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二宮尊徳と国の盛衰

作者: 笠原正雄

♪♪♪ 芝刈り 縄ない わらじを作り ♪♪♪

♪♪♪ (おーや)の手助け 弟を世話し ♪♪♪

♪♪♪ 兄弟仲良く 孝行を尽くす ♪♪♪

♪♪♪ 手本は二宮金次郎(きーんじろう)! ♪♪♪


を元気一杯、唄っていました。勉学に励みながら、親の手伝いをし、弟や妹の面倒を見、そして兄弟仲良く暮らす。こんな二宮金次郎の姿が子供達の手本の一つとなっていたのです。


 全国殆ど全ての国民学校の校庭あるいは正門近くには二宮金次郎の銅像が立てられていました。二宮尊徳あるいは二宮金次郎と言っても若い世代の殆どの人が、えっ、そんな人は知らないよと、首をかしげることでしょう。

 

 戦後、教育現場で働かれた先生方の多くが、二宮尊徳という名を聞いただけでアレルギー反応を起こしたのではないでしょうか。戦時中の軍国主義教育の象徴のように捉える方が少なくなかったのでは?と思います。このため、戦後殆どの小学校でこの銅像は撤去されてしまったのではないでしょうか。

 

 戦後30年ほど経った昭和50年頃だったでしょう、私は、戦時中縁故疎開をしていた時に通っていた学び舎、一身田町小学校を訪ねました。沢山の子供達、可愛い後輩達が運動場を元気一杯に飛び回って遊んでいました。建物に目をやり子供達に目をやり、戦時中縁故疎開児として過ごした時代を懐かしく振り返っていました。色々の出来事が蘇ってきます……。


と、その時、私の目に飛び込んできたもの、何と何と二宮金次郎の銅像ではありませんか!


“まさか!”


という思いでした。刈り取った燃料用の芝を背負って家路を急ぐ金次郎が、1分の時間も惜しんで、本を片手に勉強にいそしんでいる姿を写す銅像です。まさか、我が母校一身田町小学校の校庭に戦後撤去されずに残っているとは大きな驚きでした。


 10年程前、私は再び一身田町小学校を訪ねました。二宮金次郎との再会を楽しみに訪ねました。しかし、この頃、全国の小学校中学校では不審者の侵入を恐れて正門は固く閉じられるようになっていました。一身田町小学校も例外ではなく校門はしっかり閉じられ、校庭内に入ることができませんでした。非常に残念に思いました。子供達が校庭で自由に遊んでいる姿を目にすることもできませんでした。


 私がここまで二宮金次郎にこだわる理由は、戦中戦後を生きた子供達が共通して親の手助けをしていたからでしょう。これは子供達にとってごく自然な姿であったでしょう。何か家の手伝いをしたかったのです。私が小中学校時代にしていた仕事の二、三の例を紹介しましょう。


 戦後は燃料不足ということで風呂(今日のバスタブ)にたっぷり水を満たしたお風呂は、3日に1度というペースだったでしょう。残りの日は底に僅かばかりの水を張って沸かした行水ぎょうずいのようなお風呂で済ませていました。お風呂を沸かす時間になると、道路で楽しんでいた遊びを中断して、まき割りをします。大人の腕ぐらいの太さのまきを斧で適当な細さに割って、風呂釜で燃やします。秋~冬には庭に落ちているスギやモクレンの枯葉を燃料かわりに使います。モクレンやスギの枯葉は素晴らしい燃料になるなぁと、いつも感心しながらお風呂を沸かしていました。


 冬~春に欠かさずする私の仕事は、みかんの皮を廊下などで日干ひぼしにして燃料にすることでした。十分に日干をしたみかんの皮は油を吹くようにして勢いよく燃えてくれます。

 お買い物も私達子供の大切な仕事の一つでした。昭和22年小学校5年の夏ぐらいから、我が家の夕食のメニューにすき焼きが復活しましたが、お店にお肉を買いに行くのは私の役目でした。


 4人家族でしたが、いつもお店では


"50下さい“


と注文していました。


 50匁は約180グラムですから一人当たり45グラムのお肉の量となります。戦後3、4年を経た頃、庶民は1週間あるいは2週間に一度くらいのペースですき焼きを楽しんでいたでしょう。そしてお肉の量は1人当り50グラムぐらいだったでしょう。


 10月にはマツタケ入りのすき焼きとなりました。


“えっ!マツタケ入り!?”


