テマソンの戸惑い①
「碧華ママ、今夜はグラニエ城に宿泊予定でしたよね。テマソンさんが急用ができたみたいだから、僕らと一緒に行きましょう。ママの荷物は僕らの車に既に積み替えてますから」
碧華が控え室で帰りの準備をしていると、エンリーが碧華に近づいて言った。
「えっ、あらテマソンは?」
「今出て行きましたよ」
碧華はそれを聞いて、慌てて英語版の詩集を手に持って駆け出した。
碧華が駐車場につくと、テマソンが車に乗り込もうとしていた。碧華は慌ててテマソンに駆け寄った。
「テマソン、どうしたの?急な仕事でも入ったの?」
「そうなのよ、ごめんなさいね」
テマソンはどこか様子がおかしそうだったが、碧華にはそれがなんなのかわからなかった。
「そう。テマソン、今日は本当にありがとう。これ、あなたにも持っててほしくて」
「あら、私なら新しく買うわよ」
「でも、この表紙は今日の予約販売のみの限定版なんでしょ。はい」
テマソンは何も言い返さなかったがそれを受け取り、そのまま車に乗り込んでしまった。
碧華はテマソンに手を振って見送った。だが、なぜか寂しい別れだった。
碧華は再び控え室に戻ると、帰り支度は全て整っていた。
碧華はエンリーに通訳してもらい最後まで残っていた出版社のスタッフと店長に挨拶を済ませ、レヴァント家の豪華な車に乗りこんだ。
碧華は城に行く途中、レヴァント家専属の医師の元に立ち寄り、傷口を三針縫い、再び包帯をされ、痛み止めを処方された。
その後はさすがに疲れていたのか、車の中で眠りこんでしまっていて、城についても起きられなかった。
碧華が再び意識を取り戻したのは夜中の一時を過ぎた頃だった。目を開けると、ベッドの横にランプが小さくともされており、天蓋付きのベッドに一人寝ているのに気付いた。服はそのままだった。碧華はもう一度寝ようとしたが、のどの渇きとお腹がすいていることに気付き、部屋つきのトイレを発見しトイレにはいってから部屋をでた。
通路は所どころ明かりがともされていて、薄明かりがあり、歩けるほどだった。碧華は誰か起きていないか辺りに人の気配を気にしながら長い廊下を歩いていた。
『ここ何階かな?碧華は同じような間隔で続く部屋の数からして、客室かな』
などと思いながら、月明かりの階段を下におりた。一番下までおりた所で通路の真ん中で明かりがともっているのに気が付いた。
「あそこに誰かいるかもしれない。何か飲み物もらえないか聞いてみよ。腕も少し痛いし、薬飲もうかな」
碧華は独り言をいいながら明かりの方に向かって歩きだした。そして碧華は半開きになっていた扉をノックしてみた。
「はい、誰?」
部屋の中から聞こえてきたのはリリーの声だった。碧華はホットして声をかけた。
「あの碧華です。夜中にすみません。咽喉が渇いてしまって、何か飲むものと軽く食べられるものいただけないかと思いまして・・・」
声の主が碧華だと気づいたリリーは椅子から立ち上がると、笑顔で碧華を部屋に招きいれた。そこはリビングみたいな場所のようだった。とても大きなテレビが壁にかかっており、フカフカの黒いソファーがおかれ、高そうな調度品がさりげなくあちこちに置かれていた。
「気がついたのね。体調はどう?」
「はい、少し頭がぼーっとしますけど、大丈夫です。あいさつもせず、車で寝てしまっていてすみません。
それに、レヴァント家のお医者様にもみて頂いただいて、御迷惑をおかけしました」
「あら、気にしないで、ライフから聞いたわ。謝らなきゃいけないのはこっちよ。テマソンが隣にいたのにあなたにけがをさせてしまって、ごめんなさいね。あの子にはきつく叱っておいたから」
「いえ、彼は悪くないです。ただの事故ですから。お医者さまも驚いてました。まさか、袋の中に入っていた万年筆が飛び出して凶器になるなんておどろきだって」
「万年筆で?」
「はい、でもその万年筆、私試しに書いてみたらすごく書きやすいんでお気に入りになっちゃいましたけど」
「あらあなた、変わってるわね。犯人を許してあげたり、凶器をお気に入りにしちゃったり。私だったら裁判ね。凶器も終わったらゴミ箱に葬り去ってやるわ」
「リリーさんならやりそうですね」
碧華は笑っているだけで、細かい言い訳はしなかった。あの時の判断は自分でも間違っていたとは今も思っていないからだ。
リリーもあえてそれ以上は聞かなかった。リリーは部屋を出て行くと、しばらくしてトレーにオレンジジュースが入ったビンとグラスとサンドイッチを乗せた皿を持って戻ってきた。
「こんなものしかなくてごめんなさい。ライフが今夜の晩餐会の残りも全部食べちゃったみたいで」
「いえ、ありがとうございます」
碧華は遅い夕食を食べながらリリーと取り留めない話を始めた。
「あの・・・今日テマソンが帰り様子がおかしかったように思うのですけど、体調でも悪くなったのでしょうか?仕事だって言っていましたけど、何か聞いていませんか?もし体調が悪いようでしたら、様子を見にいってあげたいのですけど、私の通訳で一日付き合ってもらったので、でも迷惑でしょうか?」
「あら大丈夫よ。あの子人一倍丈夫なんだから、あなたのサポートをするって張り切っていたなら、本当に急に仕事がはいったとしてもさっさっと帰ったりしないわよ。あの子逃げたのよあなたから」
「えっ?」
碧華はわけがわからないというような顔でリリーを見た。
