02:琥珀とお姉さん
2月22日に猫は立ち上がり人語を話す。
最初こそ鼻で笑っていた者達もこの説が公表されて一年が経つとすっかりと信じ込み、世間はその瞬間を待ちわびていた。
秋坂茜もその一人だ。
愛猫の琥珀が立ち上がり人語を話す瞬間に立ち会うため、事前に休みを合わせ、その光景を動画に納めるか自分の目で見守るかを真剣に悩んでいた。
……少なくとも、そのつもりだった。
「今……、あ、もう十時なんだ」
そんなことを茜がポツリと呟いたのは、職場の自分のデスク。
煌々と光るパソコン画面に表示された時計が今の時刻を示している。
夜の十時。定時である六時から既に四時間が経過しようとしているが、日中と変わらぬ職場の明るさと、一人として減らないオフィスの光景、ひたすらに聞こえるパソコンのタイピング音が時間の感覚を惑わせる。
(琥珀、もう立ったのかな……)
脳裏に愛猫の姿が浮かぶ。
ふわふわの長毛種。体中が長い毛で覆われており、とりわけこの時期は冬毛なため毛の嵩が増している。ふっくら、ふわふわ、もふもふ、そんな表現が似合う子だ。
一般的な猫より大きく体は白いが耳と鼻回りだけ灰色をしているあたり、動物病院の先生からはラグドールの血が入っているのではと言われている。それを聞いて「どうりで美猫」と褒めれば、先生が笑っていた。
そんな琥珀は、既に立ち上がったのだろうか。
だが住まいは茜と琥珀しか住んでいないため、立ちあがってもそれを見届ける者はいない。
暖房は着けて部屋も真暗にはしていないが、それでも誰も居ない部屋でポツンと立つ姿は想像するだけで胸が痛くなってしまう。
(こんな事ならお母さんに家に来てもらえば良かった。ごめんね、琥珀……)
申し訳なさが胸に湧き、視界が潤む。鼻の奥がツンと痛みだした。
最近妙に涙もろい。特に仕事中だ。
だけど仕事をしないと帰ることが出来ない。そう考え、沈む気分などお構いなしと眩く光るパソコン画面に視線を向けた。
結局、茜が会社を出られたのは十一時、最寄り駅に着いたのはあと少しで十二時になろうとする頃だった。
既にスーパーは閉まっており今日もコンビニでご飯を買った。明日の事を考えると自炊する気は起きない。最近はずっとこうだ。
マンション群の中の一棟に住まいはあるが、さすがにこの時間帯は人の姿は殆どない。静まったエントランスに入り、階段を音をたてないよう気をつけながら登る。
「今日は琥珀と話しながらご飯食べる予定だったのにな……」
茜の職場は土日祝日関係なく動いているため、休日は事前に申請して取るようになっている。今日は本来ならば休みで、いつ琥珀が立ち上がっても良いように一日中ずっとそばに居るつもりだった。簡素なものしか出来ないが久しぶりに自炊をして、琥珀とお喋りをしながら食べようと考えていたのだ。
なのに会社から午前中だけは出社するよう言われ、その圧に負けて応じてしまった。出社後はずるずると仕事を増やされて、結局いつも通りの残業だ。かといって振替で別の出勤日が休みになるわけではない。
入社して三ヵ月、ずっと残業続きで、休日返上して出社した事も今日だけではない。社員みんな同じで、思い返せば有休をとったはずの社員が朝からずっと仕事をしていたのを見たこともある。
「仕事辞めたいな……でも三ヵ月で転職するのも……。ただいま、琥珀」
薄暗い自宅に入り、室内に声を掛ける。
それと同時にトタタタと軽やかな足音が聞こえてきた。
人間よりも軽いこの足音は琥珀のものだ。琥珀は毎日こうやって出迎えに来てくれる。
まるで茜を労うように可愛らしい声でニャーンと鳴いて、足元に纏わりついて……、
くれるはずが、今日は茜の手が届くギリギリの所でちょこんと座り、そのうえ分かりやすくふんとそっぽを向いてしまった。
「……琥珀?」
