条件付き?アトラス旅行
最近の碧華の一日はかなり忙しい。何故かというと、ディオレス・ルイ社の社長兼バッグデザイナーのテマソンから送られてくる大量の仕事依頼に追われていたからだ。
時には急がないといいながら、段ボールにいっぱい詰め込まれたサンプルリストの布の中からテマソンがデザインしたバッグのデザイン画にどの布の柄が一番合うのかを選び出す作業に一日を費やすこともあった。
毎回一人でパソコン画面に向かってブツブツいいながらも結構楽しんでいる自分がいた。テレビ電話でテマソンと配色の意見の相違で交わされる激しい言い合いも結構気に入っていた。
本音で言い合いしながらも最高のバッグができていくのが好きだった。
それは碧華が長年思い描いてきた日常だったのだ。
〝相棒…彼には言ってはいなかったが碧華はすごく感謝していた。
この距離感がいいのかもしれない。
自分にもできることがある。誰かが必要としてくれる才能があったのだと思わせてくれるテマソンにはいつも感謝していた。
言葉にだして言わないけれど、ただの専業主婦として、ただのおばさんで終わるのだと諦めていた四十代がこの一年で劇的に変化していた。
それは季節が夏になったある六月のある日のことだった。
「碧華、あなた今年の夏休暇はどこか家族旅行を予定しているの?日本にも長期休暇ってあるんでしょ?」
仕事も一区切りした時、突然テマソンが聞いてきた。
「うーん今年は栄治さんの会社は八月十日から十五日までお盆休みがあるけど今の所未定かな、旅行積立は九州旅行行ったばかりだからたまってないし」
そう言った碧華にテマソンはすくっと立ち上がると、画面から消えてしまった。どうしたんだろうと首をかしげていると、手帳を手に戻ってきた。
「ところであなたパスポート作った?」
なぜそんなことを聞くのだろうと思いながらも碧華は即答で答えた。
「そんなもの作ってるわけないでしょ。我が家で持っているのは栄治さんだけよ」
「あら、栄治さん持っているの?」
「うん、何年か前の社員旅行が海外だったから」
「そうなんだ」
「で、なぜそんなことを聞くのよ。嫌味や自慢なら聞かないわよ」
「あら、そんなんじゃないわよ。確かに私はよく海外に行くけれど。実はね、この間シャリーと食事に行ったんだけど、その時にあんたたちのこと聞かれたのよ」
「シャリーて誰だっけ?」
「あなたホントに人の名前覚えない子ね。エンリーくんの母親よ。あの家出の一件で仲良くなったのよ。もともとリリーと幼馴染で、昔から知ってはいたんだけど、最近よく三人で食事に行くのよ」
「ああ、エンリーのお母さんね。でも何を聞かれたの?あなた変なこと言ってないでしょうね」
「まっいろいろよ。でね、実はあれ以来、エンリーくんが外泊の許可がとれた休暇の度に実家に戻ってきて、シャリーにいろいろ話してくれるようになったんですって、それで、よく桜木家の事が話題に出てくるから、一度お会いしたいっていうのよ。旦那様のジャンニ・ビンセント氏もね。でも彼忙しい人でしょ。長期休暇は取れないから、できれば桜木家の皆さんにアトラスにきてもらえないかって、もちろん旅費や滞在中のホテルなんかも向うがだすって言ってるんだけど、来ていただけるか聞いて欲しいって言われたのよ」
「無理です。ごめんなさいって伝えといてください。テマソン様、じゃそういうことで」
「こらこら、碧華逃げないでよ。戻ってきなさーい」
テマソンは画面から姿が消えた碧華に向かって叫んだ。
しばらくしてコーヒーカップを持って戻ってきた碧華はもう一度言った。
「私の性格知ってるでしょ。無理よ、第一、言葉通じないじゃない。ツアーで行く旅行じゃないし、家族だけでアトラスなんて無理」
「はいはい、マイナス思考の碧華の気持はわからないけど、エンリーくんと栞ちゃんが結婚ってことになったら、いつかは会わないといけなくなるのよ。よく考えてみなさい。あっちなみに、旅費のことなんだけど、どうせビンセント家にだしてもらえないって言うと思って、今回の旅行の計画をママンに話したらママンが自分が出すからぜひ来てほしいって言ってたわよ。ママンの城に滞在できるなんて、すごいことなのよ。さっき栄治さんに連絡して、隣のお母様もご招待したいっていったら心よく承諾してくださったわよ」
「えっお母さんも招待されてるの?えっママン?えっ栄治さんが承諾?何よ!テマソンあなた私が断るのわかってて先に根回したわね!」
「あら、私は目的の達成のためなら手段は選ばない人間なのよ。でも、私はぜひあなたにきてほしいのよ。それに、実はライフがね、この間ママンに会いに行った時にしきりに優ちゃんのことを話していたらしいのよ」
「ライフが?ところでママンて誰のこと?」
「ああっ、ママンは私の母親のことよ。ライフは唯一の孫でしょ。可愛くて仕方ないのよ。その可愛い孫が珍しく一人の女の子ののろけ話ばかりするものだから、気になったみたいでね。隣におばあ様も住んでるって聞いてぜひ一度会ってみたいっていうのよ。りりーも私があなたと仕事してるって告げ口していたみたいで、家族全員城に招待するから連れてきなさいって私にまで催促の電話がひっきりなしにかかってくるのよ」
「そんなの、よけい無理!」
碧華はテマソンの説明を聞いてさらに大きな声で叫んだ!
