その言葉が聞きたくて
ガチムチ受けとTSが好きです。
魔法学園の大広間は一年を通して多くの催し物が開かれる場であるが、卒業前最後のダンスパーティーがある今夜はとりわけ華やかである。寄木細工の床は姿が映るほどに磨かれ、鮮やかな花が彩りを添える。クリスタルが輝きを散らすシャンデリアの、赤々と燃える蝋燭の明かりが、悪いものを闇で隠し、良いものに影の神秘を与える。
この魔法にかけられている、今日のために着飾って開会を待つ生徒達。その中でも、とりわけ美しい少女がいる。
結い上げた黄金の髪。小さな耳となめらかな胸元を飾る紅玉。肘までの手袋も、金糸で華やかな刺繍を施したドレスも赤。
扇のようなまつ毛を伏せ、物憂げに長椅子に座っているだけなのに、おかしがたい気品が余人を寄せつけない。
彼女の名はアティアンナ。王子の婚約者である。身分も美貌も飛び抜けている最高学年の彼女だが、ちらちらと向けられる少年少女の視線は憧れによるものではない。
ほらあの方が。まさか。彼女を囲んで小声の波が不穏に立つ。その人の海を、わざとらしく鳴らした靴音で割りつつ、アティアンナへ近付く影がある。
凛々しい少年だ。胸飾りの白が眩しい。銀ボタン輝くコートと、黄土の髪を纏めるリボンが同じ黒だと、彼の背に吸い寄せられるように前を向いた生徒達は気付く。
少年、すなわちアティアンナの婚約者である王子は、アティアンナの前で立ち止まり、口を開いた。
「先日、ある生徒が階段から転落し、大怪我をした。彼女は今も生死の境を彷徨っている。この痛ましい事件を引き起こした犯人は未だ捕まっていない。皆も不安を感じているだろう。私は、正義のため、そして皆が心置きなくバーティーを楽しむために、事件の真相を明らかにしたい。そのために時間をもらえるだろうか」
答えは大きな拍手だった。王子は頷いて止める。
「ありがとう。では最初に、話を聞かねばならない人がいる。アティアンナ」
そこでようやくアティアンナは反応した。さも今王子に気付いたように視線を上げ、しかし立たずに微笑んで小首を傾げる。
去年まで睦まじい仲で知られていた婚約者の二人が、緊張の糸の両端にいる様子に、周囲の目は好奇に輝く。
「君は彼女が別棟の階段から落ちたとき、まさにその現場にいたな。一体なぜそこにいて、何をしていた?」
「あらいやだ、まるでわたくしが彼女を突き飛ばしたかのような仰り様。わたくしは、彼女とお喋りをしていただけですわ。なにせわたくしと彼女が朝に挨拶しただけでも、昼にはそれが学園中に広まってしまうんですもの。どんなに些細なお話でも、人目を避けざるを得ませんのよ」
「『お喋り』?」
「彼女から相談を受けておりました。最近、無視されたり物をぶつけられたりするとか。先生方にも報告したけれど、何も変わらないと仰って。お労しかったわ」
「そうか。それで、話していたら急に落ちたと?」
「突然わたくしの背後から強い風が吹いたのです。彼女はそのせいで。わたくしもよろめいてしまったけれど、誓って彼女に触れてはいませんから、意図せずぶつかって、という可能性もありませんわ」
「あの日は突風もなかったはずだが」
「それでも風は吹いたのです。彼女とわたくしを害する風が」
顎をあげて言い切ったアティアンナ。王子は一瞬目尻を下げかけ、慌てていかめしい表情を作る。
「はっきり言う。君に彼女を突き落とした疑いがかかっている。彼女の受けていた仕打ちの主犯である疑いも。君が彼女を押す瞬間を目撃したという者がいるんだ」
観衆がどよめく。まさに噂の通りだった。
今年度になって魔法のように現れた男爵の庶子である例の少女は、王子の心を見事射止めた。アティアンナが一緒にいても、少女をそばから離さない王子の執心ぶりに、アティアンナは嫉妬のあまり魔女と化し、少女を苦しめているという噂。
「何のことやら。心当たりがございませんわ」
「風魔法を使ったのでは?」
「『押す瞬間』を目撃した方がいらっしゃると仰ったばかりでしょうに。そうね、嘘をついたとまでは申しませんけれど、咄嗟に彼女のために手を伸ばしたのを見間違ったのではないかしら」
