エンリーの失踪①
『はあ・・・どこかに消えてしまいたいな
自分がどんどん嫌な人間になっていくみたいだ
あの人はいつも僕の意思など聞いてくれはしない。
僕は何のためにここにいるのだろう。
ああ、僕はなぜ生きているんだろう。
僕を縛りつけるこの鎖から自由になりたい』
エンリーは心の底から疲れきっていた。どんなに努力しても、その先を求められ続ける。そんな生活に嫌気がさした。だから努力するのをやめた。
そうしたら諦めてくれるんじゃないかと思ったからだ。だけど束縛はよけいひどくなった。
休みの度に強制的につけられる家庭教師、彼らに聞かなくても、理解しているとは今更言えなくなった。
全寮制の学校に入って少しは自由になれると思っていたが、今度は休暇の度に家に帰ることを強要され、それが地獄にような苦痛に変わってしまった。
自由になりたい、いつからだろう、そう思うようになったのは、この窓から飛び降りたら自由になれるだろうか?
だけど、あの日から僕の中でそんな思いが消えていた。
どこかで聞いたことのあるただの異国地、日本、短期留学などどこでもよかった。この地獄から少しでも離れられるなら・・・だけど、日本は僕に大切なものを教えてくれた。そしていつしか僕の心を占領し始めていた。
『僕がもし、次に生まれ変わることができるとしたなら、日本人に生まれてこれるかな。
もっと自由で、優しい父や母や兄弟とふざけあえるような普通の家庭に』
『もう僕は疲れた。全てをコントロールされる生活に。自由がほしい。
僕がもしいなくなってもきっと何も変わらない。
父さんはホッとするのだろうか?それとも怒り狂うのだろうか?
僕というあやつり人形が一人いなくなったら。
母さんはどう思うのだろうか?涙を一滴ぐらい流してくれるのだろうか?
それとも気付かないのだろうか。僕がいなくなっても気にもしないのだろうか・・・』
「あなたが女の子だったらよかったのに」
今更何かをしてほしいとは思わないが、母さんは幼い僕に言ったその言葉が今も脳裏に焼き付いて離れてはくれずにいる。
あの人にとっては三人兄弟の末っ子はどうでもいい存在なのだろう。けれど家には体裁がある。出しゃばらず、それでいて落ちこぼれは許されない。僕自身はどうでもいい存在なのだ。
『栞ちゃんに会いたいな、僕は君と同じ日本人に生まれてくればよかった。
もし、僕の願いが叶うなら、僕は君の側で君の温かい家族の側で生きてみたいな』
エンリーは目の前で怒り狂っている父親の怒鳴り声も全く頭の中に入ってきてはいなかった。表情一つ変えず、この地獄のような時間がただ過ぎるのを何も反論せずにただ、頭を下にむけて聞き流していた。去年の年末に日本に行き、年があけアトラスに戻ってきてから、またエンリーは定期的にある試験を落第しないギリギリでわざと悪い点をとるようになっていた。
「エンリー、なんだこの成績は!去年はまともな点をとるようになってきたと思っていたがまたもとに戻っているではないか。いいか、この一年でどうにもならなければ、アフリカの奥地にでも送りこむぞ。そこで肉体労働者と一緒になって働いてもらうぞ。お前に一体どれだけのお金をかけていると思っているんだ。もっとましな成績をとらなければ、せっかくきている縁談が破談になってしまうではないか。出来損ないのお前でもいいといって下さっているお嬢さんがいるというのに。こんな成績では先方に失礼だろうが、いいか一年の猶予をやる。それでどうにもならなければ勘当だ!」
エンリーの父親であるジャンニは仕事用のデスクに両手を思いっきりたたきつけながら怒鳴った。
「父さんは僕のことを何もわかってくださってはいないのですね」
エンリーは父の小言が区切りがついた事を確認して言った。
「なんだと!」
「僕はもう疲れました。それでしたら今すぐ僕を勘当してください。僕はビンセント家の名前を捨てます。僕を自由にしてください。縁談もお断りします。僕には将来結婚したいと思っている相手がすでにいますから」
「なっ!何を馬鹿なことを言っているんだ! そんな家の恥になるようなことは許さんからな。今すぐその女とは縁を切れ!」
「家の恥?あなたの顔がつぶれるだけですよね。僕は彼女と別れませんよ。どうしてもというのなら、僕があなたと縁を切りますから」