もしかしたら、後ろ足で歩きながら近付いて「おかえりなさい」と言ってくれるかも……、という茜の期待は虚しく、待っていたのはこの冷たい態度。更には茜のことを無視するように毛繕いを始めてしまう。
その態度に、茜は思わず「琥珀さん?」と敬称をつけて呼んだ。
「どうしたの?」
『我々は新たな進化を遂げました。人間よ、これからは共存の道を歩みましょう』
「わっ、ほ、本当に喋った。凄いね琥珀。それなら立てるの?」
『……以上です』
茜の期待に反して、琥珀は相変わらずつれない態度だ。
話し終えるや、まるで立ち上がることを期待する茜への当てつけのようにゴロンと横になってしまった。相変わらず毛繕いをしている。長毛種の毛繕いは大変そうだ。
「琥珀、どうしてご機嫌斜めなのかな? 琥珀ちゃん、可愛い琥珀ちゃん、世界一の琥珀お嬢様」
ご機嫌取りをしつつ琥珀に近付く。
床にしゃがみこみ、それだけでは足りないと半ば這いつくばるようにして琥珀の様子を窺うも、琥珀は変わらず茜を見ようともしない。
だが数度茜が名前を――それも可愛いと褒めながら――呼び続ければ、琥珀がガラス玉のような瞳で見つめてきた。
『今日は琥珀とずっと一緒って言ったでしょ』
「……そうだね、ごめんね」
『琥珀、今日ずっと立つのもお話するのも我慢してたの』
「我慢?」
どうして? と茜が問えば、琥珀はふわふわの耳をぺたりと後ろに倒し、大振りの尻尾で床を叩いて不満を露わにしてきた。相変わらず可愛らしい顔ではあるが、それでも不機嫌が分かる表情だ。
そんな不機嫌な顔をしばらく続けた後、おもむろに四つ足で立ちあがるとゴツと茜の顔に頭をぶつけてきた。
『だって、一番最初に立ってしてお話しするの見て欲しいもん……』
拗ねたような声色で、頭をぐりぐりと押し付けながら琥珀が告げてくる。
その言葉に茜は一瞬目を丸くさせ……、次いで、琥珀を抱きしめた。
「ごめんね琥珀、私に見せるために待っててくれたんだね。こんなに大事な日なのに遅くなっちゃってごめんね」
ふわふわの体を抱きしめれば、琥珀が腕の中でニャーンと鳴くと共に『おかえりなさい』と言ってくれた。
◆◆◆
翌日、茜は出社するなりすぐさま上司に退職の希望を告げた。
もちろん直ぐに適うわけがないとは分かっている。引継ぎ期間は働くつもりだ。そこまでの不義理を働く気は無い。だが引継ぎ期間であろうと無理な残業はする気は無いし、当然、休みはしっかりと取らせてもらう。
上司は突然の茜の言葉とすっかり変わった態度に驚き、「そんな甘い考えで他でやっていけるわけがない」だの「粘ることを知らないのか」だのと説き伏せに掛かってきた。それでも茜が折れないと分かると今度は「きみが辞めると会社が回らない」と縋ってくる。
だがそんな陳腐な常套句は茜には届かない。
頭の中には二本足で玄関に立ち『いってらっしゃい』と告げてくれた琥珀の姿が蘇る。
仕事を辞めると決意したときは『琥珀がわがまま言ったから?』と不安そうにしていたが、茜が胸の内を語り、そしてこれからもっと一緒に過ごす時間を作ると約束したら嬉しそうに抱き着いてくれた。
あれほど可愛い存在が他にどこに居るというのか。
この職場には居ない。ならばこの職場に拘る理由なんて無い。
だからこそ、なんとかして引き留めようとする上司にはっきりと告げた。
「記念日も、記念じゃない日も、少しでもあの子と一緒に居たいんです。だからここでは働けません」
怒鳴るでもなく無理強いするでもなく、それでも確固たる決意を込めた断言。
茜の意思の強さを感じ取ったのか上司が僅かに言葉を詰まらせ……、仕方ないと言いたげに肩を落として退職までの手続きを説明し始めた
茜の脳裏で、後ろ脚で立った琥珀が前足でポムポムと拍手をしながら褒めてくれた。
次話は本日12:22更新予定です。