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第2章 傀儡士の血族(6)

 〈ホーム〉から逃げ出した呪架は人のいない街を彷徨い続けた。

 人の目を避けながら入り組んだ裏路地を抜ける。

 怒りは静まったが、冷静には程遠い。

 どのくらい胃に食べ物を入れていなかったのだろうか。餓えが呪架を襲う。

 ゴミ置き場が目に留まり、呪架はゴミ袋を破きながら鴉のように荒らし散らかすが、出てくるのは紙やプラスチックなどの分別されていないゴミ。

 ふと目を横に向けると、壁際を走る毛皮を纏った三〇センチほどの影。

 呪架の妖糸が屠る。

 獲物となったのは巨大な鼠。これでも帝都では小さい方だが――。

 鼠の皮を剥ぎ、首元に歯を立てて血を啜る。

 呪架は咽喉を動かしながら渇きを癒した。

 口についた血の一滴も無駄にしないように、唇についた血を艶やかに舐め廻す。

 そして、レストランで出される骨付き肉を頬張るように、鼠の生肉にがっついて頬いっぱいに詰め込んだ。

 常人であれば腹を壊したり、悪性の病気をしたりしそうなものだが、『向こう側』ではこういう食事が当たり前で通っていた。

 肉を喰らっていた呪架がその口と手を止め、曇天が都市を覆う空を見上げた。

 呪架の頬に落ちた雨粒。

 それが合図だったように土砂降りの雨が降ってきた。

 アスファルトを殴る巨大な雨粒。

 濡れたローブは重く呪架の躰に圧し掛かり、紅い雫がローブからボトボトと零れ堕ちる。

 呪架は食べることに飽きた肉を投げ捨て、ローブについていたフードを被って地面に座り込んだ。

 ビルの壁にもたれ掛かり、地面に付いた尻が水を吸って冷える。

 屋根のある場所に移動するのすら面倒だった。

 呪架の目に映る天は虚空。厚い雲に覆われていようと、大雨が降っていようと、空虚な虚空。現実の風景など無くしてしまった心には映らない。

 灰色の世界から次々と雨が堕ちて来る。

 帝都に降る汚れた雨ではなにも洗い流せない。

 憔悴しきっている瞳を下界に戻すと、傘を差してゴミ置き場にやって来る女性の姿をあった。

 身を隠すことすら今の呪架には面倒だった。

 まともな神経を持ち合わせていれば、こんな浮浪者のような呪架に近づかないだろう。

 しかし、この街に侵されている神経の持ち主だったら、こんなこともあるかも知れない。

 少し背を丸めてフードの奥にある呪架の瞳を覗き込む女性。

 二十代後半くらいの年齢で、化粧をすれば夜の街が似合いそうな女性だった。

 女性がなにかをしゃべっている。呪架には無音の世界で女性が口を動かしているように見えた。

 そして、女性が伸ばした手を呪架は無意識のうちの握っていたのだ。

 呪架は捨て猫のように拾われた。

 夢幻に囚われた呪架はふらふらとした足取りで歩いた。

 道を歩き、エレベーターに乗せられ、部屋の中に通されたような気がするが、すべて夢かもしれない。

 そして、熱いシャワーを顔に浴びて呪架は意識を取り戻した。

 あまりにも驚いたために、思わず声をあげそうになってしまった。

 現状を理解するのに時間を要してしまった。

 覚醒した頭を働かせて呪架はシャワールームを飛び出した。

 脱衣所でバスタオルを用意していた女性と目が合う。

 女性の瞳に映る一糸纏わない呪架の裸体。

 スレンダーな躰に小ぶりなヒップ、少し膨らんだ乳房が幼さを匂わせる。

 自分の秘密を知られた呪架は異形の腕を振り上げたが、それを左腕――人間の手が止めた。

 呪架は『向こう側』で女としての自分を捨て、男として今まで生きてきた。

 あのとき慧夢は言っていた。

 ――双子の妹。

 それは真実だったのだ。

 女性は持っていたバスタオルで呪架の躰を優しく拭いた。異形と化した腕を恐れることなく、母親が小さな子供の面倒を見るように、女性の瞳は呪架を慈しんでした。

「この腕はどうしたの?」

 と、女性に訊かれたが呪架は無言のままだった。

 〈ホーム〉で自分が犯した罪を思い出す呪架。半狂乱だったとはいえ、自分を救ってくれた少女まで殺してしまった。自分以外の者は信用できないが、あの〈ホーム〉の少女の瞳は純粋だった。その瞳が恐ろしい顔をして見開かれたのだ。

