アーリーモーニング・エンカウンター
それから二日たった。夏休みの最中にあって、村神は4時に起きるという苦行の真っ最中にあった。
窓から見る空は、うっすら白んでいる。空には雲一つない。今日も暑くなりそうだ。
高尾山口行きの始発は一時間後に代田橋駅を出る。
鷹野の最寄り駅は東急多摩川線の矢口渡駅だ。明大前で井の頭線に乗り換え、渋谷で東急東横線に乗り、多摩川駅で多摩川線に乗る。新宿経由より、こちらの方が20分ほど遅く家を出られる上、到着も2分しか変わらなかった。
道具の用意は昨晩のうちに済ませた。あとは自分自身の用意だけ。駅までは歩いて五分。朝食は、向こうに着いてからコンビニで買うつもりだ。
鷹野に到着時間をLINEで送るつもりで、枕元のiPhoneを取り上げた。
昨日も警察に呼ばれることもなく、陽菜や店長、葦堀からも何も連絡はなかった。警察の検分も終わったため、店も今日から予定通りに開けるらしい。
支度を済ませ、駅に向かう。世間はお盆休みのまっただ中なので、ホームには村神の他には、上りのホームに社畜ライクな休日出勤の若いサラリーマンが一人いるだけであった。
始発の到着まであと10分。最後の荷物の確認を行う。ロッドケースには念のため、「ピンクの釣り竿」も入れておいた。
何もなければ、予備のロッドとして使うまでだ。しかし、事件の直前、突如iPhoneに表示されたロッドの画像の事が気になっていた。
見間違えでなければ、あの時のロッドの画像は、村神が撮影した写真より90度左に回転していた。実際、今iPhoneに入ってる画像は、右上に竿先を向けている。
あの事件の時だけ、画像が回転していた。こんなことが、あり得るだろうか。
いや…。弥仲湖での出来事を考えると、何があっても不思議ではない。
雷に打たれて死に、ケン・カイコーと名乗る恰幅のいい老人にあの竿を渡された。
現世に戻った後、エーデルワイスが突然鳴り響き、手にした時には村神の意識は消えていた。その間、何があったのか村神の記憶はないのだが、周囲の人に聞くと黒いスイムスーツの潜水夫が釣り人のラインを切る暴挙を行い、それを青いスイムスーツの巨漢が倒したという。
ニチアサかと言わんばかりの話であるが、黒いスイムスーツの男に破壊された護岸壁を見たので、彼らが嘘をついているということはなさそうだった。
湖面に向かって拝んでいた老人は、青いスイムスーツの男に孫を助けられたという。
二人のスイムスーツの男。黒い方は倒されて爆発し、青い方は戦いの後に忽然と消えたという。
その青いスイムスーツが、おそらくケン・カイコーの言っていた「正義の釣り人」なのだろう。「ミスター太公望」と名乗ったと、その場にいた人が教えてくれた。
自分がその青い男…ミスター太公望になっていたのだろうか。ケン・カイコーの言葉をそのまま受ければ、そういうことになるのだろう。が、記憶がないこともあり、釈然としない。
ミスター太公望、そしてチワワン・リバー…。すなめりと柳川の事件も、もしかしたらチワワン・リバーに関係するのだろうか。
この三日間、同じ事ばかり考えている。考えても、答えなんて出るわけないのに。
高尾山口行きの電車が滑り込んできた。明大前で井の頭線に乗り換え、渋谷で東急東横線。多摩川駅で多摩川線に乗り換え、待ち合わせの矢口渡駅だ。およそ、一時間ほどの道のりとなる。同じ23区内とはいえ時間がかかる。世田谷区と大田区は隣り合っているというのに。
東京は広い。これだけの広い地域にびっしりと人間がひしめき合い、世界最高レベルの経済と文化を生み出す都市。これほどの街は、東京以外にありはしないだろう。
一方で地方都市の人口減少は歯止めが利かない状態となっている。3月になると、卒業した若者たちが大都市圏へと移動する。結果、若者の人口は減り続け、高齢者の比率が大きくなりつつある。
農家の人手不足、後継者不足は深刻なものとなり、労働力が外国人技能実習制度でやってきた外国人に強く依存するようになり、多くの農家で日本語もたどたどしい外国人の若者が農作業にいそしむ姿を目にするようになった。
村神の家でも、妹が進学のため上京することになったので(正確には横浜だが、村神の田舎では関東にいくことは全て上京とみなされる)、今年から実習生を受け入れることになった。張桃華という中国人女性で、年齢は25と村神よりもちょっと年上だ。
非常に仕事熱心であり、また作業が終わった後も農業に対する勉強を欠かさないという。両親とも桃華が気に入り、村神が使っていた部屋を、そのまま彼女に与えているそうだ。
親は村神に跡を継ぐことを期待しているようだが、村神自身には農業を生涯の仕事にするつもりはなかった。好きな映像の世界で食っていこうと思っている。だからこそ、映像や芸能に強い大学に進学し、らいとΩOneでバイトをしている。
村神に限ったことではないが、日本人の若者の、農業に対するイメージはあまり良くはない。誰もがオフィスワークや営業、マーケティングに憧れ、クリーンでスマートな仕事をすることを希望している。