「あの子、ああ見えて気が小さいとこあるのよ。自分が大切にしているものに対してはね。大人になってからはあえて宝物をつくらないようにしていたようだけど。あなたに出会ってしまった。思い出すわね。この犬ねビーシャっていってテマソンが七歳のころ飼っていたんだけど、テマソンが家の近所の川で溺れそうになった時助けて、けがをしてしまったことがあってね。すごく落ち込んだのよ。まる一か月何もしゃべらないで、部屋にこもってしまって、大変だったのよ」
りりーは棚の上に飾られていた額の中の一つを見ながら言った。そこには大型の犬と小さい男の子の写真が写っていた。
「どうしてですか?その犬は助かったんですよね」
「ええ、だけどあの子は自分が許せなかったんでしょうね。変に自分に厳しいとこがあるの。でもね、あの子のすごい所はあの事件があって一か月の間であの子泳ぎをマスターしたのよ。根性はあるのよね。あの子、思いだ出したのかもしれないわね。ビーシャを、自分が大切だと思ってしまったものは相手を不幸にしてしまうって、だから逃げたのよ」
「そんなこと、このケガはテマソンのせいじゃないし、ただの事故だし、会社で倒れた時も私の普段のグータラ生活のつけが出ただけで、テマソンはちっとも悪くないのに、もしかして、先に帰ったのは・・・」
「十中八九、ショックが大きかったのね。あの子ちっとも変ってないわ。きっと今頃自分の家の部屋の隅で丸くなって放心状態になってるでしょうね。でもあの子も大人になったのね。あなたがけがした後、すぐ逃げ出さないで夜まで頑張ったんだから」
「今日はテマソンがそばで通訳をしてくれなかったら私、大変なことになっていました」
碧華はそこまで話すと、黙り込んで目の前のサンドイッチをもくもくと食べた。食べ終わると、両手を合わせて「ごちそうさまでした」と小さく言うと立ち上がった。
「あのリリーさん、今から車って誰か運転していただける方かタクシーを呼んでいただけないでしょうか?」
「あら、どこへ行くの?」
「私はビーシャじゃないですから、勝手に落ち込んでいるのなら、ビシッといっとかなきゃ。私、やっと見つけた大切な相棒を失いたくないんです。誤解はすぐに解かないと時間が立つと取り返しのつかないことになるのよく知ってますから。でも・・・朝にならないと運転手の方に申し訳ないですよね。無理でしたら、それまで待ちます」
座ってじっとしばらく無言で碧華を見つめていたリリーがゆっくり立ち上がると、机の上に置いていたスマホを取り出すと何やら英語で電話をかけた。
「テマソンが夢中になるだけあるわね。碧華さん、弟のことよろしくね。あなたといい、栄治さんといい、栞ちゃんや優ちゃん、お母方も桜木家の皆さんは全員素敵なかたたちばかりね。テマソンが言っていたように、私たちもあなたのファミリーの一員に入れてもらえないかしら?」
「そんな、私たちこそ、こんなに親切にしていただいて感謝してもしきれません」
「碧華さん、私たちはお金には不自由していないわ、でも近寄ってくる人間はみんなこびを売ったりだましたりする人が多いのよ。だから人を信用しないように教育されて育ったの。人は裏切るものだもの。私たちは命に直結するから。でもあなた方は違ったわ。みんな純粋で曇りなく真っ直ぐ私たちの心の中に入りこんでくる感じで初めての感覚なの。あの仕事人間のビルが栄治さんがくるって聞いて、まるで恋をした少女みたいに楽しみにしていたようにね。昨日、栄治さんとキャンピングカーで一泊するってテレビ電話で言ってきた時のあの楽しそうな顔ったら、結婚して初めてみたわ。私たちこそ、家族に笑顔をもたらしてくださって感謝してるのよ。ライフだってそうよ、優ちゃんにメロメロみたいね。本当にあの子たちもいい子ね。大好きよ。四人のことは任せて、明日空港で合流しましょう。表に車を用意しているから」
「はい、ありがとうございます。アトラスにきてから、私の家族をまかせっきりで本当にすみません。最後まで甘えさせていただきます。じゃあ荷物とってきます」
「慌てなくていいから。そうだわ、明日空港に行った後、エステ行きましょうよ。染みとかほくろとか取ってくれるいいところあるのよ。私のおごりだから行きましょうよ。大丈夫よ傷は最小限で、化粧をすれば翌日からでも全然目立たないんだから」
「えっ本当ですか?」
碧華は目を輝かせながらリリーを見た。りりーは頷いた。
「ありがとうございます。でも本当にいいんですか?私図々しくないですか?」
「ちっとも、私、妹がほしかったのよね。テマソンって結婚しない宣言してるでしょ。だからあなたが妹になってくれると嬉しいわ」
「私も姉がほしかったんです。私人付き合いが苦手なんで・・・だめなんですよね、空気が読めないから、相手が本当はどうしてほしいのかまったく理解できなくて、だから、もし私が迷惑をかけているようでしたら教えてください」
リリーは急に碧華を抱きしめた。
「私は本気であなたをデートに誘っている。あなたを本当の妹になってほしいと思っている。私は嫌いな人にはお世辞でも誘ったりしないから安心して。アトラス人は日本人のように本音を隠したりしないわ。私はあなたが大好きよ」
「リリーさん・・・」
「碧ちゃん、私はリリーお姉様よ」
リリーは碧華を放すと笑顔で言った。
「お姉様・・・」
碧華は不意に涙があふれてきた。
「私・・・私、うれしいです。あっあの・・・リリーお姉様」
涙を浮かべて言う碧華にリリーはもう一度碧華を抱きしめ。
そして碧華を放した。碧華はリリーに何度も頭をさげた後部屋を飛び出していった。