シーボルトの幸運
(四)
「ふぅむ。これでいいかな」
鳴滝塾に隣接する自宅の寝室で、シーボルトは江戸参府の折に着た衣装を、何度も手にしては戻しを繰り返していた。
帰国の時が迫り、要らぬものを早々に荷造りしている。勿論、お滝や弟子たちも日々、肩を落としながらも荷造りの手伝いはしてくれている。
だが、人に任せられない荷は、手ずから纏めなくてはならない。たとえ身内であっても、〝持ち出し禁止〟の品は、人目に晒すわけにはいかない。
シーボルトの衣装の間には、「大日本沿海輿地全図」の縮図が畳み込まれている。天文方書物奉行の高橋景保から贈られたものだ。絶対に見つかってはならない。
標本や、剥製などは、もしかすれば、検められる可能性もある。とはいえ、私物であれば、そうそう見もしまいとは思うが……
「ふ~む」
やはり迷ってしまう。他意のない学者肌の高橋に、迷惑は掛けられない。隠し場所に一週間も迷っている次第だ。そういえば……
(ハンスが戻ってくるのは、本日だったか)
石坊の知り合いに頼み、こっそりと硫黄島へと、ハンスを送り届けたのは、ちょうど一週間前。船の都合もあるだろうから、はっきりとはしないが、そろそろ戻ってくるはずだ。
出島から特別に連絡はないところを見ると、問題なくことは進んでいるとみていいだろう。万が一、ハンスが見つかれば、大騒ぎとなっているはずだ。
地図を包んだ衣装を荷の奥に押し込み、シーボルトはちょっと考える。
ハンスからいち早く「書類」を受け取りたい気持ちは強い。だがどうにも、出島に出向く気分にはならない。
苦虫を噛み潰したような、カピタンの顔が脳裏に浮かぶ。小言は延々と続くだろう。高々、下っ端の船乗り一人、なんだと言うのだ。荷造りが遅れるなど、大した話じゃない。こっちは日本国たる神秘の国の秘密を、会社に持ち帰る大切な役割を担っているのだ。
島津の王をせっついて、硫黄島に興味を促し、早一年。精力的な老王は、早速に密偵を島に送り込んだとは聞いた。ところが、その後の話が一向に流れては来ない。
大森の会見の後、何度か会う機会もあったが、春先に密偵を一人、兵児道場の先生として送り込んだと知らされた以外は、老王から件の話はない。
あくまでも薩摩国の王である。出ない話をシーボルトからせっつくわけにもいかず、ただひたすら、王からの情報を待ったが、いよいよ待ちきれなくなった。
シーボルトも国に帰らなくてはならない。考え抜いた末、こちらから使いの者を出すしかないと思い至った。
密偵として送り込まれた〝平佐田〟たる人物は、蘭学生ではないと言う。つまりは、オランダ語に通じていない。
本来であれば、琉球人あたりが適任とは思うが、琉球人が「大殿の使いだ」と言っても、〝平佐田〟は信用しないだろう。「琉球王の宝」を〝平佐田〟は探っているのだ。
〝居残り組〟の船員の一人に書面を持たせ、〝平佐田〟の元へ送るしかないと考え、啓作に相談したところ、「瓢箪から駒」が出た。この諺の使い方は間違っていないと、シーボルトは思う。
「ハンスという少年が、日本語を少し話せると言っています。石坊の知り合いらしいです」
石坊の人脈には驚かされる。「いい友人」を持ったと、シーボルトは感謝する。
シーボルトの申請に、カピタンは嫌な顔をした。それでも、常になく低姿勢だったシーボルトに満足したか、「一週間だけ」との約束でハンスを呼び出してくれた。会社からの極秘任務との触れ込みも功を奏したらしい。
ただし、「事が発覚した折は、責任はすべてお前持ちだ」との断りも、怠りはしなかった。
会社に忠実なカピタンは、任務には寛容だ。が、常に保身を心掛ける、あの男は、役人とも上手く付き合っている。最悪の事態には役人と口裏を合わせ、シーボルト一人にすべてを押し付けるつもりだ。
「さて」
できる限りくだらない日用品を押し込み、荷を縛ったシーボルトが、出島に向かおうと腰を上げたと同時に、
「ドクトル」
聞き慣れた声が、ドアの外から掛かる。
「啓作? どうぞ、入って」
幾分か上手くなったと自賛する日本語で答えれば、
「ドクトル、大変です」
いつも穏やかな二宮啓作の顔が青い。シーボルトが口を開く前に、
「例のハンスですが、とんでもない物を持ち帰りました」