子供の数が減少しているにも関わらず、大学が増えすぎ全入時代と言われるようになった。誰もが知的生産者になりたいのが今の日本の若者なので、ブルーカラーの就労希望者が減るのは当然の結果であろう。結果、日本人がやらない肉体労働を、賃金が安い外国人を使ってあがなおうというのが外国人技能制度であり、その延長にあるのが経済団体が主張する移民計画なのだろう。
下北沢に着いた時、葦堀が同じ車両に乗ってきた。もちろん、偶然である。
葦堀は大学時代、東アジア文化研究会というものに入っており、その影響からか、外国人労働者問題やそれに連なる人種差別の問題に高い関心を持っていた。
日本の文化人は戦後教育の流れからか、いわゆるリベラルに属する人間が主流を占めている。出版社が小銭稼ぎで中韓の悪口を書き立てた本を出そうが、ネット世論が保守に大きく傾こうが、日本の文化人はリベラルでなければならず、またリベラル思想を持ち得ないものは文化人としての資格を持たない。少なくとも、2000年代に入るまでは、文壇にせよ論壇にせよ、また芸能の世界においても、カルチャーを支配していたのはリベラル主義者であった。
葦堀がらいとΩOneで働いているのも、リベラル文化人の大物に気に入られて、紹介されたからだと聞いている。らいとΩOneのオーナー、そして店長は思想的にはニュートラルであり、思想で文化を差別しないという信念があるので、いわゆるネトウヨ系、保守系のライブも開催されるが、葦堀はあまりいい顔をしなかった。
「村神君は、今日は釣りか」
ロッドケースを見た葦堀が言った。
「釣った魚、食べるの?」
「今日はハゼなので、天麩羅にするつもりです」
「なるほど、むやみな殺生をしているわけじゃないのか」
「まあ、そうです」
「食べもしないのに釣り上げるのは、魚を傷つけるだけの、動物虐待だしな」
葦堀は、釣りという遊びに良いイメージを持っていないらしい。が、それ以上村神や釣りをけなすことはなく、話題は村神の学業へと移った。
「そういえば、二学期終わってから、映像作品提出する課題があるんだろう? 素材は貯めているのか?」
「いちおう。ちょっとですけど」
この前弥仲湖にいった時、車窓から撮った田園風景だけである。謙遜するまでもなく、本当にちょっとだ。残りの素材はこれから集める予定である。
「バイトや遊びに一生懸命になるのもいいけど、ちゃんと単位は取っておけよ。俺は学校の勉強とは別の事にハマりすぎて、大学出るのに7年もかかってしまったけど…」
「意外ですね。どんな事にハマってたんですか? バンドですか?」
「バンドはちょっとだけやったな。アコースティックバンドで、俺はベースだった。そこで知り合った人に、らいとΩOneを紹介されたんだよね」
「へえ」
「今日もその人に誘われて、品川までいくんだ」
「品川ですか」
「来年のアースデーイベントの件で、ある企業がスポンサーに名乗り出てくれてね。その会社の人と会うんだ」
「お盆なのに出社してるんですね、その人」
代田橋駅で見たサラリーマンの姿が思い浮かんだ。
「むしろ普段が忙しすぎて、こういう時しか時間がとれないそうだ」
やっぱり、社畜なのかと、村神は勝手に納得した。
もっとも、今時の会社は、全社員で一斉にお盆休みを取るわけではない。7月から9月まで自由に5日間休みがとれる制度を採用している会社も多くなってきた。きっと、その会社もそうなのだろう。
「でも、アースデーって4月ですよね」
「そう。だから具体的な話は全然だよ。今日はとりあえず、主催NPOや俺達ボランティアとの顔合わせと情報交換だけかな」
葦堀は、アースデーのようなロハス系イベントによく参加している。どことなく情報を掴み、ボランティアとして応募しているようだ。ひょっとして、バンド時代にあったという人から声をかけられているのかもしれない。
「来年は、東京全ての駅でキャンドルナイトをやる予定なんだ」
「ステキですね」
「交通各社ともすり合わせしないといけないし、非営利事業だから資金調達も大変でね。来年の事だからとノンビリしていられないのさ」
葦堀はすこし誇らしげに笑った。
電車は渋谷駅に滑り込んだ。葦堀とはJR改札手前で分かれた。村神は副都心線のホームへと向かう。
渋谷駅は複雑だ。上へ下へと拡張が続き、今でも案内表示を見ないと歩けない。
地下鉄副都心線は、渋谷から代官山の間で地上に出る。田園調布で再度地下へ入り、次の多摩川は高架駅だ。東急東横線下り最後の都内駅でもある。
昔は目蒲線と呼ばれた目黒~蒲田間の路線は、東急目黒線と東急多摩川線に分離された。目黒線は田園調布で東横線に接続し、南は横浜、北は地下鉄南北線に直通し浦和美園まで向かう。多摩川線は、蒲田から多摩川までの6キロに満たない区間を、三両編成の電車が走る。
鷹野と待ち合わせている矢口渡駅は、都内でも珍しい木造の駅舎がある。23区の南の果てということもあり、一気に郊外の雰囲気が強くなる。
6時前に到着した。鷹野はすでに、改札前でタバコを吸いながら待っていた。
「よし、いくか」
吸い殻を携帯灰皿に入れて、立てかけていたロッドケースを背負った。
「途中に釣具屋があるから、イソメはそこで買っていこう」
「了解」
太陽はすでに、東の空を駆け上がりつつあった。