5
エルの怪しい行動はさらに怪しさを増した。
とうとう先生とも会うようになったのだ。
「……」
彼女と先生が別れて歩き去っていくのを物陰から見送った僕はもういてもたってもいられなくなった。
エルには大丈夫と言われたけどもう限界だ。
僕は池田詩織に泣きついた。
「池田さん!」
「優斗くん……?」
今でこそ池田はいい奴だってわかるけど、正直に言うと当時はそんなにいい印象はなかった。
いつもいい子でいい点取ってみんなから賞賛されていて、だからみんなの反論を許さない雰囲気があって、エルの言い方を借りれば根っからのアンパンマン側ということだ。
でも、だからこそ僕の相談に乗ってくれるだろうと思った。
池田は友達グループから離れてこちらに来ると、「何かしら」と首を傾げた。
「助けてほしいんだ。エルのことで」
「あの子?」
顔をしかめたのも一瞬。
「なにかしら」
池田は表情を引き締めた。
◇◆◇
人目に憑かないところに移って。
僕の話を聞き終えた池田は額に手を当ててうめいた。
「優斗くんそれって……」
「うん」
僕はうなずきながら、でもその前に気になったことを訪ねた。
「そういえばさっきから優斗くんって……?」
「あ、ごめん、いやだった?」
「いや別に……」
ただ普通は名字で呼ぶものかと思ったのだ。
まあそんなことより。
「やっぱり池田さんも怪しいと思うよね」
「思う。っていうかそれってどう考えても売春じゃない」
売春。
全く想像していなかったわけじゃないけれど、実際に言葉として聞くとめまいがする。
「だ、だとしたらどうしよう」
「決まってるわ。先生に言うの」
模範解答だ。
だけど、模範的すぎて僕には受け入れられなかった。
「そんなことしたらエルはどうなるんだよ」
「エル……って岡崎さんのこと? そんなの知ったことじゃないわよ。悪いことをしたら罰を受ける。当たり前でしょ」
「馬鹿言うなよ」
「馬鹿言ってるのはそっちでしょ。仲がいいから見逃してもらいたいなんて虫が良すぎるわよ」
「そんなの……」
わかるけど。
でも、そんなのは生まれつきみんなの賞賛に守られる素質があって、自分だけは絶対間違わないやつの言い分じゃないか。
「あなたが言えないならわたしが言うわ」
「ちょ、ま、待ってくれよ」
踵を返した池田に追いすがる。
でも彼女は立ち止まらない。
僕は必死で追いかける。
「待って。頼むから、待ってくれ。待って……?」
池田が足を止めた。
「……何よ」
「え……」
彼女の視線を追って振り向くと、エルがそこに立っていた。
「いや、別に。大したこっちゃないけどさ」
そしてにやりと笑った。
「なかなか盛大な勘違いしてるなあと思ってね」
「勘違い? 何が勘違いよ! あなた売春してるんでしょ!」
池田が拳を握りしめる。
「信じられない。あなた馬鹿じゃないの? 洗いざらい先生に報告するから覚悟しなさいよ!」
「……」
「なによ」
急に真顔になったエルに池田が戸惑った声を出した。
エルはポツリとつぶやく。
「救えないね」
池田は憤然としたようで、まだ何か言おうとした。
周りには、池田の怒鳴り声を聞きつけた人たちが集まり始めていた。
でもエルはその全部を無視して不意に天井を、いや、天井よりももっと上を見上げた。
「まずい。行かないと」
「エル!?」
彼女は猛然と走り出して、僕たちは後に取り残されるけど、すぐにハッとして追いかける。
エルは小さいくせに妙に足が速かった。
見えない姿を追いかけて、足音だけを頼りに廊下を走り、階段を上り、こじ開けられた扉をくぐって屋上に出た。
そこで見た光景は――
「来ないで!」
少女が一人、落下防止用のフェンスの向こうに、震えながら立っていた。
そのいくらか手前にエル。
いつものぼさぼさ髪を風になびかせて、無言の背中がそこにある。
「え、エル? これはいったい……」
僕の呟きに、エルは顔の半分だけ振り向いた。
「あの子が噂の売春女子だよ」
「え……?」
池田が絶句する。
無理もない。向こうにいるあの女子は、この前池田と一緒にいた気弱そうなあの女の子なのだ。
「なんで……?」
「正確には売ったというか、一方的に搾り取られたって感じだけどね」
エルはゆっくりと説明した。
あの女子はふとした油断から先生に襲われて弱みを握られたらしい。
そして何度も何度も汚されてきたのだ。
何も言えず、誰にも助けてもらえないままに。
「ひどい話だよ」
「エルはそれを知って?」
「うん。何とかできないかなと思ったんだけどね。そいつが」
と池田を指す。
「さっきあんなに騒ぐから」
「そんな……」
池田が呆然とつぶやく。
「なんでわたしに相談してくれなかったの……?」
「だって……だって詩織ちゃんはいつだって正しいことしか言わないじゃない!」
「でも、何か力に」
「なれない! 詩織ちゃんにはなれない! 詩織ちゃんにはわからない! 絶対に!」
池田はショックを受けて何も言えなくなったようだったけど。
正直言って、僕はその子の気持ちがちょっとだけ分かった。
正しすぎる奴には救えない人もいる。
「先生に言う」、と事を人に簡単に預けてしまうような奴には特に。
もちろん僕だって人のことは言えない。
僕はそもそもその子の名前すら知らないのだ。
「もうやだ……楽になりたい」
「駄目! お願い死なないで」
池田の言葉もむなしく、その女子はフェンスをしがみついていた手を放して屋上のへりへと足を踏み出した。
小さな一歩だ。
でも致命的な一歩だ。
僕はその場で一番蚊帳の外だった。
でも、だからこそ誰よりも先に気付いたんだ。
「……エル?」
視線を振ると、いつの間にかエルはフェンスの向こうにいた。
誰にも気づかれないうちに乗り越えていたらしい。
へりにいる女子にはまだだいぶ距離があるが、それでもこの中では一番彼女に近い。
「ちょっとエル!? 何して――」
「つらかったね」
エルはそう言ってその女の子に一歩近づいた。
「こ、来ないで」
「わたしの力不足のせいで、ごめん。何か力になれればと思ったんだけど甘かった」
もう一歩。
女子は引きつったような声を漏らした。
もう今にも飛び降りそうだ。
「ねえ優斗」
「えっ?」
そこで急に声をかけられて僕はへんてこな声を上げてしまった。
「わたし、優斗には感謝してるよ。優斗のおかげで普通の人がどんな感じで人と接してるのか分かったし、優斗がいたからもう一度人と関わろうと思えたんだ」
「エル……?」
急になんだよ、と思った。
不穏なものを感じた。
僕はそれが何かもわからないまま慌てて彼女を止めようとしたけど、少しだけ遅かった。
「じゃあね。バイバイキン」
エルは小さく笑って。
そしてその姿が消えた。
飛び降りたんだと理解したのはもう少し立ってからだった。
僕はたまらず絶叫した。
そんなものがなんの足しにもならないとわかってはいたけれど。
それでもそうすることしかできなかったんだ。