珍しく勢い込んで、日本語でぺらぺらと話し出した。
(五)
大変な事態となった。持ち帰る物は「皇子様の書面だ」と言ったつもりだが、何でまた子供を持ち帰ってきたか。シーボルトは訳が分からない。
ともかく、まずは会いたくはないが、カピタンに会わねばなるまい。ハンスを島に向かわせた張本人は、シーボルトだ。
「失礼します、カピタン」
返事のないままに部屋に入れば、常の数倍もの不機嫌さを漂わせたカピタンが、せわしなく歩き回っていた足を止め、シーボルトを睨んだ。
二時間後に部屋を出たシーボルトは、へとへとだ。カピタンが、あれほど話し好きだったとは知らなかった。認識を変えたほうがよさそうだとシーボルトは思う。
向かうは、ハンスと話した部屋、ヘトルの館の二階にある、日本人女の部屋だ。以前、使用人である女の母親を診てやった縁で、他人目を避ける用向きに、時々遣わせて貰っている。事情を知る啓作が早速、女に頼んで子供を部屋に押し込んだらしい。
お滝の使いで出島にいた啓作は、船乗りの一人に呼ばれてカピタンの部屋へと出向いた。
「またドクトルに文句の文でも書いたか」と、渋々、啓作は部屋に入り、顔を真っ赤にして怒り狂うカピタンに、散々に怒鳴られたという。
「お前の師は蒐集家が昂じて、ついに子供まで集めるようになったか。得意の剥製でも作るつもりか」と、鬼のような顔で捲し立てたらしい。
「雇いの船乗りたちを奴隷のように扱うお前に、そのような邪推をして欲しくはない」と、シーボルトの腸が煮えくりかえった。
(お前などは剥製にする価値すらない)と、シーボルトは、カピタンの部屋に向って顔を顰めた。
「弟子のお前が何とかしろ!」と言われた啓作が気の毒だ。一介の学生である啓作に、何ができるか。出島は出入りの監視が厳しいのだ。八つ当たりも甚だしい。
それでも、カピタンよりもずっと優秀な啓作は、慌てず騒がす、〝招かれざる客〟を安全な場所に移した。本当に「いい友人を持った」とシーボルトは、つくづくと思っている。
小さく頷いて襖を開けた女は、どうやら見張っていてくれたらしい。日本人女性は、実に良く気が回る。
「ありがとう」日本の言葉で頷けば、女はほっとした顔で笑い、急ぎ足で廊下を駆けて行った。日本人女性は働き者でもある。
「ドクトル、俺……」
意外にも、部屋に座り込んでいたハンスに驚き、シーボルトは言葉を失った。
出島は人手不足だ。大きな間違いを犯し、島の子を連れ帰ったハンスは、常よりも多くの仕事を課せられ、奴隷のように働かされているものだと思っていた。スチュレルとは、そういう男だ。
慣れない畳に膝を組んだハンスは、シーボルトの顔を見て項垂れる。剥き出しの腕にはあちこちに痣を作り、顔にも乾いた血がこびりついている。大変だったようだ。
「うん、良く頑張ったね。ご苦労、怪我をしたか? どれ、診てあげよう」
近寄ったシーボルトに、ハンスは、びくっ、と震えた。
「誰? 居王様に何をするっ!」
シーボルトにはよく理解できない言葉で、ハンスの後ろから子供が立ち上がった。目を剥いたシーボルトを見て、ハンスが慌てて子供を押さえつける。
敵意丸出しの子供は、石坊とよく似た風体で、異国人であるシーボルトには違いがよくわからない。
ただ、子供は石坊よりは幾分か年長に見えた。ただし、石坊のほうが、世間慣れしているかに見える。
多少は興奮気味で、きゃんきゃんと捲し立てる言葉には聞き取りにくい癖があり、何を言っているのか一向にわからない。ただ、妙にハンスを慕っているようで、ハンスの背にぴたり、とくっついたまま、前には出てこない。
ハンスが一言「かしましい!」と怒鳴ると、子供はぴたり、と口を閉じた。時々啓作が、石坊に使う魔法の言葉だ。
「その子は?」
シーボルトは、できる限り優しく訊ねた。
ハンスは、激しく動揺していた。見た限りでは、ハンスが故意に連れてきた様子はない。
「わかりません。勝手について来たんです。何が何だか俺だって……カピタンには怒鳴られるし、怪我は痛いし、〝逆さまディング〟は離れないし、ドクトルとの約束も、こいつのせいで果たせなかったんです。俺、俺、もうどうしたらいいか……」
