身代わりの生贄花嫁から脱走し、山奥でパン屋を始めたら、拾った子犬が人間界最強の黒狼公爵でした
「お姉様、お願いですから私の代わりに『死神公爵』の元へ行って! あんな恐ろしい化け物の花嫁になんて、私絶対に嫌!」
実家の豪奢な応接間で、妹のエレナが泣き叫んでいた。
両親もまた、冷徹な目で長女のコレットを見据えていた。
「コレット、お前が身代わりになりなさい。相手は北方を統べるヴォルクハルト黒狼公爵家。歴代当主は狼の狂気を宿す化け物揃いだ。行けば二度と生きては戻れまい。だが、魔力も持たぬお前なら、我が家の尊いエレナの盾になる価値くらいはある」
コレットは静かに頭を下げ、「かしこまりました」と答えた。
もちろん、大人しく化け物の生贄になる気など微塵もない。
コレットには誰にも明かしていない秘密があった。彼女の手は、あらゆる食材に宿る大地の精霊を呼び覚まし、食べた者の魔力枯渇を癒やす【豊穣の祝福】を帯びていたのだ。
輿入れの馬車が北の深い山道に差し掛かった吹雪の夜、コレットは持ち前の身軽さで馬車を脱走。あらかじめ用意していた粗末な旅装に着替え、追手の来ない山奥の小さな宿場町『リーベンドルフ』へと逃げ延びた。
(今日から私は、ただのしがない町娘。誰の身代わりでもない、私の人生を始めるの)
それから半年後。
町の外れに、小さな香ばしい匂いを漂わせる木造の店があった。
コレットが開いた小さなパン屋『こむぎ亭』だ。
彼女が祝福を込めて焼き上げるパンは、外はパリッと香ばしく、中は驚くほどもっちりとして甘い。ひとくち食べれば体の芯からポカポカと温まり、旅の疲労が一瞬で吹き飛ぶと評判を呼び、今や町中の人々から愛される店になっていた。
そんなある大雨の夕暮れ時。
店仕舞いをしようと裏口の扉を開けたコレットは、ゴミ箱の陰で震える小さな黒い塊を見つけた。
「……あら? まあ、大変……!」
それは、泥と血にまみれてぐったりと倒れ込む、手のひらに乗るほど小さな黒い子犬――のように見える生き物だった。
漆黒の柔らかな毛並みに、夜空を切り取ったような深い紫紺の瞳。全身に深い切り傷を負い、体温が急速に奪われていた。
「大丈夫よ、怖くないわ。今あったかくしてあげるからね」
コレットは躊躇なく泥だらけの体を抱き上げ、店の厨房へと運び入れた。
ぬるま湯で優しく泥を洗い流し、清潔な布で包んで暖炉の前に寝かせる。それから、焼き立ての丸パンを温かい山羊のミルクに浸し、スプーンですくって小さな口元へと運んでやった。
「お腹すいたでしょう? 少しずつ食べてね」
子犬は警戒するようにピクリと耳を立てたが、ミルクパンの甘い湯気に抗えず、ペロリと舌を伸ばした。
その瞬間、子犬の紫紺の瞳が驚愕に見開かれた。
モグモグと無我夢中で食べ進め、あっという間に小皿はピカピカになった。
コレットの【豊穣の祝福】が染み渡り、子犬の傷口は見る見るうちに塞がっていく。
「ふふ、いい子ね。私の名前はコレット。今日からここはあなたの家よ。よろしくね、クロ」
コレットが喉元を撫でてやると、子犬は「くぅん……」と甘えた声を漏らし、彼女の膝の上に顎を乗せて丸くなった。
だが――コレットは知らなかった。
この可愛らしい子犬の正体が、帝国最強の武力を誇る『黒狼公爵』ディートリヒその人であることを。
魔獣討伐の罠に嵌められ、呪いによって幼獣の姿に退行させられていたディートリヒ。
彼の魂を蝕んでいた呪詛を、コレットのパンが一瞬で完全に中和していたのだ。
それからというもの、奇妙な二重生活が始まった。
昼間、クロはコレットの足元にぴったりと寄り添い、店を訪れる客を鋭い眼光で威嚇しながらも、コレットが頭を撫でてくれると蕩けたように尻尾を振る愛らしい看板犬だった。
しかし――夜、コレットが二階の寝室で深い眠りに落ちると、奇跡が起きる。
ボワッ、と微かな黒煙が上がり、暖炉の前にはすらりと長い脚を持つ大人の男が立っていた。
濡れ羽色の黒髪に、彫刻のように研ぎ澄まされた精悍な美貌。夜会服を完璧に着こなした、帝国最高位の貴族――ディートリヒ・フォン・ヴォルクハルト公爵その人だ。
「……私の天使。無防備に眠って……愛らしすぎる」
ディートリヒは静かにベッドへ歩み寄り、寝息を立てるコレットの頬に、自らの大きな手の甲をそっと滑らせた。
