おせっかいなしあわせに、さようなら
とても寒い日だった。
朝から雪がしんしんと降り、昼間でも蛍光灯を付けなければ真っ暗。そんな天気だというのに、この日は委員会で居残ってしまい帰る頃には外は完全な闇だった。
わたしの家は山の向こうにある。普段はバス通学なのだか、こんな山の中の田舎の村。バスなんて一日に何本もない。本日の営業はとっくに終了している。携帯なんて使い物にならない場所だから当然持っているはずもなく、こういう日は決まってとぼとぼと地道に歩くしかないのだ。
校門を出てざくざくと雪を踏みしめる。田舎に外灯なんてりっぱなものはない。除雪だって丁寧にされていない道だから、ローファーなんておしゃれなものより実用的な長靴だ。これをかっこ悪いと笑う人もいない。数人しかいない同級生もみんな長靴愛用者だ。ビバ長靴。長靴サイコウ。長靴バンザイ。
それでも底から冷たさがちくちく足の裏を容赦なく刺す。靴下二重にしておけばよかった。
いつも使っているバス停が見えてくると僅かな望みをかけて時刻表を見る。穴があくほど見つめてもバスが来ることはない。知ってるけど。一日五本しかないのだ。時刻表はすでに丸暗記済み。もうバスは来ないのだ。
現実に打ちひしがれて、雪の中を歩き続ける決意を固める。しょうがないよ。委員会だったんだもん。あの薄らハゲが悪いのよ。こんなに寒くて暗い中を歩かせるだなんて、薄らハゲをやめてピッカリハゲになりなさいよ。そして、道を明るく照らしてよ。
白い息がもわりと広がる。あぁ、あぁ、こんなに寒いのに。
ぴかっ。遠くに光が見えた。それはあっと言う間に大きくなって、わたしの前で止まった。
……バスだ。
タイヤの周りが錆びてる。塗装が剥げかけたいつも見ているバスだった。この雪で遅れたのかな?
シャーと音を立てて開いた扉になんの疑問もなく入った。整理券を取り、後ろから二番目の窓際の席に座る。
運転手はいつものおじさんではなく、おばさんだった。だから遅れたのかな?暖かい車内にうとうとしてしまって、わたしはつい居眠りをしてしまった。
「お嬢ちゃん、着きましたよ」
優しい声に揺り起こされて目を開くと運転手のおばさんが微笑んでいた。
「あっごめんなさい」
「いいえ大丈夫よ。今日はお嬢ちゃんで最後だから」
荷物を慌ててかき集めると運賃の精算をするためにバスの前へ行く。
「あれ?」
「どうしたの?」
「定期がないんです」
毎日持って歩いているバスの定期がない。たいして物が入っていないかばんの中身を右から左へ移動させても、中身をひっくり返しても見つからない。しょうがなく財布を探すが、普段からお金を使う場面なんてない田舎町。当然都合よく入っているはずもない。定期、朝は使ったはずなのに。
「……どうしよう」
「あら、切符があるじゃない」
「えっ使えるんですか?」
おばさんが指さしたのは財布にくしゃくしゃになって入っていた古い切符だった。すっかり黄ばんだ金額の書かれた紙の束。一枚一枚切り離して使う。それは昔、おばあちゃんにおこずかい代わりにもらったもの。おばあちゃんが娘時代に使っていたものだと聞いていたから、てっきり使用期限が過ぎていると思っていた。
「まだまだ使えるわよ」
おばさんはにっこり笑って切符を一枚ぴりぴりと破いた。なんとなく捨てられず入れっぱなしになっていたが役に立って良かった。おばあちゃん、ありがと。
おばさんに手を振り、バスを降りた。
最寄りのバス停から数歩あるいたら、もう家だ。日曜日は美味しいおやつを持っておばあちゃんに会いに行こう。
ちらりと見えたバス停の根元に、季節外れの金魚草が雪の中で揺れていた。
部屋に戻ってかばんを整理すると、バスの定期は雪の湿気で底にべったりと張り付いていた。
***
どうしよう、どうしようっ、どうしよう!
