明日と恋と夕暮れと
屋上から見下ろした世界があまりにも綺麗だったので、今が最期でも構わないと思ってしまった。淡い紫のヴェールに包まれる、白と薄青の空。虹色に浮かぶ雲と、影色に沈む街並み。夜に染まりきる前の、ささやかで鮮やかな。
黄昏は、狭間だ。だからこんな御時世には、暮れなずむ眩しさが似合っている。
ほんのり湿り気を帯びた空気が、僕の傍を通り過ぎた。春の終わりを告げる、柔らかで心地の好い風。出来ることならこのままの季節でいたい。思わずそう願いたくなる。叶う可能性は、それなりに高いのだけれど。
「あのさ……手、繋いでも良いかな?」
促されるよう振り返り、懇願した。彼女の肩で跳ねる艶やかな髪が、ゆっくりと上下に動く。首肯。僕の心臓も跳ねる。
「もちろん。断る理由なんてないしね」
上目遣いで見詰められた。僕からの提案にも関わらず、何故か彼女に威圧される。いつもそう。発案者は大抵僕なのに、主導権を握るのは彼女で。
つまりそのくらい、僕は彼女に夢中なのだ。たぶん、中学生の頃から。きっと、世界が終わるその日まで。
「いや、まあ、うん。でもさ、一応」
体裁を整えつつ、手を伸ばす。心臓の鼓動が伝わらないよう、細心の注意を払いながら。けれど。
「一応? 何、いきなりは怖いの?」
出端を挫かれた。くすくすと笑い声を上げる彼女は、いつもの余裕を見せている。僕はそれが悔しくて。
「だいじょーぶ。さすがに張り倒したりなんかしないから」
悔しくて、同時にとても好きだと思った。彼女の笑顔が。彼女の、こんな世界でも常に変わらない強さが。
軽口を装いつつ、確信を問う。先ほど少し変わったはずの、僕たちの関係を。
「張り倒されてたまるかっての。だって一応、僕ら、その」
付き合ってるんだろ?
口ごもるような曖昧な言葉にもかかわらず、身体が熱くなった。夕暮れが頬を染める。脈打つ間隔が速くなる。否定されたらどうしようという、不安が少しだけ頭をよぎる。けれど。
「……あんまり実感、沸かないけどね」
にっこりと笑みを浮かべ、彼女は静かに柔らかく頷いてくれた。
手を握る。握られる。初めて触れた訳ではないけれど、恋人としては初めての。緊張が、指を震わせる。
彼女と付き合うことになったのは、ほんの僅か前のこと。拙い僕の告白に、静かに頷いてくれたのだ。夕暮れ迫る屋上で。終末迫るこの世界で。幼なじみの殻を破る、ほんの少しの勇気を称えて。
「実感は、お互いさまっぽいけど」
指に力を込める。震えが伝わる。彼女も少し、震えていた。
「とはいえ私、このままは嫌かな」
雲間から刺す斜めの陽光が、僕たちに降り注ぐ。鮮やかに影をなす、繋がれた僕たちの分身。長く延びて、不格好で。
「明日なんて来ないかもしれないのに」
今にも消えてしまいそうで。けれど永遠を刻みそうで。
「今すぐ終わっちゃうかもしれないのに」
僕たちの曖昧だった関係に、似ているような気がした。曖昧過ぎた関係に、似過ぎているような気がした。
両想いという確信はなかったけれど、好かれている実感はあった。たぶん、お互いに。根底の部分が似過ぎていたのかもしれない。確定的な行動を、相手任せにしたかったのだ。僕たちは。
「……せっかく、両想いになれたのに」
だから、無駄に遅くなってしまった。遠回りをし過ぎてしまった。終わる前に繋がれたことだけが、僕たちなりの救世なのかもしれない。
ぐっと、手を引かれる。影から彼女に視線を移すと、彼女は僕を見上げていた。
「ねえ、目、つぶって」
言われた通り、目を閉じる。予感。首筋に触れる彼女の指に、期待と不安で胸が高鳴る。
焦らすよう鼻先をくすぐる彼女の髪に、薄目を開けた。夕陽のせいかもしれない。真っ赤な顔をした彼女は、僕の知らない表情を浮かべていて。