「とぼけるのか。最悪の場合、人が死ぬような事件を起こしておいて。自らの行いを恥じ、被害者に詫びる気持ちが少しでもあるのなら、自白すべきだ。これは君だけの問題ではないんだぞ。君がこんな悪事をしでかしたと知れば、君のご両親はどれだけ心痛を覚えることだろう。家名には傷がつき、この婚約もどうなるか分からないのに」
「わたくしは無実です。お父様とお母様もわたくしを疑うはずがありません。きっと本当の犯人を見つけ出し、わたくしの名誉を挽回してくださるわ。すべてが明らかになったとき、もし犯人が厚かましくも結婚して家庭を持っていたら愉快なことになるでしょうね。ああ、考えるだけで耐えられませんわ。一族の評判を台無しにして、子から人殺し、夫から嘘つき、親からは恥知らずと罵られるなんて!」
そのとき、何かが倒れた音がした。芝居の山場を壊すなと非難する視線がばっと集まる。
少女が、尻もちをついたまま固まっていた。緑のドレスのその少女もまた最高学年で、アティアンナに次ぐ家格である。
王子とアティアンナがゆっくりとそちらを向く。少女が震える。
「顔色が悪いな」
王子の指摘は、さらに少女を青褪めさせた。もはや後退もできない少女。アティアンナが優雅に立ち上がり、踏み出す。
「どうなさったの? そんなに怯えていらっしゃると、まるで追い詰められた悪い方のように見えますわよ。ほら、お立ちになって。手を貸しますわ」
言葉通りアティアンナは少女に手を差しのべる。少女は唇を戦慄かせてアティアンナの顔だけを見つめている。
誰も動かない長い間。ついにアティアンナは背を伸ばし、告げた。
「あなたの負けよ」
一拍置いて、少女の頬に血がのぼり、目から大粒の涙がこぼれた。頬を何度も拭い、喉をつまらせながら叫ぶ。
「始めからお芝居だったのね! 二人してわたくしを陥れるためにわざと恐ろしい話をしたのだわ! あの子が死にかけてるなんて言ったのも嘘よ、嘘!」
「さすがのご推察ですわ。もっと大胆な方だったらこんな方法は通用しなかったでしょうが、助かりました。あの子への嫌がらせもあなたでしょう?」
「そうよ! だっておかしいじゃない。聞いたこともない家の庶子風情なんて、婚姻で家を繋ぐ綱にすらなれない穀潰しのくせに、その対極の婚約者を差し置いて殿下の寵愛を受けるなんて。嫡出の重みも知らないあんな下品な脳足らず、妾になって妻を苦しめるに決まってるのだから、儚くなった方が世のためだわ。あなただって憤るべきなのに、何にもしないでぼんやり二人を許した罪人なのに。だから懲らしめてあげただけなのに、あなたたちのせいでお終いだわ。まとめて消えれば皆幸せになったのに……!」
少女が身を折って涙に溺れる。
アティアンナ達は身勝手な動機に眉をひそめたが、少女の行い自体は否定しなかった。権謀術数を巡らすのは貴族の習い。王子とアティアンナがこのように公然と吊るし上げたのも、王子が口にした通りの義憤からではなく、三角関係とアティアンナの容疑を晴らしておかねば、今後の政治に響くからである。この場で明らかになったのは、あくまで勝敗なのだった。
少女のもとへ教師が駆け寄り、肩に触れてぱっと掻き消える。これで終わりだと起こりかけたざわめきを、アティアンナの手を取った王子が視線を巡らせて収めてから、ため息をついてみせる。
「まさか会ったばかりの女の子へあっさり心変わりしたあげく、その仲をあからさまに見せつけるような男だと思われているとはな。私は正直傷ついたぞ」
「間違いなく友人の距離のお付き合いでしたのに。皆様、障害のある恋のお話が本当にお好きなのね。いい教訓になりましたわ」
アティアンナが微笑むと、いよいよ生徒達は静まりかえる。
「せっかくだからお教えしますけれど、彼女には恋人がいらっしゃるの。わたくしと殿下は恋人の方から彼女のことをお願いされていたのです。殿下が彼女を寵愛したなんて事実は一切ありませんわ」
「本当に、男女というだけでこんな面倒が起こるなんてな。まあいい、恨み言はここまでにして、最後は嬉しい知らせで締めようではないか。さあ、扉の前を開けて。お呼びしよう。叔父上!」
王子が呼びかけると、空いた空間に、どこからか少女と男が現れた。