おばあちゃんが倒れたらしい。病院から電話が来て、家族の人はすぐ来て下さいと無機質な声で言われた。
でも、夏休み中の我が家にはわたし一人。両親は出かけているし、近所の人も敬老会に出払っていて、車を運転できる人が居ない。
わたしはとにかく、財布をひっつかんで外に出た。
山を下りて街の病院まで走る。そんなこと出来るはずもないから五分もすれば息も上がって立ち止まってしまう。あぁ、どうして。わたしはこんなに無力だ。視界が揺らぐのをぐりぐりと拳でこすってくい止める。このまま、おばあちゃんに会えなくなったらどうしよう。
弱音が心をかすめた瞬間、プシューと耳元で音がした。
……バスだ。
タイヤの周りが錆びて、塗装が剥げかけたいつものバスだ。
こんな時間に通るはずがない。だって、今日は土曜日で、時刻表には普段より少ない三つの時間しか書かれていない。それに、ここにバス停はない。
そんなことすぐに考えればわかるのに、わたしは大急ぎで運転席のおばさんに、
「病院まで行きますか!?」
大声で聞いた。
「大丈夫。ちゃんと行くわよ」
おばさんはわたしを安心させるように、優しく笑ってくれた。
整理券を引っこ抜くように取り、一番前の席に浅く腰かける。
バスは安全運転でゆっくりと動き出した。景色は流れるように動いているが、それがとても遅く感じる。
大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫。ギュッと瞼を閉じる。祈るように手を組んでひたいに押し当てて、呪文を繰り返す。
「お嬢ちゃん、着きましたよ」
穏やかな声に驚いて目を開くとバスは止まっていて、窓の外には病院があった。
「もう?」
びっくりして聞いたがおばさんは微笑むだけだった。
席を立って料金を精算しようと財布を開けたが、十円玉が数枚と古びたバスの切符だけ。
冬のあの日以来バスの切符は使っていない。使えなかったのだ。たまたま定期を忘れた日に使おうといつもの運転手のおじさんに差し出したのだが、期限切れと悲しい宣告を受けた。
「大丈夫、まだまだ使えるわよ」
おばさんはそう言って切符を受け取ると、ぴりぴりと一枚破いて残りの切符をわたしに手渡した。
急いでバスを降りて病院に駆け込んだ。
おばあちゃんはしばらくの入院が必要だったけど、本人はとても元気そうだった。もう齢だし、しょうがないよね。それでもほっと一安心して、病室の窓から山を眺めた。
山は夏盛り、季節外れの枇杷の花が、優しく咲いていた。
***
バス停でバスを待つ。
大きな荷物がずっしりと腕に圧しかかる。春風がじんわり汗が浮かんだ首筋を撫でていく。
……あぁ、バスが来た。
タイヤの周りが錆びた、塗装の剥げかけたいつものバス。
軋んだブレーキ音。プシューと空気の抜けたような音を立てて扉が開く。噛みしめるようにタラップを踏んで、整理券を取った。前から二番目の窓際の席に座る。運転席にはあのおばさんがいて、いつものようにバスの中はわたしとおばさんの二人きり。
黄色いタンポポが道なりにびっしり咲いている。小さい花がたくさん。ちょっと気持ち悪いくらいに。
「ねぇ、おばさん」
「なぁに?お嬢ちゃん」
「わたしね、この町を出るの」
「あらあら」
「もう、帰っては来れないかもしれない」
「それは、寂しくなるわねぇ」
バックミラーに映るおばさんは相変わらずにこにこと笑っていた。
バスはいつの間にか駅についていた。
わたしは料金を精算するために重い荷物を引きずってバスの先頭へ行く。
「これで大丈夫?」
財布から黄ばんでしわくちゃな古びた切符を取りだした。
「大丈夫、まだまだ使えるわよ」
おばさんはそう言って切符を一枚ぴりぴりと破いた。
「さようなら」
「えぇ、またね」
おばさんが手を振り、わたしがバスを降りるとバスはいつの間にか居なくなっていた。
「また、ね」
おばあちゃんが亡くなるときの最後の言葉も”またね”だった。
またね。またね。また、この廃村に戻って来れるだろうか。
最後の電車に乗る。この駅も無くなる。この町は無くなった。
それでもきっと、あのバスは今も気まぐれに迷子を乗せて走っている。