「何言ってるのよ、本来だったらママンのお城に赤の他人なんか泊まれない由緒正しい城なのよ」
「そんなこと言われても・・・海外だし、言葉が通じないじゃない。英語でいろいろ言われたらノイローゼになっちゃう。本当に無理、私こう見えても打たれ弱いのよね。それにアトラスへはフライト長いからお母さんも体力的にきついと思うし」
「あっその点なら大丈夫よ。ママンも日本語はしゃべれるから。それにあの城は日本語を話せるスタッフも多いから大丈夫よ。全員ファーストクラスを用意するって言ってたわよ」
「はあ?、家族5人、お盆休みにファーストクラスって、いったいいくらかかるのよ。無理無理無理、ぜったいに嫌!のこのこ行って、仲たがいして旅費支払えって言われたら、家は破産しちゃう。断って!お願い」
碧華は大きく首を横に振りながら身震いした。
「無理って言葉はママンの辞書にないのよね。これは決定事項みたいよ」
テマソンは碧華の反応はあらかた予想していたのか、さして驚かなかった。それどころか、ニヤリとした表情を見せた。
この表情をしたテマソンには勝てる気がしない碧華だったが、どうしても無料でのアトラス行きには了承できなかった。かといって、今、何百万もの大金は出せる余裕はなかった。
黙り込んでしまい、顔から血の気がひくのを感じた碧華は大きなため息をついた。
「仕方ないわね。じゃあこうしましょ。旅費は私が出してあげる」
「それも嫌!」
碧華は即答した。それに対しテマソンは言った。
「話は最後まで聞きなさい。無料でとは言っていないわ。アトラス滞在中、あなたは私の仕事を手伝いなさい。新作発表会が二日間あるのよ。まだ二か月先だから、準備は間に合うからあなたが来られる日に合わせるから。それだけ働いてくれたら、旅費ぐらいだしてあげるわよ。滞在中ご家族の接待は夏休み休暇中のエンリーくんとライフが喜んでしてくれるだろうしね」
「ええっ!なんかそれもっと嫌~。せっかくのアトラス旅行が仕事だけなんてつまんないじゃない。それなら家で寝てた方がまだまし!丁重にお断りいたします」
碧華はそういうなりパソコンの電源を切ってしまった。
「これは手ごわいわね。甘く見ていたわねマイナス思考・・・何とかしなきゃ」
テマソンの頭の中で様々なシュミレーションがフル回転しだした。そして碧華の抵抗もむなしく、外堀から埋められ、結局テマソンの作戦の勝利を収めたのは言うまでもなかった。
テマソンは最終手段に打って出たのだ。なんと8月に新作発表会があって、その会場に碧華も出席してほしいのだが碧華にアトラス行き自体断られて困っているのでなんとか説得してほしいと栄治に何度も泣きついたのだ。
碧華自身も家で絶対行かないとごねていたらしいが、特にアトラス行きを楽しみにしている娘達に説得され、しぶしぶテマソンに費用をだしてもらうという条件をのみ、家族全員パスポート申請の手続きが行われることになった。栄治の八月のお盆休みの前夜、栄治の仕事が終わってすぐに空港に向かい、出発するというハードスケジュールの家族旅行が決まった。
みな楽しみにしていたが、碧華だけは表情は曇ったままだった。
それもそうだ、言葉の通じない国での初仕事、不安でいっぱいだった。
飛行機は無事、翌日の朝アトラスの空港に到着した。
空港に着くと、ライフとエンリーが到着ロビーで待っていた。そして、ライフが桜木家のみんなに挨拶した。
「みなさんお疲れ様です。車を用意していますので、これから僕の家まで案内いたします。今日はとりあえず、ゆっくりしてください。夕方祖母の住むグラニエ城に案内します。今夜はそちらに宿泊していただく予定です。祖母も楽しみにしていますので」
「ありがとうライフ、でもこんな大勢でお宅にお邪魔してもいいの?」
碧華が聞くとライフが笑顔で答えた。
「大丈夫だよ。家には客間がたくさんあるから、アトラス観光もいいんだけど、疲れているだろうから、家でゆっくりしてくださいってママが。夕方行くグラニエ城もホテルより快適だと思うよ」
「そう・・・じゃあお任せってことで、お世話になります」
そういう碧華に対して、にっこりと笑顔を向けながらライフの口から碧華が予想していなかった言葉が発せられた。
「あっでも碧ちゃんは別の車で叔父さんの会社に案内するように言われてるから別行動だよ。エンリーが会社まで同行するから安心して」
「えっ?私もみんなと一緒じゃないの?私もリリーさんやビルさんやライフのおばあ様にお会いしたいわ」
「ごめんね、叔父さんが忙しいから碧ちゃんは空港から直行させてくれっていわれてるんだ。夜の晩餐会には叔父さんが送るって言ってたよ」
「えええ~今の話は聞かなかったことにならない?」
「無理だよ。叔父さん怒らせるとめんどくさいし」
明らかに嫌がっている碧華に栞が碧華の肩をたたいて言った。
「ママ、頑張って今回の旅費の分しっかり働いてきてね。じゃあね」
「ひっひどい。栞はママを見捨てるつもりね。優~ママもそっち行きた~い」
「ママ、無事日本に帰れるようにお仕事頑張ってね。ママ仕事したいっていつも言ってたでしょ。夢がかなったじゃん」
「優まで~そんな夢知らない~」
「まあまあ、碧華ママ、きっとディオレス・ルイの仕事は楽しいですよ。僕がテマソンさんの会社までご一緒しますから」
だだをこねて嫌がる碧華はエンリーに問答無用でひっぱって行かれながら、家族とは別方向に去って行った。