「なんだと、生意気なことをいうな!何もできない出来損ないが!」
次の瞬間、デスクの横に立っていたエンリーの顔にこぶしが飛んできてエンリーは後ろに吹き飛んだ。エンリーは床に倒れ込み口から赤い血が流れてきた。エンリーは切れた唇を右手の甲で拭いながら父親を睨みつけた。
「もうお前の顔など見たくもない、しばらくは顔をだすな!いいか婚約は決定事項だ!」
「・・・」
エンリーはよろよろと立ち上がり、何も言わず父親の書斎をでた。
「家を出よう・・・」
廊下にでたエンリーは小さくつぶやいた。
こんなことがビンセント邸であった二日後の土曜日の夜。
ここはレヴァント邸である。
テマソンは久しぶりに姉との夕食を楽しんでいた。今年に入ってからは、どんなに忙しくても月に一度の姉夫婦とその甥との夕食をとるようにしていた。がっ、今日に限って義兄急な仕事が入ったとかでまだ帰宅していなかった。寄宿舎から帰省しているはずの甥のライフは昼過ぎにリリーに頼み込み、リリー専用のレヴァント家所有の運転手付きの車に乗って外出してから夜の八時を過ぎようとしているにも関わらず、連絡すらよこさず、どこに行ったのか居場所がつかめずにいた。
仕方なく珍しく姉弟水入らずの夕食となったわけだが、楽しむという雰囲気ではなかった。
「まったく夕食だっていうのに、ライフったらどこに行ってるのかしら」
「友達と遊びたい年頃なのよ。一人でフラフラでかけないだけましじゃない」
「そうだけど、金曜日に学校から帰ってからあの子ったら出かけっぱなしなのよ。おかげで私はずっと家でかんずめ状態なんだから、ビルに言ってるのよ。運転手をもう一人雇いましょうって。こう毎週毎週末にライフに車を使われちゃったら、私がどこへもいけなくなるもの」
「あら、不便なのは週末だけでしょ。車があるんだから自分で運転すればいいじゃない。いいわよ~自分で運転するって。自分で運転すれば行きたい時に行きたい場所にいけるんだから。あなたも免許取っているんだから自分で運転しなさいよ」
「嫌よ、自分で運転するなんて、疲れるじゃない」
「じゃあ、諦めることね。どうせ、でかけるっていったってショッピングか、くだらないおしゃべりにいくだけでしょ。パーティーだっていいながら、くだならいうわさ話するだけじゃない。おお嫌だ。それこそ時間の無駄ね。あなたも暇ならビルの仕事手伝ってあげなさいよ。夫婦で同じ仕事をしたら、彼の時間も余裕ができるんじゃないかしら?そしたら、夫婦で旅行でもすればいいじゃない」
テマソンは大きなステーキの肉を口にほおり込みながら言った。
「昔は楽しかったわよ。でも最近のあの人口うるさくて、もううんざり、友達とおしゃべりしていた方がよっぽど楽しいわよ」
「ふーん夫婦の愛情も月日と共に冷めるのね。あんなにラブラブだったあんたたちがねえ…やっぱり私はこのままがいいわね。気楽だし」
「そんなこと言っても動けなくなったらどうするのよ」
「あらその時はその時よ、その時のために今お金儲けをしているんじゃない。動けなくなったら施設にでもはいるわよ」
その時、電話の音が鳴り響いた。
「いったい誰かしら?こんな時間に家に電話してくるなんて」
電話の音に視線を移していると、あわてた様子で部屋に執事がはいってきた。
「奥様、シャリー・ビンセント様からお電話が入っておりますが」
「えっシャリーから?何かしら?携帯にかけてくればいいのに」
「ビンセントってライフの友達のエンリーくんの家よね」
「わかったわ、こっちでとるわ」
そういってリリーは立ち上がると、電話の置いてある扉の横まで歩いてきて受話器をとった。
「ハロー、シャリー久しぶりね。どうかしたの?」
〈リリー・・・エッエンリーがそちらにお邪魔していないかしら?〉
受話器越しに聞こえるシャリーの声は涙声で震えているようだった。
「エンリーくん?今週は来てないわね。家の子も今朝から家の運転手と車ででかけてからまだ帰ってきていないのよ。今朝はエンリーくんが一緒だとは言っていなかったわ。エンリーくんと遊ぶ時はあの子いうから、エンリーくんどうかしたの?」