と思われるかもしれませんね。マツタケ入りです!!しかも我が家では炊き上がるとマツタケ80パーセント残り20パーセントが白菜、おネギなどの野菜となり、あとは一人当り50グラム程のお肉でした。


 母はお店に行くと、どうしても安価なマツタケに目が行くのでしょう。すき焼きの日にはいつも申し訳なさそうな顔をして買い物袋に一杯のマツタケを買ってきました。私はこのマツタケの多さに多少ウンザリしていました。


 今を生きる私達は


“炊き上がるとマツタケ80パーセントのすき焼きだって!本当!?“


と思われるでしょうね。


 我国は太平洋戦争に破れました。 ……しかし


“国破れて山河あり”


でした。世界から羨望の眼差しでみられる山紫水明の自然は、敗戦後も太古の昔からの変わらぬ姿で残っていました。外国からの救援物資のナンバ粉、乾燥鶏卵、脱脂粉乳は人々の喉を通りかねました。かわりに“自然”はナシ、モモ、リンゴ、クリ、カキ、ビワ、ミカン……などの果実、そしてマツタケなどの茸類、竹の子などなどの実りを人々に豊富に与えてくれます。我が家ではイチジクの木が沢山の実りをつけ我が家の貴重なデザートとなっていました。


 昭和20年代、人々の生活を“自然”は優しく包んでくれていました。


 昭和30年代に入ると、我が国では右肩上がりの経済的成長を始めました。


 平成の時代を迎えると我が国は経済大国として世界に冠たる存在となりました。


 しかし、あぁしかし、現実は


"国栄えて、山河衰退“


となっているのではないでしょうか。


 今や10月のマツタケのシーズンになっても一本のマツタケも口にすることができない人が殆どでしょう。自然の荒廃が進んでいます。


 すき焼のお話から少し脇道にそれたようなお話になりましたけれど、


“国栄え、そして山河あり“


の日が来ることを切に祈りたいと思います。


 本題に戻りましょう。戦中戦後に私達子供がしていた日々の仕事:


- お買物


- お風呂わかし


- 家の中あるいは家の外まわりのお掃除などの家事


などなど沢山ありました。


 休みの日は午前中家で勉強、午後は外での遊びそして家のお手伝いだったでしょう。子供達は誰から教わるともなく自然にこんな生活パターンの暮らしをしていました。昭和、大正、明治……ずっと大昔から子供達は、本来はこういう生活を続けていたでしょうし、ずっと続けたかったでしょう。


 ……しかし子供達に遊びの場を提供していた家の回りの道は昭和30年代頃から車が頻繁に往来するビジネス用の道路となり、公園での遊びは様々な点から危険となりました。


 国の進める教育方針に応じるように学習塾が普及の速度を年々高めました。子供達は幼少年の頃から体力、スポーツ力、芸術力、感性、創造性をみがくよりも知識の丸暗記的吸収に日夜追われる状況となっています。“おつむ”中心の教育ではないでしょうか。子供達が可哀想です。


 大阪府箕面市の自宅から300メートルぐらいのところに市民公園があります。ブナ、マツ、スギ、タケなどたくさんの樹々に囲まれています。広い運動場、乳幼児達が遊ぶプレイグラウンド、四季折々の花が咲き誇る広い花壇があります。


 ……しかしここ10数年子供達が元気一杯に遊ぶ姿は全くと言っていい程見られません。日曜日に親子でのキャッチボールが1組か2組目に入るという程度です。犬の散歩あるいは運動をさせている人達の姿を見る機会のほうがずっと多いでしょう。元気一杯の子供達の姿を見ることができないのは本当に寂しい限りです。


 私の家からさらに1キロメートルぐらいのところに箕面市の第二総合運動場があります。一週400メートルの堂々たるトラックがあって、このトラックを取り囲むようにサクラ、ブナ、ケヤキなどの樹々が植えられています。緑の樹々を仰ぎ見ながら一周400メートルのグラウンドを歩くことができ、私の大好きな散歩道の一つになっています。


 ……しかし、ここでも小、中、高校生などが遊んだり、運動したりする姿は全く見られず、年に数回程度、箕面市と近くの町の少年サッカークラブの対抗試合等が開催されているに過ぎません。ここ20年近く陸上競技のイベント等を目にすることは全くなく、一周400メートルのトラックが泣いています。


 我が国の教育に一大目標は少なくとも実態で判断する限り大学入学を最終ゴールとする“おつむ”の鍛錬たんれんにあると言えるでしょう。この寂しい状況は今後も延々続くことでしょう。子供達は受験競争に打ち勝って有名大学に入学することを周りの大人達から強要されているのではないでしょうか。子供達が可哀想です。


 有名大学は例え入学できたとしても、殆どの場合、大学は彼らの夢に応える場所ではありません。大きな失望を覚える場所となるでしょう。

 このため、大学で彼らが抱く夢は有名企業に就職しよう、あるいは起業しようということになるでしょう。今の大学は若者に夢を与える場所ではありません。このことは半世紀の長きにわたって全国30に近いさまざまな大学で教鞭を執った私が断言できることです。加えてここ10年以上ネット社会の急速な発展に伴って家の中に閉じこもってのネットを利用して遊びが中心となってきました。子供達のネットワーク依存症の加速が危惧される状況となっています。


 二宮金次郎の銅像は軍国主義あるいは戦時中教育を象徴するものとして全国多くの小学校の校庭から撤去されました。現在もしも残っていたとしても、世の中からすっかり浮いた存在となって、数奇の目で眺められることとなるでしょう。


 世の中は変わってしまったのです。

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