かなり参っているらしい。確かに、山なるものを知らぬ少年を山の中に放り出し、これまた見知らぬ異国人がいる中で隠密行動を申し付けたのであるから、大変ではあったろう。おまけに余計なものを背負わされては、困惑するなと言うほうが無理だ。
(やはり、無理があったか)とシーボルトは少し反省する。
(しかしまぁ……困った)と、シーボルトが二人を見比べているところに、「ドクトル」頼みの綱が部屋の外から声を掛けた。シーボルトはやれやれと、言葉を返す。
「啓作? 入って。子供から話を聞いてくれないか」
「はい」
幾分まだ顔色は悪いが、啓作も何とか落ち着きを取り戻したようだ。
慌てて取り乱したところで、物事は上手くはいかない。困難に立ち向かう時こそ、冷静な心が必要であると、常日頃から教え込んでいる弟子は、頼りになる。
ともかくにも日本語を話せ、おそらくは興奮している子供に安心感を与える人物が必要だ。啓作ほど適任者はいない。本当にいい友人を持った。
「坊。坊は、なんていう名前?」
ハンスの背を覗き込むように啓作が静かに聞けば、子供は、ちら、とくりくりとした目を向ける。
シーボルトと啓作を見比べるように目を動かしていた子供だが、ぴたり、と啓作に目を当てて、
「智次」一言だけ言ってハンスの背に身を縮めた。ハンスが子供を不思議そうに振り返る。
「智次坊、儂は、啓作という。蘭学を学んどるもんだ。ここにおられるは、シーボルト先生。儂の先生じゃ」
智次がひょこり、と顔を出す。
「せんせ? 隠れ里に、せんせもおるんか? 道場があるんじゃな? 島と一緒じゃ」
智次は、初めて笑顔を見せた。
そこでふと、啓作はシーボルトに視線を走らせ、
「平佐田先生を知ってる?」と智次に訊ねた。
なかなか、いい質問だ。子供は訳のわかぬ状況に不安を抱いているだろう。故郷の話は気を落ち着けるにはもってこいだ。
案の定、智次はいかにも嬉しそうに、にかっ、と笑った。
「おはん、兄ちゃんを知っとるか。すごか……兄ちゃんは隠れ里でも有名人なんじゃな」
どうやら智次は〝平佐田〟を知っているらしい。が、〝兄ちゃん〟というのは……〝平佐田〟は島の出じゃない。兄弟であるはずはないが……
多少は聞き取りにくい部分もあったようだが、啓作は智次の話をシーボルトに伝えた。ハンスもじっと耳を傾けている。
智次は島の子で、〝平佐田〟の滞在先の子であり、〝平佐田〟とは仲が良いという。
(あぁ、それでか)と、合点したハンスが頷いた。
智次は「居王様」を追って、ここに来たそうだ。
「ここが隠れ里か?」ときょろきょろと辺りを見渡す。
「居王様って?」啓作が訊ねれば、智次は嬉しそうにハンスの背にくっついた。ハンスが嫌そうに身を捩る。
どうやらハンスを指しているらしい。よくはわからないが、現状は教えてやらねばならない。
「ここは出島だ。オランダ人の滞在する場所。ハンスも、じきに国に帰る。坊の両親も心配しているだろうから、島に帰らないとね。ちょっと大変だけど、何とかしてあげるから」と、親身になって語る啓作の言葉に、
「国? それって隠れ里のこつか? 儂も行く。そのために居王様について来たんじゃ」智次は、がしっ、とハンスの腕を掴んだ。ハンスが、がっくりと肩を落とす。
啓作と智次の話は、堂々巡りのようだが、細かな内容までは、シーボルトにはわからない。
何にせよ、智次は、どうしてもハンスの傍にいたいらしい。見る限り、特に変哲もない赤毛の少年のどこが気に入ったか……シーボルトには、まるで理解できない。
さすがの啓作も、智次の頑なな態度に辟易とし始め、話題を変えた。
「ねぇ、坊の島には、〝海底に沈んだ皇子様〟の話がある?」
啓作の機転の良さに、シーボルトは感心する。
「知っちょるよ。黒御子様のことじゃ。御子様は、お友達を探しておられう。あ!」
突然、智次は声を上げ、シーボルトと啓作は顔を見合わせる。そうか……
「そういうことじゃったんじゃな。次は儂だった、いうわけか。それで居王様が儂の前に現れたんじゃな。ありがとう、居王様。儂は御子様のお友達にはならん。居王様と一緒におるんじゃ」
(ほぅ。これが〝青天の霹靂〟か)
思いながらシーボルトは「智次をどうやって、自宅に連れ帰るか」に頭を巡らせていた。