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 あの放課後の岡崎ガブリエルとの会話を、僕はその後も折に触れて思い出した。

 ドッジボールで小突き回されていてもサッカーで突き倒されていても、頭の隅にはあの言葉があった。


 人は正義の味方じゃなくてやられ役になった時にこそ自分の本当が試される。


 その時の僕にはまだ意味は分かっていなかったけど、それを考えている間は心の痛みも不思議と和らぐのだった。


「優斗菌だ! きったねー」

「俺につけるんじゃねーよバカ!」


 周りが僕の菌移しゲームで盛り上がっている中でも僕の心は思ったよりも穏やかだった。

 みんながばい菌だばい菌だと騒ぐたびに岡崎のバイキンマンの話が頭をよぎるのでなんだか面白いやら妙な感慨がわいてくるやらでそれどころじゃなかったのだ。


 岡崎はそんな僕たちを気にすることなくいつものように隅の席で音楽を聴いていた。

 入学式以来彼女はずっとそのスタイルを一切変えず、いつも泰然と構えていた。

 もしかしたらあれが彼女の言うバイキンマンの在り方なのかもしれないなと僕は時々思った。


 そういうわけで僕は意外とまだ大丈夫だった。

 虐げられてはいるけれど、前ほどは未来に絶望はしなくなっていた。

 でも……


「え?」


 僕は言われたことが理解できなくて訊き返した。

 昼休みのことだ。

 相手はイラついたように繰り返した。


「だから岡崎にこれをぶっかまして来いっつってんだよ」


 クラスのリーダー格のあの体格のいい男子は、そう言ってドッジボール用のボールを僕に差し出した。

 あの少し小ぶりで固いやつ。

 周りで取り巻き達もにやにや顔をしている。

 これを岡崎ガブリエルに思い切りぶつけて来いということなんだと僕は遅れて理解した。


「いや待って、どういうこと?」


 戸惑う僕に、クラスのリーダー格のその男子はにたりと笑った。


「あいつなんだかスカしてるし気味が悪いだろ? 少し天罰を与えてやるんだよ」

「て、天罰?」

「そうだ、クラスに迷惑かけてる罪だ」


 罪なんて大袈裟だ。

 岡崎が何をやったって言うんだ。

 ただ音楽を聴いてるだけじゃないか。

 ちょっと目立ちすぎかもしれないけど……


「いいから行けよ。力いっぱいな」

「でも……」

「あいつをこらしめたらお前へのイジメはやめてやるよ」


 それを聞いて息をのんだ。

 イジメがなくなる?

 本当に?


 僕は手元のボールと向こうに座っている岡崎の小さい背中を見比べた。

 あんなに華奢な体にこんな固いものをぶつけたらヘタをしたら怪我をさせてしまうかもしれない。


 でも、リーダー男子に背中を小突かれて、僕は一歩を踏み出してしまった。

 一歩ずつ彼女に近づいていく。

 岡崎は気づかない。

 足を踏み出すたびに僕の中で何かどす黒いものがわいてきて、耳元で甘くささやいた。


「いいじゃないか少しくらい。手加減すれば怪我なんてしないし、イジメられなくなるなら彼女のことなんてどうでもいいだろう。何を迷うことがある」


 確かにそうだ。

 彼女を庇いだてする義理もない。

 岡崎ガブリエルは少し話をしただけのよく知りもしないただの隣の席の女子だ。

 僕ののっぴきならない事情を知れば、誰が僕を責められるんだ。


 僕は岡崎ガブリエルの背後に立った。

 ボールを振りかぶって、その後頭部に狙いをつけた。

 投げた後のボールの軌道もはっきり思い描けた。

 外すこともないと予感した。


 でも、僕はその瞬間も迷っていたんだ。

 いくつも言い訳を並べながら、それでも最後の最後を踏み切れずにいた。


 人はアンパンマンじゃなくて、バイキンマンになった時に自分の本当を試される。


 へ、何だよこんな時に。

 僕は彼女の声を笑った。

 そんな言葉になんの重みがあるって言うんだ。

 僕が直面しているのはそんな綺麗ごとじゃなくてどうしようもなくみじめで切迫した現実なんだ。


 ……いつの間にか目を閉じてしまっていたらしい。

 まぶたを上げると、澄んだ色の瞳と目が合った。


 振り向いた岡崎と見つめ合ったまま、僕は息を詰まらせた。

 見るなよ、何見てんだよ、責めるなよ、と反射的に思ったけど、彼女の目には僕への非難の色は少しもなかった。

 ただ、その目は「やりな」とだけ言っていた。

 やりな、思いっきり。


「優斗! 今だ! やれ!」


 鋭い声に思わず手が動いて、僕は思いっきりボールを投げていた。

 自分の手で投げたとは思えないほど一直線にぶっ飛んで行ったボールは、一ミリもズレることなく、狙いのど真ん中に突き刺さった。


 リーダー格の男子の顔面に。


「……っ、てぇ……」


 ボールが落ちて転がり、顔を押さえた男子のうめき声に、沈黙が落ちる。


「お前……っ!」


 僕の頭は真っ白になっていた。

 やっちまった僕。

 なんでこんなことを。

 終わった、学校生活……


「ぶっ殺してやる……」


 でも僕の体は彼の声にひるむことなく動いていた。

 言葉にならない無様な叫び声を上げて。

 足は床を蹴り、腕を振り上げ、敵に向かって飛びかかっていった。

 できる限り、勇敢に。


 最初のうちは案外いい勝負だったけど……すぐに敵に増援が来て僕はボコボコにされた。

 鼻血は出るし先生には思いっきり叱られて、僕の言い分なんて少しも聞いてもらえなかったけど、僕はそれでも満足だった。


 僕を助けてくれた人を裏切らないで済んでよかった。

 恩を仇で返さずにすんだ。

 あ、いや、厳密には助けてもらってはないんだっけ。

 でも、本当によかったと思っている。


 僕が彼女とつるむようになったのはそれからだ。

 それ以来僕は彼女のことをエルと呼んでいる。

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