01 人魚姫(前)
(え、ニンギョ……?!)
ヘンリエッタが見たのは、海辺に打ち上げられているどう見ても高貴な格好をした見目麗しい青年を懸命に助けようとする美少女――ただし、体の半分はおさかな――だった。
ヘンリエッタがここの修道院に来てから半年。
すっかり日課となった建物周辺の清掃作業を終え、集めたゴミを捨てに行こうとした時だった。
崖下から、何やら声が聞こえたのは。
この修道院は、海のそばのちょっとした崖の上に建っていて、いつか誰かが設置した石階段を少し降りれば、ささやかな砂浜とゴツゴツした岩場だらけの海辺に降りることが出来る。
ヘンリエッタはたまに修道院を抜け出し、その砂浜で波が押しては引く様子を眺めることが好きだった。
そのイチオシのスポットから、何かの声がする。
始めは猫かと思ったが、そろりそろりと近づくにつれて、それが人語だと分かる。
大変なことに巻き込まれるとまたシスターに怒られると思いながら岩壁からこっそり覗くと、冒頭の珍事が起きていたのだった。
(ナマ人魚!麗しすぎます!というか、この世界は人魚もいたんですね~魔法使えるだけじゃなくてそんな存在にも会えるなんて僥倖です)
うんうんと彼女が1人納得していると、砂を踏みしめる足に力が入ってしまったのか、足元の砂がジャリ、と軋んでしまった。
その音に顔を上げた人魚は、慌てて海に戻って行ってしまう。
人間に見られるのはアウトなのかもしれない。
そうして、波が絶えず打ち寄せる砂浜には、意識のない男性が1人取り残された。
慌てたヘンリエッタは、急いでその人に駆け寄って、頬をペチペチしたり、体を揺すったり、呼びかけたりする。
「……ん」
かすれた声と共に、男性の瞼がうっすらと開く。
晴れた日の海より鮮やかなブルーの双眸がヘンリエッタを見つめていた。
「! 気がつきましたか?」
「あ、れ……僕は……?」
「あ、無理はなさらないでください。……そう、ゆっくり」
慌てて起き上がろうとした彼を制し、ゆっくりと半身だけ起き上がらせる。
砂や木屑など、色々なものが付着しているし、髪も海水でべったりと濡れている。
だが、近くで見る彼はとても整った顔をしている。腰から下げている短刀の柄についた装飾も豪華で、何かの紋章のように見える。
彼はまるで王子さまのようで……。
そこまで観察して、ヘンリエッタははたと気付く。
(……王子さま? いや、まってください。このシチュエーション、なんだか既視感がありますね)
確か昨日は、台風何号ですかと思うくらい雨風が強かった。この状態で海上に居たならばひとたまりもなかっただろう。
そして、彼を最初に介抱していたのは麗しい人魚だ。
驚いた人魚が逃げた後に現れて、意識を取り戻した彼と話をする修道女風の自分自身。
おまけに自分は実は隣国の王女で、聖職者としてではなく、教養をつけるべく修道院に入っているだけの存在だ。
私は気付いてしまった。
(いやこれ、"人魚姫"のおとぎ話まんまじゃないですか。わたし、人魚姫の決死の恋路を邪魔した挙句、泡にしちゃうライバル王女だったんですね!)
ヘンリエッタは三歳の時、母の死のショックで倒れた事があった。
その時に頭の中に流れ込んで来たのは、日本人だった頃の記憶。
その膨大な量の記憶に三歳の脳は耐えきれず、熱が出て、ようやく元気になったのは倒れてから五日後のことだった。
前世では本を読む事が大好きで、特にお姫さまが出てくる絵本は小さい頃から何度も何度も読んだ。
成長してからも本好きは変わらず、図書館や図書室にもよく通っていた。
お伽話は奥が深く、ほんわか優しい児童書やアニメのものと違って、原作はなかなかグロテスクな部分もある。そうした違いも含めて、楽しんで読んでいた。
人魚姫も例に漏れず、何度読んだか分からないほどだ。
一目惚れした王子を嵐の海から助け、彼に会うために魔女と契約して足と引き換えに美しい声を失い、最後は王子の愛を手に入れられずに泡となる人魚姫の悲恋。
アニメでは幸せになる人魚姫も、原作では報われない。
泡になってしまった後、精霊になって王子たちを見守るというラストもあるようだが、言葉も話せず、うまく歩けず、自分が命を救ったことも、王子さまを愛していることも何も言えないまま消えてしまうなんて辛すぎる。
(そしてそんな健気な人魚姫のところに横からやってきて、あっという間に王子をかっさらう役どころなんですね、わたしは)
海辺に打ち上げられた王子様を介抱する修道女。
王子様はその人に恋心を抱くも、修道女とは結ばれないため半ば諦めながら人の姿になった人魚姫と共に暮らす。
そんな時に持ち込まれた王子様の縁談。
全く乗り気では無かった王子様も、相手となる隣国の王女さまの姿を見て、あっという間に了承する。
王子様が一目惚れしたあの修道女は、隣国の王女が行儀見習いをしていただけだったのだ――
状況的に、この"隣国の王女"が自分にあたるのではないか。ヘンリエッタはそう結論づけた。