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16、猫

 見紛うこと無き三毛猫であった。

 薄汚れた成猫が火鉢の傍で丸まっていた。



「何だこれは」

 障子を開いたままの侃爾を、指先で猫の頭を撫でていたシイが恐々と見上げる。

「ね、猫……です」

「見れば分かる。何故ここにいるんだ」

「あの、い、虐められていて……」

「カラスか?」

「いえ……人の子に」


 合点がいった。シイの顔と手足に出来た、細いひっかき傷。恐らく暴れる猫を宥める為に出来たものだろう。縦横無尽に走るそれは浅い傷ばかりだが、放っておくと感染の危険がありそうだ。


 顎の下撫でられている猫はゴロゴロと気持ちよさそうな声を出している。

 侃爾は処置道具を手に、猫を避けるようにしてシイに近付き腰を下ろした。矢庭に、転がっていた猫が起き上がり威嚇をする。しかしシイが背を撫でると、猫はその手に擦りついて腹ばいになった。


「傷は洗ったんだろうな。動物につけられた傷は炎症を起こしやすい」

 侃爾が尋ねると、シイは顔色を変えて首を横に振った。さっと立ち上がり、台所へ向かう。猫も後をついて行ったので、一人になった侃爾は『次は抗生物質の入った薬も必要か』とうんざりと考えながら溜息をつく。


 手拭で首を拭きながら戻ってきたシイを正面に座らせて、侃爾はいつものように薄目で古いガーゼを剥がし、傷に褐色に染まった脱脂綿を当てた。抉れた傷はいまだ塞がらずに艶々としている。

 えづきそうになるのを我慢しながら侃爾は処置を続けた。

 猫による爪痕や、治りかけてきた傷にはガーゼを貼らなくてもよいだろう。

 シイは横目で猫の様子を見て、時折手を伸ばしながら、侃爾のされるがままになっている。


「終わったぞ」

 侃爾がテープを置くとシイは丁寧に礼を言い、膝に乗ってくる猫を制止して、淹れてきた茶を出した。

「も、もし、お時間があるならば……や、休んで行って下さい」

「別に気を使わなくていい」

「は、はあ……」

 盆を抱いて寂しそうに俯くシイの横顔を見ると、心臓に棘が刺さったような妙な痛みが走った。湯呑を覗くと驚くことに茶柱が立っていて、侃爾はせっかくの縁起物だからと渋々口をつける。

 火鉢だけでは十分に暖をとれない部屋の中で、熱い茶は食道から胃の間をじんわりと温めた。


 シイが膝の上に乗っている猫を愛しそうに撫でる。

「それどうするんだ」

 侃爾が眉を顰めながら尋ねると、シイは幼い仕草で首を左右に捻った。

「まさかここに置いておくのか」


 ――『お前はもうすぐ死ぬのだろう』とは口に出来なかった。


 そういう未来を見通しているのか否か、シイは「で、でも、一人では……可哀想です」と尻すぼみな声量で返した。

「ご、ご、ごはんだけでも、あ、あげなければ……」

 ゴロゴロと猫が喉を鳴らす。

「やめたほうがいいと思うがな、俺は」

 侃爾の想像している未来は明るくない。


 しかしシイは猫を抱き上げ、白く毛の立った腹に頬を寄せて、「放っては、おけません」と珍しく芯のある言葉を呟いた。侃爾は顔を背けて、

「勝手にしろ」

 と尖らせた唇を掌で隠す。

 何も言うまい。

 自分には関係の無いことなのだから。

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