同じ空の下
とある会津藩士と、時の将軍徳川慶喜が出会っていたらという話です。
※作者の個人的な願望がダダ漏れなので、全然史実に基づいてはいません。
空は、どこまでも白かった。
雪も風もない。
ただ、音のない広がりの中に、二つの影だけがあった。
出会うはずのない二人。
立場も世相も超えて、何故かその二人は向かい合っていた。
一人は、粗末な具足をまとった会津の武士。
もう一人は、静かな目をした男――
徳川慶喜。
「……このような形で、お目にかかるとは」
武士は膝をついた。
その声は硬く、しかし沈黙の中に深い敬意が含まれていた。
「私もだ」
慶喜は、わずかに目を細める。
「名は」
「斎藤久蔵と申します」
その名が、静かな空間に落ちた。
慶喜は、かすかに頷く。
「……久蔵」
その呼び方に、久蔵の胸がわずかに揺れた。
沈黙が流れる。
だがそれは、言葉を探すためのものではなかった。
何故この場が用意されたのか、何故この二人なのかはわからない。
だが久蔵は、聞きたかったこと、知りたかったことを言葉にした。
「なぜ――」
久蔵が先に口を開く。
「なぜ、お止めにならなかったのです」
怒りではない。押し殺した悲しみと、理解したいという切実さだった。
ーーあの時、殿がお止めに入っていたら我々は……
自分でもわからないままに言葉を続ける。
「我らは、殿のために戦いました。京を守り、命を賭けて――それでも」
言葉が詰まる。
「……それでも、殿は一人で刀を置かれた。一人でお決めになられた」
慶喜は、しばし目を伏せる。
「あの時私が止めていれば……」
静かな声が落ちる。
「お前たちは、己を否定されたと思うであろう」
久蔵の指が、わずかに強く握られる。
それをひと言でも言ってくだされば。
いや、たとえ殿が何か言ったところで……俺たちは止まらなかった。止められなかった。
それでも……
「では……なぜ、何も仰られなかった」
「言えば、壊れる」
慶喜はたった一言。それだけを言った。
しかし久蔵には、その短い言葉に込められた重さが痛いほど伝わった。
言葉を重ねれば重ねるほど、互いの誇りや心は簡単に傷つく――それを二人は知っていた。
「……お前たちは正しい」
慶喜は続ける。
「私は、別の正しさを選んだ。それだけだ。」
それは、言い訳ではなかった。
ただの事実だった。
「……我らも、今さら退くことはできませぬ」
久蔵は顔を上げる。
「それが、我らの道ゆえ」
「知っている」
二人の間に再び沈黙が訪れる。行燈の火だけがゆらゆらと揺れている。
雪もないはずの空間に、なぜか冷たさだけが残る。
「……ならば」
久蔵は、ゆっくりと頭を下げた。
それは、心からの願いであった。たとえ袂を分つことがわかっていても。
「どうか、生きてくだされ」
慶喜の目が、わずかに揺れる。
「殿が生きておられることがーー我らの、最後の証となります」
最後まで戦ったことの証。
慶喜が生きている。それだけで……
その言葉は、責めでも、願いでもあった。
「……承知した」
慶喜は静かに応じる。
それで、すべてだった。
二人は、互いにそれ以上を望まなかった。
いや、望めなかった。
言葉にすれば、どちらかが崩れる。
言葉では言い表せない何かが二人の間にあるという事に、互いに気付いているから。
だからこそ――
そのまま、言葉は交わさない。静かな時間だけが過ぎていった。
(殿……)
* * *
景色がほどける。
音が戻る。時間が、再び流れ出す。
駿府の庭に、夕暮れが落ちていた。
柔らかな光が、松の影を長く引く。
慶喜は、縁側に座っていた。
手には何もない。
ただ、庭を見ている。
「……斎藤」
ふと、名が漏れる。
わずかな間のあと
「……いや、久蔵は」
その呼び直しは、どこか静かだった。
「達者であろうか」
景色には風もなく。だが、庭の奥で何かが揺れたような気がした。
返事はない。
それでも、構わなかった。
「ーーふ……」
その微笑みにどんな意味が込められていたのだろう。
自嘲?哀れみ?それともーー
同じ空のどこかで、あの男は生きている。
そう思えた。
夜が、西からゆっくりと降りてくる。見慣れた景色のはずなのに、今日はやけに眩しく感じられた。
* * *
同じ頃、北の地にて。
火が一つ灯っていた。あの時二人が見た行燈の火に似ている。
囲炉裏の前に、久蔵は座っている。
手は荒れ、衣は質素だが、その背は崩れていない。
「……今日も、終いだな」
誰に言うでもない呟きが小さく響く。
薪がはぜるぱちぱちという音だけが部屋中を満たしていた。
ふと、ゆらゆらと揺れる火を見つめたまま、口を開く。
「……殿は」
一度、言葉が止まる。
「……お達者であろうか」
久蔵はそれ以上は言わなかった。戦が終わっても、殿のために戦った。
その事実だけが、久蔵の心を強くした。
だが、それでよかった。
『どうか、生きてくだされ』
久蔵の言葉通りに殿は生きている。
あの時、確かに出会い、言葉を交わした。
それだけで、十分だった。
久蔵は静かに目を閉じる。薪のはぜる音が何故か今日は妙に心地よい。
空は、繋がっている。
会うことはない。
それでも――
同じ空の下で、それぞれが、それぞれのままに生きている。
それだけが、確かなことだった。
幕末は薩長とか新撰組とかが人気ですが、私は何故か会津に惹かれてしまいます。いえ、ただ単に私は「武士道精神」が好きなんです。会津藩士は武士としてひたすら泥臭くて美しい。もちろん薩長にも武士道精神は備わっていたと思います。
形勢が不利になっても曲げなかったその精神は、涙が出るほど美しく、語り継ぐべき物語だと私は思います。