胡桃色の髪の少女こそ、今回の事件の被害者だった。緊張を隠せず唇を固く結んでいても、大きな瞳が見る者に可憐な印象を与える。白に近い桃色の生地を何枚も重ねた、八重の花のドレスもあって、妖精のようだ。
小柄な少女をエスコートするのは容貌も色彩も王子と似た男で、その通り王子の年若い叔父にあたる公爵のジリアンだった。王子より柔和な顔立ちながら、人形に命を吹き込む独自の魔術を使い、ダンジョンを単独攻略した魔物狩りでもある。灰がかった青のコートを着こなす様子を例えるなら、湖の精霊だろう。
安否が不明だった少女の元気な様子と、有名人の登場に、会場は歓声と拍手の渦だ。
少女は公爵を残して一人進み出、王子とアティアンナに礼をした。
「この度は、ご卒業おめでとうございます。学園で殿下とアティアンナ様にたくさんご迷惑をお掛けしたのに、格別のご厚意を賜りましたこと、私一生忘れません。心よりの感謝を申し上げます」
「まあ、あなたを守れなかった不甲斐ないわたくしに、なんて嬉しいことを言ってくれるのかしら。かわいい子、あなたの幸せをいつも願っているわ」
「感謝などするな。今回の件、君に責任はないのだから、気に病むなよ。私が叔父上に怒られてしまう」
「とんでもないことです。夢のような日々でした。本当にありがとうございました」
目を潤ませて述べてから、少女は下がった。そして気が抜けた仕草でジリアンに寄り添って甘えている。その様子と学園での振る舞いを比べれば、少女と王子が節度を持った友人付き合いをしていたのは明白だった。
王子は、現れた場所から動こうともしないジリアンに視線で退出を促す。そして、あっさり恋人を連れて消えた叔父に、アティアンナと揃って呆れたのだった。
ジリアンの屋敷に戻った少女は、楽なドレスに着替え、リビングで息をつく。
「大丈夫か? 怖かっただろう」
「ううん。私を嫌ってたのがあの人だって知れてほっとした。悪意を向けてくるのが誰だかわかんない方が怖かったの。でも、嫌がらせをしてきた人は、他にもたくさんいるんだよね」
「では学園を辞めよう。それがいい」
「ええ? 極端だよ、ジリアン様」
「庇護者が卒業してしまったので、悪意満ちる学園に通い続ける自信を無くし、転校した。それらしい理由じゃないか」
少女の笑みは、ジリアンの本気を察して困惑に変わった。
「……ジリアン様?」
「本当は落下死で処理したかったんだが、彼女に殺人の罪を着せるのは気が引けてね。なにせ彼女のおかげで自然な流れで君を消すことができる。感謝してるんだ」
「何のお話ですか?」
「私達も芝居を終わりにしましょう、という話です」
怯えはじめた少女へ、ジリアンは優しく笑いかける。だが強引に少女の腕をつかみ、悲鳴を無視して連れ出した。
向かったのは彼の私室ではなく、そこから続く隠し部屋だった。
小さな部屋である。窓はなく、魔灯か白白と光っている。ベッドにはクッションがいくつも置いてあり、そこに背を預けた姿勢で、男が寝ていた。年の頃はジリアンと同じくらい。うねる短髪は黒く、眉は太く、濃いまつ毛までも男らしい。
シーツは下半身だけにかけられている。一糸まとわぬ上半身は逞しく、胸部の筋肉は丸く盛り上がり、二の腕も並の人の足ぐらい太い。
少女を解放したジリアンは、ベッドに腰掛けて、立ち尽くす少女を見る。
呆然とする少女は、すべてを思い出していた。この男の名はメデオ。平民の魔物狩りにして、ジリアンの友であり、少女の真の姿である。
あれは大きな依頼の報酬を貰った日のことだった。しばらく遊べるくらい懐が暖まったので、まずジリアンと飲もうと屋敷を訪ねたら、すでに祝いの席が用意されていた。メデオは喜び、勧められるまま酒を飲んだ。その記憶を最後に、今ここに立っている。
少女もといメデオは手近な椅子にどっかり座り込んだ。大股を開いて肘をつき、額を支える。
「俺に何をした。いや人形魔術だな? こんなことまで出来んのかよ」
「秘密です。魔物狩りは手の内を明かさない。そうでしょう?」
「じゃあ何だってこんなことした」
