星と屑と夜空と
この話はR15相当です。
生きているようで死んでいたのだと思う。あの日よりも以前から、ずっと。
だから丁度良い切欠でしかなかったのだ。その一歩を踏み出す蛮勇を抱く程度の。或いは、理不尽な恨みを正当化する言い訳の。
気分の良い行いではなかったが、被害者の方がよりそう感じていただろう。俺にとっては正当な、しかし向こうにしてみれば青天の霹の。理不尽に感じたかもしれない。判らないし、判りたくもないけれど。
濡れた手を引き抜いた。慣れないようで、手慣れた行動。軍手のまま服のポケットをまさぐり、安っぽい二つ折りの財布を手に取った。
これは理不尽なのだろう。けれど理不尽は誰にでも一様に降り注ぐのだ。しかも惑星を挙げての、世界が終わるという理不尽が。だからこの程度はただの誤差でしかない。遅かれ早かれ。そこに明確な差などなく。
「ほい財布。薄いから期待出来ねーっぽい」
レインコートを脱ぎ、戦利品を見張り役の相棒に投げた。名前は知らない。偶々この場所で出会い、偶々意気投合をして、偶々一緒に行動をしただけの他人。今夜限り、今限りの関係。
「やっぱ路地裏って、まともな奴いねーな」
足が付くのは勘弁だ。
「まあ、抵抗少なかったし楽だったけどな」
一期一会で丁度良い。
「オレも見張りだけだったから楽だったぜ」
儲けは折半、リスクは半々。
「て、マジかよこの中身。うわ最悪じゃん」
汚れたレインコートをコンビニのビニール袋に突っ込み、軍手を外す。マスクは外さない。顔を晒さないのは最低限の自衛策だった。薄闇の中なのだ。声と背格好だけなら、相棒には俺の身元など判るまい。
「万札が三枚と小銭とかマジふざけてんな」
この男は馬鹿だと思う。返り血対策も何もせず、フードを目深に被るだけで素顔を隠した気になっていて。だから。
「そんじゃ俺は、万札一枚だけ貰っとくわ」
遅かれ早かれ、捕まるだろう。
「マジかよ? 悪いな、オレのが多くてよ」
強盗殺人は、今の御時世でも罪は重い。
「構わねーよ、こんだけありゃ充分だしな」
良くて無期、最悪は死刑。だから捕まれば最期。窮屈な場所で終わりを迎えることになる。
「じゃ、これで解散ってことで。ほんじゃ」
「もしまた会ったら、そんときゃよろしく」
せめて手袋くらいすれば良いのに。自分が捕まることなど微塵も考えていない、愚かな犯罪者。恨み辛みや己の憤りなどを原動力としているわけでなく、ただ流れに身を任せているだけの。
反吐が出る。
ならば自分は正当な犯罪者だとでも言いたいのだろうか。そんな訳がないのに。理不尽な世界への復讐だとでも言いたいのだろうか。理不尽でしかない世の中に、少しばかり理不尽を増やすような。
ああ、認めよう。反吐が出るのは、自分自身に対してだ。
将来に対する不安は、あの報道で霧散した。碌でもない世に潜む、禄でもない存在の俺。レールの上から滑り落ち、奈落の底の更に底へと。生きていたくなどなかった。けれど自ら死ぬのも嫌だった。どっちつかずの俺は、恨みだけを募らせて。だから。
足早に、街に溶け込んだ。あの日から今日までで、俺は何人を殺めたのだろう。名前も知らない、ただ偶然居合わせた他人。運が悪かっただけの人。俺に出会わなければ、もう少し穏やかな最期を送れたのかも知れないのに。
運が悪かった。そう。この世界の生きとし生けるもの全て、例外なく運が悪かったのだ。
目的もなく歩く。繁華街は良い。明るく雑多で、無関心で。いくら罪を重ねようと、街の空気が掻き消してくれる。あの家よりも、安心できる。
初夏の風が街を抜ける。俺はどうしてこうなったのだろうか。生まれつきか、受験の失敗か。家族のせいか、環境のせいか。世の中が悪いのか、俺が悪いのか。本当に悪いのか。悪いのは、勝手に一方的に最後通告を突きつけてきた世の中の方ではないのか。俺は被害者でしかないのではないか。否。
どちらにせよ、捕まったら終わりなのだ。
ビニール袋に入った犯罪の証左を、溢れそうなコンビニのゴミ箱に突っ込んだ。気付かれなければ御の字だが、気付いたところで通報はされまい。残り僅かの平穏無事は、面倒事より優先される。
「いらっしゃいませー」
店に入ると、やる気のない店員の声が聞こえた。どの程度残っているのか判らない余命を、こんな無意味に費やして何になるのか。
「タバコ、二十三番の」
意味のない復讐の残滓に費やして何になるのか。
「あとアイスコーヒー」
悲劇の主人公を気取って派手に暴れる通り魔よりも、俺の方が質が悪い。奴らは他人の目に付くことで、理不尽を世に訴えかけている。場当たり的な強盗よりも、世間の関心と同情と憎悪を集められる。けれど。
「あー、サイズはSで」
捕まったらお終いなのだ。いずれにせよ。
だから皆、こんな終末の世界なのに暴れたり自棄になったりもせず、今までと変わらない生活を送り続けているのだろう。多少の治安の悪化はあるが、フィクションの世紀末ほどではなく。
一万円札をカルトンに載せた。黙ったまま店員が受け取り、タバコとコーヒー用の氷入りコップを渡してくる。札以外の釣り銭は、用途の判らぬ募金箱に入れた。
俺のようにたがが外れた人間は少数で、殆どの他人はただ淡々と終わりを待っている。当たり前の日常を、当たり前に謳歌している。恵まれた者、持てる者。持たざる俺とは違う生き物。なりたかった者、なれなかった者。この世の欺瞞と上澄みの幸福。最初から不公平だったのだ、世界は。
俺の抱く恨みは正当なのか。逆恨みをはらす度、自問する。場数を踏み手慣れてきた自分を、嫌悪する。世界に逆らっているのだと、肯定する。身勝手な快楽のために罪を犯しているわけではないのだと。
アイスコーヒーを啜る。夜空を見上げる。俺はいつまで、この生活を続けるのだろう。
「……世界が終わるまで、か」
それがいつなのかは判らない。或いは、家族を手に掛けたあの日に、世界は終わっていたのかもしれない。