ビンセント家VS桜木家①
夜7時、碧華たちを乗せた車がビンセント邸に到着した。碧華も緊張していたが、特に栞は緊張マックス状態になっているらしく、エンリーの言葉も耳に入ってきていない様子だった。碧華たちは玄関で出迎えた執事によってビンセント邸の豪華な食堂に通された。そこには食事をする用意が既にされていた。
碧華たちは案内されるままその場所で立って待っていた。やがてビンセント家の主とその妻であるエンリーの両親が部屋に入ってくると、碧華たちに向かって英語で何かしゃべりだした。隣にいたエンリーが通訳するのを見たジャンニは大きなため息をつきながら言った。
「英語もろくに話せないのか・・・こんな人間と食事とは時間の無駄だな。そちらのお嬢さんは少しぐらいは話せるんだろうな」
碧華はジャンニが何を言ったのかは理解できなかったが、エンリーの表情が険しくなったのを見て馬鹿にされたのだと察した。だが事実は変えられない、今の自分を分かってもらうしかない。碧華は心を決め、勇気を出し必死で覚えた英語で言った。
「はじめまして、碧華桜木です。本日はお招きいただきましてありがとうございました」
碧華はそれだけの言葉を英語で言うのが精一杯だった。
ジャンニ氏は憮然とした態度で、不機嫌そうな顔を崩さなかった。
「父上、僕は将来、日本で生活していこうと思っていますから、栞さんには今すぐに英語を覚えてもらおうなんて思っていませんよ。僕と話す間に自然に話せるようになってくれたらうれしいと思っている程度です。英語を話せないからといって、碧華さんも栞さんも人として決して劣る所はありませんよ。むしろ、僕の方が教えられることばかりですから」
「フン、日本人ごときから何を学ぶことがあるというんだ・・・名門ビンセント家の血に日本人の血が混ざる子孫ができることになるかもしれないとは、情けない」
「あなた、今この場で話すことではないでしょう。今夜はエンリーが日本でお世話になったお礼をいうために来ていただいたのでしょう。わざわざ帰国を伸ばしてもらっているのですよ。碧華さんたちに失礼ですわ」
シャリーは隣にいるジャンニ氏に向かって言った。彼はフンといっただけで顔を背けてしまった。栞は今の会話をだいたいは理解している様子で、今にも泣きそうな顔をしていた。その時、エンリーは栞の手をギュッと握ると父親に向かってはっきりと言い切った。
「父上、いい機会ですから、はっきり言っておきます。僕は今はまだ、あなたの支援なしでは生きていくことは困難ですが、僕は栞さんとの交際をやめなければ今の生活をさせないというのであれば、僕は迷うことなく今の生活を止めます。ビンセント家の家名に日本人である栞さんが入ることで穢れるというのであれば、僕は桜木家の人間になります。栞ちゃん、碧華さん、優ちゃん、行こう。こんな人と食事をしてもおいしくありませんよ。少しも変わっていませんね。僕がバカでした」
エンリーはそういうと栞の腕を引っ張って歩きだそうとした時、栞がその手を払いのけ、今にもこぼれだしそうになる涙を必死で抑え込みながら震える声で英語で話し始めた。
「今日はご招待して頂きましてありがとうございました。私はご覧の通りまだまだ英語は片言しか話せません。ですがこれからも話せるように頑張っていくつもりです。私はまだまだ未熟者ですので、これからももっと努力してエンリーさんにふさわしい人間になれるように頑張るつもりです。ですから、もうしばらく私がだめな人間かそうでないかの結論は待っていただけないでしょうか。お願いいたします」
栞は必至で英語で話した。碧華は横にいたライフに通訳してもらっていた。栞の言葉を聞いた碧華が一歩前へ歩み寄り、一度振り向いて栞の顔を見ながら言った。
「栞あなたの気持はわかったわ。だけど、ごめんね。私もエンリーと同じ意見よ。ライフ、私が今からいう言葉を通訳してくれる?」
「了解です」
そういうと碧華は再びエンリーの両親に向かって一礼すると日本語で話しだした。