「あなたに素直に愛し愛される体験をしてもらうためですよ。性別。身分。学園という貴族と貴族ではない者が交流している実例。そういう条件が揃えば、あなたは私の恋人である自分を受け入れてくれると思ったのです。そして実際、つい先程まで、あなたは異常を自覚せず、夢の中にいてくれました」
「俺の記憶を消したのは」
「催眠術のようなものであって、消してはいません。方法なんぞどうでもいいでしょう。とにかくあなたに理解してもらいたいのは、私がはっきりさせるつもりでいることですよ。私達の関係を」
前髪を掻き上げようとしたメデオは、結い上げられた髪に気付き、舌打ちした。
「そんな理由でこんな大がかりな仕掛けを? 俺がいなけりゃあんな事件も起きなかったかもしんねえのに?」
「そんな理由? 気に食わないだけで殺人を犯しかけた人なんかを心配して、そんなですって? ええ、ええ、他人から捧げられた思いをどう扱うかはあなたの勝手ですね。誰に非難される謂れもないでしょうね」
「やめろ、そういう意味じゃねえ。…………ジリアン、今のままじゃ本当にだめなのか」
「だめですよ。恋という美酒に酔いたいがために、成就させるつもりが更々ない人と、私は違う。強欲な私は。……理解はしているんです。あなたが現状から一歩進めるのを躊躇う理由を。もし私達の関係が無神経に暴かれたら、誰もがあなたを私から追い払おうとし、私に正気に戻れと忠告してくれるでしょう。関係を解消したとき、私はきっと目が覚めたことにされます。もし誑かされた愚か者と嗤われても、冷遇など今さら痛痒はなく、爵位は奪われやしないので生活に不安もありません。私は有利な立場です。魔物狩りの世界で生きるあなたよりも遥かに」
魔物狩りはしばしばその場で組んだ相手と依頼をこなす。そこで共に困難をくぐり抜ければ情がわくものだが、男が好きな男は、情の中でも恋情を抱き、痴情のもつれを起こしかねない爆弾として警戒される。メデオがそうと広まったら、受けられる依頼の幅は大きく狭まってしまう。
「覚えているでしょうか、その姿のあなたを大事な人だと紹介したとき、甥は渋い顔をしました。きっと学園では本気になるなとアティアンナ嬢に心配されたでしょう。今回のお試しでは、あなたにとっては貴族でありつつ、突然世に出てもおかしくない身分など諸々の都合で庶子を選びましたが、嫡出の貴族にとって庶子とはそういう、遊び相手でしかない存在です。とはいえ、相手が乙女なら、ふしだらなことをした男は王族であっても顰蹙を買うのです」
「おい、するとあの嬢ちゃんは、まずありえない妄想をして、お前にも予想外の事件を起こしたんじゃねえか?」
「その通りです。さすがに婚約者のいる男をあてにしませんよ。私はアティアンナ嬢にあなたをお願いしたのであって、甥はそのおまけです。実際、あなたの相談相手はアティアンナ嬢で、甥は連絡役に過ぎなかったでしょう。まさかその程度の交流で、あそこまで思い詰めて自分の未来をふいにする人間がいようとは。甥は彼女とは無関係ですし、彼女の夫に既婚のあなたが接近したわけでもないのに」
「親が貴族であっても、お前らにとっては貴族じゃなくて、そんなに差があるなら」
「無位の男を選ぶのは悪趣味以外の何物でもないとでも? 当然でしょう。それをずっと説明してきたつもりですが」
「だよなあ。ご丁寧にありがとよ。関係をはっきりさせるってのは身の程を弁えろって意味だったか? バカにしてんのか」
「あるいはそうかもしれません。愛しい人。そんなあなたに夢中な私が、一時の気の迷いではないとお分かりでないあなたを」
メデオはぎょっとした。表情のないジリアンの双眸から不意に涙がこぼれたのである。しかも次から次へと大きな粒が頬を滑り落ちていく。
「私の魔術を最初に認めてくれたあなた。私に人との関わりを教えくれたあなた。私の名誉はすべてあなたのもの。私の心も、あなたのものなのに」
人形魔術は、発動にあたって、手製の人形が必要になる。そのために人形を作り貯めるジリアンは、周囲にしてみれば、人に贈りも見せもせず、職人でもないのに子供の玩具を大量に作る不気味で異常な少年だった。
こんなのをたくさん使うんだ。気持ち悪いだろうから組まなくていいよ。
メデオはジリアンの乾いた口調を覚えている。