困っている。照れている。いつもの自信がなくなっている。
眉尻を下げ、頬を染めて。尖らせた唇を小刻みに震わせて。
爪先立ちをしている彼女を、思わず抱き締めていた。目を瞑っていないと気付かれてしまったが、特に怒られることもなく。
背中に彼女の手が伸びる。探るような指先の動きが、腰の辺りで落ち着いた。お互いに口を開かぬまま、抱き締めあう。風の音だけが、耳に届く。温もりが、僕を包む。好きだと思う。心から。
無理に唇を重ねるよりも、ずっと僕たちらしかった。不器用過ぎて、遠くを回り過ぎて。僕たちにしか通じないような、拙い方法だった。けれど悪いものではなく、寧ろ。
ふと、彼女が言葉を漏らした。
「……なんか悔しい」
ぴんと腕を伸ばし、僕を押し退ける。表情を隠すよう背を向けると、彼女の姿が影に覆われた。夕闇に、淡く溶ける。
「こんな世の中じゃなければ、今だってずっと片想いのままだったんだろうけどさ」
力強い、いつもの口調。吹き抜ける風が、彼女の髪を撫でる。狭間を抜ける。
「お互いに! 絶対言ってなかったって、自信あるし」
何かを睨み、彼女が吐く。視線はおそらく、アスファルトの床面に向かっていた。伸びる影か、踏ん張るべき地面か。見つめているものは、判らないけれど。
同じような何かを、僕たちは見ているのだ。きっと。
「ねえ。明日って、来るかな?」
彼女が振り返る。幾度となく見た、自信ありげな笑顔を浮かべ。見慣れた表情。それなのに少しだけ、縋るような雰囲気も感じた。
僕に寄りかかるような。僕を寄り添わせるような。或いは。
「変な話だけど、私はね、今すぐになくなっても良いかなって、ちょっとだけ思ってるよ」
鏡を見るような。
「この夕空の綺麗さなら、最期にぴったりじゃない? それにね」
僕はきっと、ひどく驚いた顔をしている。同じものを見て、似たような感想を抱く。同じ空を見て、最期でも良いかと思う。言葉より先に、感覚が通じる。そういう僕たちの関係が、より当たり前のものになる。
それがとても、残酷なほどに。
「……あんたと一緒ってのも良い」
残り時間の少なさを、当たり前に強調した。
迫る最期がなければきっと、告白なんてしていなかった。僕たちの意地の張り方は、どこまでも似通っていて。ずっといつまでも伝えぬまま、永遠に似た日々をすり減らしていたのだ。
その愚かさに、気付くこともなく。
「なんか勿体なかったな、と思わなくもないんだけど」
最後に振り絞った勇気が、最期を希望で満たす。
「もっとさ、デートとか、してみたかったかな。実は」
明日は来ないかもしれない。
「私たちらしくて良かった気もするけど。こういうの」
一ヶ月先は来るかもしれない。一年先は、来ないだろうけれど。
惑星の最期は曖昧で、けれど永遠に似た寿命からは、ほんの些細な誤差でしかなくて。正式に発表されたのは、一週間ほど前のこと。
そこから今日まで悩んだ程度には、僕たちは不器用で愚かだった。
「……あのさ、明日、学校サボってみたりってのは、どう?」
夕暮れが、夜の淀みを連れてくる。明るく輝くこの街にも、未来なんてないのだけれど。
「万が一に備えてだっけ? 勉強してもしょうがないのにね」
変わらぬ日常を過ごせているのは、幸せなことなのかもしれない。
「だけどサボるのも気が進まないな。殆ど誰も来てないけど」
僕たち全てに降り注ぐ、等しく存在する最期。終わる世界を受け入れる。覚悟せざるを得ない日々。
「ならさ、個人的で無許可な課外授業ってことで、どう?」
「ま、そういうことにしてみますか。明日が来るなら、ね」
逃れられない僕たちは、今を、必死で生きている。