その瞳には、昼間の子犬と同じ、狂おしいまでの執着と情愛が宿っている。
彼は命の恩人であるコレットの寝顔を見つめ、静かに誓った。
(お前を捨て、身代わりに差し出そうとした実家も、お前を脅かす全てのものも、私が必ず根絶やしにしてやる。……お前が望むなら、この小さなパン屋ごと世界で一番安全な私の城へ迎え入れよう)
夜が明けるまでの間、ディートリヒは人間に戻った姿で、恩返しと称して店の仕込みを完璧に片付けた。
山のような薪を素手同然の怪力で綺麗に割り、小麦粉の重い大袋を倉庫から厨房へ軽々と運び、厨房をチリ一つない状態まで磨き上げるのだ。
翌朝、目を覚ましたコレットは目を丸くした。
「あれ……? 薪が全部割れてる……! 妖精さんでもいるのかしら?」
足元で、子犬の姿に戻ったディートリヒが「わん!」と誇らしげに胸を張って尻尾を振っていた。
そんなある日、不穏な影が店に現れた。
「おい、コレット! こんな吹き溜まりの町で油を売っていたとはな!」
下品な大声を上げて踏み込んできたのは、実家の父と、妹のエレナ、そして護衛の騎士たちだった。
「お父様……! どうしてここが……」
「公爵家から『花嫁が届いていない』と督促が来たのだ! 貴様が逃げ出したせいで、我が家は取り潰しの危機だぞ! さあ来い、化け物の生贄になりに北へ行くんだ!」
父がコレットの腕を乱暴に掴もうとした、その瞬間――。
――ガウゥッ!!
足元から猛然と飛び出したクロが、父の手首に容赦なく噛みついた。
「ぎゃあああっ!? なんだこの汚い野良犬は! 叩き殺せ!」
騎士の一人が剣を抜き、子犬へ振り下ろそうとした。
「やめて!!」
コレットの悲鳴が響いた刹那。
ドゴォォォォンッ!!
店内の空気が一瞬で氷点下に達し、黒い暴風が吹き荒れた。
吹き荒れる魔力の中で、子犬の姿が瞬く間に巨大な影へと変貌を遂げる。
「……誰を叩き殺すと言った?」
低く、骨の髄まで震わせるような重低音。
煙が晴れた厨房の中心に立っていたのは、漆黒のマントを翻し、冷酷無比な瞳で騎士たちを見下ろす、本物の『黒狼公爵』ディートリヒだった。
「ひ、ひぃぃぃっ!? ぼ、ヴォルクハルト公爵閣下……!?」
父が腰を抜かして床に転がる。妹のエレナも顔面蒼白で失禁寸前だった。
ディートリヒは抜刀された騎士の剣を素手で掴むと、飴細工のようにへし折った。
「我が命の恩人であり、我が最愛の妻となるコレットに手を上げようとした罪……万死に値する」
「め、滅相もございません! こやつは生贄の身代わりでして、本物の花嫁はこのエレナで――」
「黙れ、薄汚い害虫ども」
ディートリヒの紫紺の瞳が鋭く光る。
「貴様らが愚弄したコレットこそが、私の呪いを解いた唯一無二の伴侶だ。貴様らの伯爵家は本日付で取り潰し、全資産を没収の上、全員を北の最果ての極寒鉱山へ送る。二度と日の光を拝めると思うな」
「そ、そんなぁぁぁっ!」
悲鳴を上げながら、護衛ごと引きずり出されていく元家族を、コレットは呆然と見送った。
静まり返った店内。
恐る恐る振り返ったコレットの前で、冷酷な公爵はすっと表情を崩した。
そして――子犬の時と同じように、情けなく眉を下げてコレットの前に跪いたのだ。
「……すまない、コレット。正体を隠していて」
「あ、あの……クロ……なの……?」
「ああ。貴女の温かいミルクパンに救われた、貴女の犬だ」
ディートリヒはコレットの手を両手で包み込み、宝物を拝むように額を押し当てた。
「貴女をあんな下劣な連中の元へ渡す気は金輪際ない。私の全領地、全財産、この命の全てを捧げる。どうか私の城へ来てくれないか。……もちろん、貴女のパン屋ごと、城の庭にそのまま移設させよう。一生、貴女の焼くパンを食べさせてほしい」
大人の色香漂う美貌の公爵が、必死にすがるような瞳で見上げてくる。
その姿は、毎朝抱き上げていたあの愛らしい子犬と、寸分違わず重なっていた。
「……もう。妖精さんの正体はあなただったのね」
コレットがふわりと微笑むと、ディートリヒは歓喜に震え、彼女の腰を引き寄せて熱い抱擁を交わした。
山奥の小さなパン屋から始まった奇跡は、国中が羨む極上のハッピーエンドへと焼き上がったのだった。
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