「ジャンニ様、あなたがおっしゃった事は、私も二人の子供の親としてわからないでもありません。私も確かに、育ちも文化も違う日本人ではないエンリーと栞が結婚前提に付き合っていることは不安があります。けれど、私は娘を信じています。私の娘は欠点も多くある普通の娘ですが、私にとっては世界中のどの子よりも優れた宝物だと思っています。私のことを馬鹿にされるのは仕方ありません。けれど日本人すべてがあなた方の国の方々に劣っているとは思いません。私と違い娘はまだ未来があるんです。これからももっと成長して立派な人間になる可能性を秘めています。今夜はせっかくお忙しいお時間を割いていただきましたが今日はこれで失礼いたします」
碧華はそれだけいうと、エンリーの両親にもう一度一礼し、二人の横を通り過ぎ部屋を出ていってしまった。栞も優もあわててその後に続き、リリーとライフ、それにエンリーも碧華の後を追った。それをみたシャリーが慌てた様子でその後を追った。一人になったジャンニはフンと吐き捨てると、自分の書斎へと戻って行った。
「はあ・・・」
ジャンニは大きなため息をついて自分の書斎の椅子に深く腰掛けた。
そして机の下の引き出しの中から一冊の本を取り出すと、じっとその本の表紙を眺め、その文字を手でなぞった。
しばらくして書斎をノックする音が聞こえた。ジャンニはあわてて、今出したばかりの本をもとの場所に戻した。ノックして入ってきたのはシャリーだった。
「碧華さんたち帰ってしまわれましたわよ」
「・・・」
何も言わないジャンニにシャリーは手に持っていた本を机の上に置いた。
それはさっきジャンニが机の上に出していた本と同じタイトルだったが、表紙の絵が変わった新刊だった。
「これをあなたにって預かりましたの」
「なんだそれは?」
「昨日限定発売された碧華さんのサイン会用の本ですわ」
シャリーはそういうと、その本に挟まれたメモ書きを出しジャンニに見せた。
〈この詩集の存在がビンセント様のお忙しい日常の中で、ほん一秒でも心の平安が訪れられるお手伝いができれば幸いです〉
と英文で書かれた文章が目に飛び込んできた。
「あなたはご存じないと思いますが、その本を買うのに多くの人達が朝から並んだんですのよ。わたくしも三時間も並びましたわ」
「こんな本の為に朝から何をしてるんだ」
「あら、貴重ですのよ。しかも新作の詩が5作も追加されている昨日限定販売のものなんですのよ。もう手にはいりませんのよ。それ、きっと碧華さん個人がもらった分ですわよ。碧華さん、ご自分を少しでも知ってもらって、栞さんとの交際を認めて頂きたいっておっしゃって。わたくし碧華さんの本を初めて読んだ時衝撃を受けたんですの。心の中の辛い思いを代弁してくれているようで、でも、どうしたらいいのかわからないでいた私の心に一筋の光を指し示してくれているようで、感激して眠れませんでしたわ。碧華さんの本は私の宝物なんですのよ」
「フン、そんな本、誰が読むんだ」
ジャンニはそういうと顔を背けてしまった。シャリーは小さくため息をつくと、彼に背を向けた。
「あら、あなたがいらないんでしたらわたくしが頂いておきますわよ」
「あっ、いっいらんとは言ってないだろうが」
ジャンニの反応にシャリーは小さく笑った。
「あら、そうですか・・・でも碧華さんには申し訳ないことをしてしまいましたわ。わざわざ帰国を延期までしていただいたっていうのにこんなことになってしまって、今夜も痛み止めを飲んできてこられたんですって、アトラスにきてからずっと仕事をしてらしたみたいで、お疲れでしょうに」
「何が言いたいんだ」
「仕事で疲れているのはあなただけはありませんわ。わたくし、昨日は感激しましたのよ。碧華さん、ご自分のサイン会で、自分を傷つけた犯人を許して差し上げたらしいんですのよ。それどころか、サイン会に参加できなかった方の為に握手会を夜遅くまでしていらしたのよ。とても心が暖かい素晴らしい方ですわ。今夜のことはわたくしもあなたが悪いと思いますわ。本心ではないとしてもあなたの悪い癖ですわね」
シャリーは彼が本心で言ったのではないということはよくわかっていたが、自分の息子が初めて愛した人をけなすべきではなかったと、申し訳なく思っていた。
