前編
僕の中の、彼女への記憶は二つある。
一つは天真爛漫な笑顔でどこでも場を温かくする明るい彼女の姿。
もう一つは真っ白な病室に一人、頭に包帯をして上半身だけ起こし、毎日窓の空を眺める、寂しげな彼女の姿。
…………
明々とした無数のスポットライトの下、
少年は頑丈そうな機械に手足をしっかり縛られ、身動きが指先ひとつできぬように拘束してある。
少年はつぶやくように、
―お願いします―
と小さく一言。
そのまま睡魔だろうか、意識は痛みも無く溶けるようにブラックアウトした。
近頃ではニュースで頻繁に取り上げられる脳内改造の話題。
失敗すればイコール脳死という大規模リスクは伴うものの、パソコンよりも早い演算能力、会話をしなくとも脳内から発せられる電子信号のみで情報伝達を円滑に送ることができる便利性。
まさに脳に直接メールを送るようなもの、生きながらにして直接記録される記憶媒体。
この情報化社会では早い情報ほど価値がある。ある意味、釣りたての魚のように鮮度が命なのだ。
長きにわたり、車、家電、アニメーション等の沢山の特化需要で我が国は生き長らえてきた。
だが、いつの間にかそれらは廃れ落ちぶれ、多国の急成長になんとか取り入る、バブル崩壊期から二千八十年になってもダメな借金国なのは国民全てが知るところの話だ。政治家の痴話喧嘩も歴史が移り変わろうと変わりない。
そこで、なんとか新たな輸出物を見つけたいのが誰もの狙いそして願い。反対派の反発も凄まじいものがあった。もはや人間ではない、人間の気持ちを持たないロボットなどいろいろ言われたが、政府は半ば無理矢理に脳内改造を推し進め、
それから間もなくして、日本脳内改造技術革新(NT)が発足された。
……はい、みんなちゃんとノートとったか? アナログでもノートは大事だぞ。今言った箇所はテストにでるから抑えておくように、寝てるやつには教えるなよ。
―――――――
おはよ!
……へ?
おはよ! もしかしてさっきの授業また寝てた?
いや、別に、
とは言うもののやべ、まるで記憶がない。また寝ちまったのかもしれない、やべ、制服に涎垂れてるし、
安倍先生ノートのことだときっついからね、うわマジで寝てたんだ。根性ある〜
今は二千百十六年。初夏。暑い。とくに頭が焼けるように暑い。
脳内改造大国の日本は先進国を圧倒する革新的な技術により、ほぼ全ての国民が脳内改造された。
今の“病院へ行く”は、体を見てもらうより先に脳を見てもらう意味を刺す、といったくらい最先端の最先端をいっている。
メモリーじゃダメなのかな?
さあ知らない、下向いてたんじゃ目でメモリーとれないんじゃない?
いいじゃん別に、それより、あとでノート見せろよ
いやよ、先生も寝てるやつはほっとけとか言ってたし、しーらない、
いたずらに笑う彼女は幼なじみの同級生。
彼女は家も近所でよく会うのだが、彼女はクラスでただ一人、脳改造は宗教上の理由か家庭の事情らしく施されていない。
だが勉強はクラスでも指折りで、彼女を遠目で眺めては、脳内をバックアップ含めフルで使ってる俺より勉強できるこいつってスゲエなと溜息混じりに尊敬するばかり。
なあ、帰ってから勉強ってどれくらいする?
さあ、まちまちかな。勉強嫌いじゃないし、今じゃNT施してるのが普通だけど、施すのが全てじゃないと思うしさ、やっぱ私から見たら脳をいじるって怖いもん
まあ、逆の立場ならそうかもしれない。ボルトナットを脳内に約四十本以上組み込まれ、取り出せるモノアイ式の眼球。ほぼ金属製の朽ちない頭。
そうかもな、〇〇はそのままがいいよきっと、
そんな会話をしたのはちょうど三年前のこと、
まだその頃高校上がりたての真っさらな二人は、世間や苦悩などまったく知らず笑顔が堪えなかった。
なあ、飛び降りなんてやめようよ
僕と彼女の間にはフェンスがあり風が強く、学校の屋上はピリピリとした空気を佇んでいた。
狡いわ、貴方達が憎い、
目の下にできた酷いクマに老婆のように痩せ細った彼女の表情は遠目からみてもあきらかに窶れている。
彼女はフェンスの向こう側で両手は何もつかまらずフラフラしながら、今にも落ちてしまいそうにしている。ゆっくりこちらを振り向くと胸に手を当てて怒りと憎悪をあらわに声を荒げた。
なんで、なんで授業中寝てたあんたが一流企業で、なんで私がしがないバイトしかあてがないのよ、なんでよ!
……言いたいことはわかる。
そう、言いたいことはわかる。三年生期末試験テストの結果は誰が見ても明らかだった。
この三年の間でNTを施されていない彼女は、見る見るスポーツ面学業面で下がり、下から数えたほうが早いくらいに落ち込んでいた。
八桁の暗算も軽々できる僕等に、彼女は明らかについていくことができなくなっていた。
死ぬわ
だめだ!
フェンスの向こう側ではさすがに手を伸ばそうが目の前のフェンスを掴むばかり。
全ては私が悪いの、世界は悪くないわ
彼女は風に流されるようにフラッとよろけると屋上から消えていた。僕は真っ逆さまに飛び降りたとわからなかった。
下から女子生徒の悲鳴で急いでフェンスを乗り越え、下を見下げれば赤い花が咲いているようだった。
彼女は頑丈そうな機械に手足を縛られ、身動きがとれぬようしっかり拘束してある。
医者達数名はお互いに向かい合い小さくつぶやくように、
―お願いします―
と一言。
この景色、忘れていて今思い出したのだが昔みたことがある。
僕の脳を手術した際にあとから見せられた映像だ。
幼い僕は恐怖だろうか意識は簡単にブラックアウトし、そのまま手術をされた映像。
NTを施され過去の自分の記憶は消え、よく状況がわからない僕は、
拘束され横たわり脳を弄られる自分の姿を見ながら、生きた心地がせず強い吐き気と頭痛に苛まれ、またそこでブラックアウトした。
おはよ、
……どなたですか?
君は強い人だからきっと今から幸せになりますよ。
……事情が飲み込めませんが?
それから彼女の病室へ毎日のように足を運び、花瓶の水を入れ替えたり、話しかけたりした。
僕が病室の扉を開くと必ずといっていいほど上半身だけ起こし、毎日窓の空を眺める、寂しげな彼女の姿がそこにはあった。
何を考え、何を思いながら空ばかりを見続けたのかわからない。そして翌年のこと、いつものように彼女の病室の扉を開けばそこには片付けられたベッドが一つ置いてある。姿は忽然と消えていた。
彼女はとうとう何も言わずに去ってしまった。