9. 縮めてはいけない距離
アンドレアスと再会した夜から、ルツィエはずっと悩んでいた。
(フローレンシアが滅んだのは皇太子のせいなの……?)
今まで皇后が神宝花を欲しがったため、ヨーランに命じてフローレンシアに攻め入ったのだと思っていた。しかし、皇太子の言葉の通りであれば、実際は皇太子の意思で戦争を起こしたのだろうか。
(いえ、それなら「自分がフローレンシアを滅ぼした」と言うはずじゃないかしら。「自分のせいで滅んだ」という言い方は意味が違う気がする……)
そもそも、皇后はなぜフローレンシアを滅ぼしてまで神宝花を手に入れようとしているのだろう。フローレンシアを征服したあともずっと探し続けているらしく、異常な執着心に思える。
(神宝花を欲する理由も目的も分からないけれど、たとえそれが何であろうと簡単に他者を殺めていいはずがない。皇后には決して奪われてはならないわ)
ルツィエは身の内に宿る神宝花を守るように、そっと胸元を押さえた。
◇◇◇
三日月が美しい夜、アンドレアスはまた離宮の庭の片隅で、ひとり膝を抱えて座っていた。
この場所が空き家ではなく、ルツィエ王女の居所になってから、なるべく来るのは控えていた。しかし、今夜はどうしても耐えることができずにやって来てしまったのだった。
あの日からずっと悪夢にうなされている。
暗闇の中で足蹴にされ、「なぜここにいる」「消えてしまえ」と罵倒される夢。どんなに見たくないと思っても毎晩のように繰り返されるせいで、眠るのが恐ろしくなり、夜を迎えることさえ厭わしくなった。
でも、この場所に来ると、少しだけ心が落ち着いた。
最悪の記憶も蘇ることにはなってしまうが、それでも幸せな思い出があるのはこの場所だけだから。
(誰にも見つからないよう息を潜めていよう。心の騒めきが収まったら、すぐに帰らなくては)
ここはもうルツィエ王女の離宮。
本来ならこんな風に訪れていい場所ではない。
(それなのに、俺が来るのを快く許してくれて親切な人だ。いや、俺が皇太子だから許さざるを得なかっただけか……)
ルツィエの立場を想像して申し訳なく思っていると、木陰の向こうでふわりと何かが揺れるのが目に入った。
(あれは……ルツィエ王女?)
薄桃色の髪を肩に流し、木に咲いた花を愛おしげに撫でている。彼女もまた眠れずに庭を散歩しているのだろうか。
(彼女を見ていると、何とも言えない気持ちになるな……)
聖花国の王女らしい花のような美しさで、いつも微笑みをたたえているが、彼女の境遇を考えればあり得ないことだ。きっと心の奥底に暗い影をしまい込んでいるのだろう。
そう思うと、彼女に同情する一方で、妙な親しみのような感情も覚えてしまう。
(俺も誰にも言うことができない暗い感情を抱え込んでいるから……)
ルツィエに自分自身を重ねながら、彼女の綺麗な横顔を見つめていると、その清らかな水色の瞳がふいにこちらに向けられた。
「……皇太子殿下?」
今夜は一人きりで過ごそうと思っていたのに、また見つかってしまった。けれど、どうしてか少し胸が安らぐような心地を覚えた。
「また来てしまってすまない」
「私は構いません。殿下のお好きになさってください」
「そう言ってもらえるとありがたいが……なぜ俺が何度もここを訪れるのか理由を聞かないのか?」
「私が知るべきことではないと思います。それに、誰にでも詮索されたくないことはありますから」
ルツィエが礼儀正しく返事する。
理由を問われないことに安堵する反面、明確な一線を引かれたようで、どこか寂しい気持ちにもなる。こんな気分になるのは、ついさっきルツィエに自分の心情を重ねてしまったせいだろうか。
「そなたは節度のある女性だな。でも、本当は他に聞きたいことがあるのではないか?」
静かにこちらを見つめる彼女の目から、わずかにではあるがアンドレアスを探るような色が見えた。だからあえて尋ねてみると、ルツィエは薔薇の蕾のような唇で「はい」と答えた。
「そうか、何が聞きたい?」
「……では、恐れながらお伺いいたします。先日、皇太子殿下は、フローレンシアが滅びたのは自分のせいだと仰っていました。それはどういう意味でしょうか」
ルツィエの視線から射抜かれてしまいそうな強さを感じる。
自分にもあのような強さがあったなら。
思わずそう感じてしまった。
「……そのままの意味だ。俺さえいなければ、そなたは今もフローレンシアで幸せに暮らしていただろう。だからそなたは俺を恨んでいい」
「でも、戦争を命じたのは皇后陛下であって、殿下ではないのでしょう?」
「……たとえそうでも、やはり俺のせいだから」
ルツィエに詳細を話すことはできない。
彼女まで面倒ごとに巻き込むわけにはいかないから。
「そなたの境遇を思うと本当に申し訳ない。俺が力になれることがあれば言ってほしい。ここを訪れることを許してもらっているお返しもしたいんだ。……とは言え、大したことはできないかもしれないが」
皇太子という立場にあるとはいえ、実のところ、自由に出来る範囲は限られている。それでも、この不憫な王女のためにできることがあるなら、手助けしてやりたかった。
(彼女にとっては、それさえ屈辱かもしれないが)
やはり不快に思ったのだろうか、ルツィエは小さな頼みごと一つすることなく、丁寧な断りの言葉を返した。
「お気遣い痛み入ります。ですがお気持ちだけで結構です。せっかくいらしたところ、お邪魔してしまい申し訳ありませんでした。私は失礼しますので、ごゆっくりなさってください」
そう言って優雅に一礼すると、ルツィエは建物のほうへ戻っていってしまった。
「少し踏み込みすぎてしまっただろうか……」
きっと親しみなんて感じているのは自分だけなのに、つい距離を縮めようとしてしまった。
自分の立場をしっかり弁えなければ。
アンドレアスは、さっきルツィエが撫でていた花を眺めながら、か細い溜め息をついた。