「あなた、もう手遅れですわ。今まであの子の心に何も与えてはこなかったわたくしたちが今更あの子を自分たちの所につなぎとめておこうとしてもそれは無理というものですわ。あの子はもう見つけてしまったんですよ。自分の生きる場所を。栞さん、あなたを前にして、きちんと自分の意見を言ってのけるなんて、すばらしいお嬢様じゃありませんか。さすがは碧華さんの娘さんだわ。ますます好きになりましたわ。わたくしも桜木家の一員に入れて頂こうかしら?」
「なんだそれは?」
「あら、リリーが言っていたんですよ。レヴェント家は桜木家の皆さまに今回であって大ファンになったから、桜木一族のファミリーに入ることにしたんですって、だから桜木家に喧嘩を売られるのならレヴェント家も全力で受けて立ちますってお伝えくださいって。碧華さんにお聞きしたら、わたくしもファミリーに入れて頂けるっておっしゃっていただいたの。あなたがお変わりにならないのでしたらわたくしも考えなくては。だってあちらの方が楽しそうなんですもの」
「今更、変われるか!それにどうせもう手遅れだ」
ジャンニがぽつりというと、シャリーがニヤリとした。
「エンリー、こう言ってるけど、どうしますの?」
シャリーはそういうと半開きになっている扉の向こうに話しかけた。すると、扉の向うからひそひそ話が聞こえてきた。
「仕方ないですね。碧華ママどうします?」
エンリーの声のようだ。
「ええっ私?栞決めなさいよ」
「無理無理無理、ママ決めてよ」
「もう、優柔不断なんだから、そうね。私はもっと話してみたいわよ。興味あるもの、だってエンリーのパパでしょ。せっかくのチャンスを逃しちゃったらもったいないじゃない。チャンスの神様っていうのは何度も機会は与えてくれないのよ」
「それって人生の教訓として言ってるのママ、ママはチャンスを逃しっぱなしだったの?」
「そうなのよ。だからこんなおばさんになっちゃいました。ってこら優!ママに対して失礼よ。人生後半になってようやくチャンスを掴んできたから、今ここにいるんじゃないの。大切なのは今よ今。もうそんなこと言ってる時じゃないでしょ。もうエンリー決めなさいよ」
「プッ」
扉の向こう側から聞こえてくる碧華と優の会話に真っ先に噴出したのはジャンニだった。
「あら?もしかして日本語お分かりになりますの?」
そこで部屋に先に顔をだしたのは結局碧華だった。罰が悪そうにそっぽをむいているジャンニに碧華は笑顔で言った。
「懲りずに戻ってきてしまいました。まだ怒ってらっしゃいますか?その本に興味がないようでしたら、引き取らせてもらおうと思いまして戻ってきましたの」
そう笑顔でいう碧華に、ジャンニが小さくため息をつくと机に置かれたばかりの本を手にもつと、碧華の方に歩いてきて空いている右手を差し出した。
「私の負けです。先ほどは失言でした。その、あなたの本は私も愛読しております。喜んでいただきます。ただ、一度日本語版があればそっちの方を読んでみたいもんですな。あなたの本当の心が読めますからな」
「あら、ありますよ。日本語版、今回特別に5冊だけ作ってもらったんです。正直英語版は本当に私の原文通りに訳してくれているのかわからないから、日本語を読める方には日本語版の方を読んでもらいたいと思っていたんですの。交換いたしますわ」
そういうなり背中に背負っていた大きなリュックの中からフャイルパックの中に入れていた日本語版の本を取り出し差し出した。ジャンニはそれを受け取ると、自分が持っている本を差し出した。
「碧ちゃん、叔父さんが聞いたらすねちゃいますよ。訳したの叔父さんでしょ」
それを見ていたライフが碧華に突っ込んだ。
「あっそうだったわ。ライフ、今の言葉は内緒よ。テマソンすねるとめんどくさいから」
「あっ碧ちゃんもようやく気付いたの?」
ライフが碧華に向かって言った。
「天才ってどうして素直じゃないんだろうね」
「もしかしたら、エンリーもすねるとめんどくさいの?」
ライフのその言葉に栞はエンリーに向かって小さく言った。するとライフが代わりに答えた。
「ものすごくめんどくさいよこいつ。栞ちゃんも気をつけたほうがいいよ」
「優ちゃん、その点こいつは単純だから、楽だよ」
エンリーもすかさず、優に向かって言った。二人がいいあっていると、ジャンニが突然笑い出した。エンリーは初めて父親が笑っている声を聞いた気がした。