運命だった」
「そんなこと訊いてない。おまえは誰だって言ってんだよ!」
「…………」
ダーク・シャドウは質問には答えず、呪架に背を向けて空間を妖糸で裂いた。
闇色の裂け目に消える紅いインバネス。
呪架は後を追えなかった。
ただそこに立ち尽くし、鮮やかな紅を眼に焼きつかせたのだった。