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【小話】尋常小学校 秋

 山に囲まれた村の秋は鮮やかに彩られていた。 

 昼餉を取った生徒たちがあちらこちらに散らばって遊ぶなか、学友の誘いを断り校庭の隅で本を読んでいる藤村侃爾は、頭上から落ちてきた硬いものに顔を顰めた。


 開いた頁の溝に落ちたそれは帽子のついたどんぐりだった。

 艶があり、硬く滑らかな感触を、しばらくの間手の中で弄ぶ。大人びていると評価されがちな侃爾だが、彼も他の子どもと変らず自然のものへの関心は高かった。無骨な木の枝も、瑞々しいツツジの蜜も、艶のあるどんぐりも、生命力を感じるものはすべて宝物になり得た。

 着物の腹でどんぐりを擦り、柔らかな陽に透かして見る。

 膨れた実には優しい影が出来た。

 

 離れたところからザクザクと落ち葉を踏む音が聞こえる。

 侃爾はどんぐりを手の中に握りしめて耳を澄ました。

 ふらふらと不安定な律動で近付いてくる。

 胡坐の上に乗せていた本の頁が一瞬の強い風に吹かれてバラバラと捲れる。

 浮かび上がった赤や黄色の葉が連れてきたのは、菫色の着物姿の少女だった。


 見たことがあった。二つ下の弟、清那の級友であるシイという子だ。『おかしな子』『神経衰弱』と有名な彼女は、侃爾とは違った理由で人と群れることをしない。いつも一人で校庭を囲む草木を眺めている。時折見かけるが、互いに縄張りを守るように近付き合うことはしなかった。そんな彼女が均衡を破るなど予想外で、侃爾は驚いた。


 五歩ほど離れたところでシイは立ち止まり、胸の前で合わせた手をもちゃもちゃと重ねたり握ったりした。じりじりと小さく足踏みをするたび落ち葉が擦れる。

 噂通りの挙動不審だ。

 しかし、動作は落ち着きが無いのに、視線だけは侃爾のほうをじっと見て離れなかった。

 侃爾の、膝に乗せた手を見ていた。

 あまりに熱心に見られ、侃爾は思わず右手を開いた。中には先ほど手に入れたどんぐりが、親鳥に守られていた雛のようにほかほかと温められて眠っていた。

 侃爾は立ち呆けたままのシイを見上げる。


 瞬間、彼は目を瞠った。

 シイの不安げだった顔が上気して、控えめに開けられた口の端が嬉しそうに上がっていた。

 黒目がちの瞳はどんぐりと同じように艶を帯びて輝いて、気付けば彼女は侃爾の目の前にしゃがみ込んでいた。

 突然近付いてきた異性に緊張した侃爾が動けずにいると、彼の掌を覗き込んでいたシイの、一括りにした髪から漏れた一束がふわりと揺れた。

 侃爾より低い高さになったシイの幼い顔がにこっと笑う。


「きれい、ですね」

 吐息が抜けるような、しかし小さな鈴揺らしたような澄んだ声だった。傍で鳴ったそれのくすぐったさに、侃爾は僅かに仰け反る。それを察したシイも、ぱっと怯えたような表情をして後ろに下がった。違う、と侃爾は言った。

「突然声をかけられたから驚いただけだ。これ、触ってみるか?」

 侃爾は恐る恐るシイのほうに右手を伸ばした。

 言われたシイはひとけを気にするように視線を巡らせ――特に校庭の真ん中は注意深く見てから、侃爾の掌を両手で包んだ。

 何とも形容しがたい皮膚の柔らかさに触れ、侃爾は肩が跳ねる。

 この世のものとは思えない異性の甘い感触に、硬直した腕がむず痒い痺れを生む。


 しかし、その感触はすぐに離れていき、代わりに彼女の右手の親指と人差し指の間にどんぐりは移っていった。

「帽子つき」

 うっとりとシイはひとりごちる。

「ぷっくりしていてつやつや」

 ふふっと笑むたび小鼻が赤ん坊のように膨らんで可愛らしかった。

 くるくると回して、掌で擦ってみて、シイは恋する乙女のようにそれに夢中になっていた。置いてけぼりの侃爾は本の一頁の角を指先で潰して、俯いて思案し、「返せ」とぶっきらぼうに告げた。


 シイは何度か瞬きをした後に、眉尻を下げながら微笑んで「はい」と小さな手でそれを返した。

「ありがとうございました」

 深々と礼をして立ち上がろうとするシイの手を、侃爾の長い指が掴む。

 風が木の葉を揺らす。

 乾いた音に混ざって「え」と鈴の音が鳴る。

「風が強いな」

 侃爾がシイの手を引くと、彼女は再びしゃがみ込んで首を傾げた。濃い睫毛に縁どられたまん丸の目が、流行りの画家の書いた少女画みたいだと思った。


 風が収まると、侃爾は本をわきに置いて指を開き、シイにどんぐりを見せた。

 そしてポイとその実を頭上まで投げると、己の顔の前で両手を交差させ、それを掴み取る動作をした。シイは魔法に掛けられたようにそれを目で追って、胸を膨らませて唾を飲み込んだ。

「どっちに入っている? 当てられたらこれやるよ」

 侃爾は意図して無表情にシイに問いかける。


 彼女は侃爾の両手の甲をじいっと見比べては首を左右に傾けた。

 首を突き出すようにしているシイの鼻先が己の皮膚に触れそうで、触れなくて、侃爾はまるで背筋に綿毛を這わされているような感覚を覚える。


 気を紛らわすように遠くを見ると、紅葉と蒼穹が美しかった。

 生徒たちの騒がしい声。

 ひろくあかるい空間から除け者にされた薄暗い木陰。

 が彩りを吹き上げる。

 ――ふたりきりの空間。


「こっち」

 シイの声に、侃爾は中途半端に現実に引き戻された。

 指差されたほうの手を見て、自然と笑みが込み上げる。

 パッと開いた手。


「残念」

 どんぐりは右の手に乗っていた。

 それを見たシイは顔を歪めて俯き、鼻を啜り始めた。

 手の甲で目元を拭う仕草にぎょっとする。

 侃爾は汗の噴き出す己の手で慌てて彼女の手を取った。


「やる」

 上質などんぐりがシイの白い手に渡る。

「俺は、また見つけるから」

 侃爾が急いで立ち上がると、シイが濡れた双眸で彼を見上げて「いいの?」と風に攫われそうな声で訊いた。

 侃爾はそっぽを向いて頷く。


「あ、ありがとう……!……ござ、い、ます」

 弾むような音で鈴が鳴るのを聞いた。


 そのまま侃爾は振り返らずに校舎まで歩んだ。

 授業のときまで手と顔が熱く、何度も額を拭った。

 放課後、清那を迎えに行くと、清那が嬉しそうにシイに喋りかけているのが見えた。


 弟と仲が良いならいいと思った。

 いつまでもひとりでは可哀想だから。


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