魔物狩りに慣れてきたころ、ある依頼のために同行者を探していた最中に出会ったジリアンは、人形片手にそう言ってメデオを追い払おうとした。
労働せずともいい身分のジリアンが、魔物狩りを始めたのは、居場所を求めてのことだとメデオは予想している。ダンジョン踏破の結果を出して以降、笑えるほどの周囲の掌返しによって、ジリアンは結局人間不信になったが。
「恋人としての私を惜しんではくれないのですか。私への情は尽きてしまったのですか。私達が恋人になってしまったら、お互いを苦しめ、傷つけ合う結末しか考えられない。あなたがそう判断するのなら、二度とこんなことはしません。でもどうか違うと、それでも共に苦しもうと仰ってくださいませんか……」
ジリアンはとうとうメデオのむき出しの腹にすがりついて泣き伏した。
銀の匙をくわえてこの世に生まれ落ち、傅かれて育ったジリアン。尊いお方と言葉と扱いで刷り込まれ、身分だけでみればこの国で彼が膝をつく相手は両親と王族だけというあまりに青い血。食べるのも身につけるのも極上品だけ。財の多寡など気にしたこともない本物の富める者。魔術の腕まで指折りの魔物狩り。
そんな男が、唯一家族に恵まれなかったせいで、メデオごときになりふり構わず慈悲を乞うている。そう思うと、メデオの心臓は優越感と罪悪感に千切れた。
結局、寂しさを埋めるのに必死なジリアンが可愛くてたまらないのだ。出会いに突き放されても強引に組んだのはジリアンを放っておけなかったから。惹かれたのは、メデオを見つけた途端、寂しい目がぱっと明るくなるのがいじらしかったから。筋金入りなのである。
交際に対して不安はある。いくらでも湧く。
親友への執着を恋と勘違いしているのではないか、人間不信が改善したら捨てられるのではないか、周りが子供を持ち始めたら、手放したものの大きさに気付いたジリアンが後悔に苛まれやしないか。
未来のことだから、可能性を否定できないのも辛い。だからといって、自分可愛さのあまり、一方的にジリアンへ誠意の証明を強いるのは不実である。付き合うなら付き合う、付き合わないなら付き合わない。その場しのぎの言い訳でごまかさずに決断する時が来たのだ。
少女の作られた記憶によれば、町で母と暮らしていた幼い少女を見出したのがジリアンだった。ジリアンは少女を父と引き合わせ、学園に通わせてくれた。親身になってくれる魅力的な大人の男性にのぼせあがる少女。ジリアンは少女を甘やかし、夢に溺れさせた。
慕わしい人の仕草一つ言葉一つで感じた胸の痺れが蘇る。口づけ一つされなかったが、思いが通じ合った気分で過ごしたときめきの日々。
あのジリアンを他の誰にも取られたくない。これまで誠実だったジリアンの涙を、今、そしてこれからも、この手で拭ってやりたい。それがメデオの本音なのだ。
泣き虫を慰めてやろうと立ち上がったつもりのメデオは、次の瞬間、ジリアンを見下ろしていた。
思わずあたりを見れば、椅子に座り上体を倒した姿勢の少女がいる。まさしく糸が切れた人形だ。
自分の身体に戻ったのだ。それを察したメデオは、そっとジリアンの頭に触れた。息をのんだジリアンの丸い後頭部を撫で下ろし、リボンを解く。さらりと広がったまっすぐな髪を、メデオは指ですいてみた。予想より硬めで、冷たい。貴族は男も女も人前で髪を乱さないと聞いてから、こうすることを夢見ていた。
「ジリアン」
こっちを向いてくれ。願いを込めながら呼ぶが、ジリアンは動かない。
「悪かったよ。俺が意気地なしだから、お前を追いつめちまった」
再び髪をすく。毛並みのいい男だ。
「なあ。ジリアン。抱いてくれ」
囁くやいなや、あまりに勢いよくジリアンが跳ね起きたのでメデオは危うく鼻を折られるところだった。
見開いた目はもちろん、頬も鼻も赤い。予想以上に動揺してくれたので、メデオの心は浮き立ち、口角が上がる。
「なに、急になにを」
「貴族の男に初めてを捧げるってそういう意味なんだろ」
「思い出……ではなく。ほんとうに? 本気にしますよ、メデオ、私は」
「ああ。ちゃんとお前を貰ってやる。だから全部俺によこせ、ジリアン」
お前の勝ちだ。