〈あっあの子、金曜日の昼過ぎに寄宿舎に戻るっていって家の運転手の車で寄宿舎に戻った姿は寮の管理人の人も確認したらしいんだけど、それ以来、朝も姿を見ないのでさっき部屋を見にいった管理人の人が、あの子の部屋がすごい荒れててあの子がいないって寮から電話がはいったの。いつも外出なら外出届を提出する子だから、姿が見えないのはおかしいって電話が入ったから、私慌てて寄宿舎に行ったら、本当に部屋が荒れていて、パスポートとか貴重品らしきものが全てなくなっていたのよ。誘拐かもしれないって寮長さんがいうのよ。あの子いつもすごくきちんと部屋の中は整理整頓できている子だからって、私パニックになってしまって、学校内とか、お友達にも電話で知らないかきいてもらったんだけど誰も知らないって、ただ、ライフくんの携帯がつながらないって学校の先生がいうもんだから、ライフくんの居場所リリーなら知ってるんじゃないかと思って、もしかしたらライフくんと一緒にでかけてるんじゃないかと思ったものだから〉
「誘拐?まさか、でも家出だとしても尋常じゃないわね。何か心あたりあるの?」
〈わからないわ。私何がなんだか・・・あの子、ただ遊びに出かけているだけならいいのだけれど、家出したのならあの子どこにいったのかわからなくて。ああ、どうすればいいのかしらリリー。ただ、木曜日の夜にジャンニがあの子に怒鳴っている声を聞いていたから私心配で・・・いつもよりひどかったし、主人も戻ってきていて今、あちこち問い合わせているんだけど、あっ、主人が呼んでるみたいだわ。あのもしライフくんが戻ってエンリーのこと何か知っていたら電話くれるかしら?〉
「わかったわ、ライフに連絡をとって聞いてみるわ。何かわかったら電話をかけるわ」
リリーはそう言って電話を切った。その後すぐに固定電話からライフの携帯に電話をかけ始めた。
テマソンはリリーの会話で状況を把握しつつ、心の中でつぶやいた。
『誘拐か家出ねえ・・・あの子頭のいい子だから寮の中でみすみす誘拐なんかされるかしら、誘拐なら寮以外の所でよね。となると誘拐を装って自分ででていった線が濃いわね。とうとう家出したのね。ライフから話は少し聞いていたからいつかこんなことが起こる気はしていたけれど、あの子私に少し似ている気がするから気にはなっていたのよね。
変な行動は起こさないとは思うけれど、問題は行き場所よね。パスポートがないならもしかしたら・・・』
テマソンはそう心の中でつぶやきながら、ある人物にメールを送信した。
〈緊急手配!そちらにエンリーくんがたずねてきたら、引き留めておいてくれるかしら。逃亡の疑いあり、確保求む!〉
「テマソン、私シャリーが心配だからビンセント家に行ってくるわ。ああもう、ライフったらどこに行ってるのかしら。運転手もでないじゃない。何のために携帯支給してると思っているのかしら」
リリーはイライラしながら電話番号を押していたがどの携帯もつながらなかった。それをみたテマソンはライフにメールを送った。すると意外にもすぐに返信がきた。
〈叔父さん、家に来てたんだ。なんだか学校の先生とかママからもしつこく電話きてるんだけど、僕何かやらかしたのかな?ママ何か怒ってるの?電話出た方がいいかな〉
〈でた方がいいわよ。エンリーくんに何かあったみたいよ〉
テマソンが送信すると急にリリーがかけていた電話にライフがでた。
「やっとつながったわ。あなた今どこにいるの?えっ車のパンク?それもタイヤ全部?何よそれ、でっ今運転手は何しているの?ええわかったわ。それより、あなたエンリーくんが寮からいなくなったらしいんだけど、どこにいったか知らないかしら?そうわかったわ。すぐ迎えにいってもらうわ」
リリーは受話器を置くと、テマソンに言った。
「テマソン、あなた悪いんだけど、ライフを迎えに行ってもらえないかしら?」
「えっ?どうして私が?」
「あの子デルモンテ岬にいるんですって、でも車がパンクしててまだ当分帰ってこれないらしいのよ。まったくあんな所に何をしに行ったのかしら?まったく代わりの運転手がいないし、私はリリーが心配だから先にビンセント家に行ってるから、あなたはあの子を迎えに行ってからビンセント家に来てくれるかしら。もエンリーくんのこと知らないらしいんだけど心配だからビンセント家に行きたいって言ってるから」
「やれやれ、せっかくのディナーが台無しね。わかったわ。あの子を迎えにいってそのままビンセント家に行けばいいのね」
テマソンはため息をつきながらライフを迎えに行くべく、自分の車に向かった。