「いつから変わってしまったのか……」

 呪架は想いを無意識のうちに呟いてしまっていた。

 〈闇〉が躰を蝕むせいなのか、『向こう側』で生きるためだったのか、それともこれが自分の本性だったのか、呪架にはわからない。

 躰にバスタオルを巻かれた呪架は手を引かれた。

「こっちに来て」

 女性に誘われるまま、呪架は身を委ねた。

 洗面台の前で髪を梳かされ、ドライヤーの熱風が呪架の髪を撫でる。

 目を瞑った呪架の瞼に映し出される過去の記憶。

 幼い頃の母との思い出。

 今と同じようにドライヤーをかけられながら、髪を梳かしてもらっていた。あの頃は髪の毛が腰まであって、いつも母に梳かしてもらっていたのだ。

 目を開けると母の幻は消えてしまったが、鏡越しに見える女性の微笑む姿。

 なぜか呪架は胸が込み上げ、熱い涙が頬を伝った。

 女性の指先が呪架の涙を拭った。

「どうしたの、大丈夫?」

 優しい声をかけられて、もう涙は止まらなかった。

 一生分の涙を過去に流し尽くしてしまったと思っていたのに……。

 揺れる呪架の感情。

 切れる緊張の糸。

 声を出して慟哭する呪架は女性に抱きつき、肩を上下に震わせて温もりを感じた。

「お母さんが殺された日から、ずっと独りで生きてきたのに……」

 不覚にも呪架は心の弱さを見せてしまった。

 それを優しく包み込むように、女性は呪架の耳元で囁く。

「心配いらないわ」

 誘惑されるような声だった。

 女性はそのまま言葉を続ける。

「〈闇の子〉の仲間になれば、不安もなにもなくなる。あなたの望むモノも手に入るかもしれない」

 ――悪魔の誘惑。

「誰だ、お前!?」

 驚いた呪架は女性の躰を突き飛ばした。

 心地よい夢が悪夢の変わった瞬間。

 女性が艶やかに微笑んだ。この女性が決してできない表情だ。中身が違う。

 それを証明するように、女性は聞き覚えのある声を発したのだ。

「私はお前が必用だ。仲間になれ……紫苑」

 呪架はすべてを察した。

 この女性はダーク・シャドウが操る傀儡なのだ!

 深い絶望が呪架の心を闇に閉ざす。

 裏切られた。

 やはり誰も信用してはいけない。

 感情の荒波が相手を問い詰める前に、呪架の手に妖糸を振るわせていた。

 眼を剥いて首を刎ねられた女性の生首が床に堕ちる。

 返り血を浴びた呪架のバスタオルが美しい鮮血に彩られた。

 首を堕とされた躰から流れ出る血。傀儡は生身の人間を操っていたのだ。

 ――いつから?

 もしかしたら、雨の中で呪架を拾ったときは、本人の人格があったかもしれない。

 髪の毛を梳いてくれたのは誰だ?

 注がれた優しさは誰だ?

 呪架を見つめる女性の瞳は嘘だったのか?

「クソッ、俺を弄んで楽しいかッ!」

 怒りの涙を流す呪架に生首が口を聞く。

「お前に優しくしてくれた女を殺すとは悪魔の所業だな」

「優しさなんて嘘だ、お前が操ってたんだろ!」

「この女の優しさは本物だった」

「嘘だーッ!」

 壮絶な絶望感が呪架の感情を乱す。

 女性の生首は笑い声を発してから言う。

「私の言うことが嘘かどうか、それは自分で見極めろ。今から私が言う情報についてもだ」

「…………」

「お前が求めているモノが魔導街のマルバス魔導病院にある」

「なにがあるんだ!」

 生首は答えなかった。もう物言わぬ死人と化してしまったのだ。

 ダーク・シャドウの罠なのか、それを悩む必用はなかった。罠だとしてもそれを逆に利用してやるつもりで呪架はいた。

 返り討ちにしてやる。

 呪架の心はさらに闇に堕ちていったのだった。

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