平凡な日常と些細な縁①
私は桜木 栞、桜木家に生まれて十六年、ごくごく平凡なサラリーマンの家庭に生まれ、過保護までとはいわないが、大切に育てられてきた平民のお嬢様だ。だけど、お金持ちという意味のお嬢様ではない。
勉強は人一倍してきたつもりだ、結果はそれなりと思っている。
母親がよくいうのだ。
「下を見ればきりがない。上を見てもきりがない。人生には妥協と諦めも時には必要だ」
その通りだと思い始めてきてしまったこの頃だ。
これでは人としての成長が望み薄ではないのかと思いながらも、今の生活に流され始めて、自分の限界に気付き、高学歴を諦めモードだ。
念願の高校生になってもうすぐ一ケ月、夢に描いていた楽しい学園生活は打ち砕かれつつある。
毎日大量に出る宿題と小テスト勉強で、友達と帰りにショッピングでもという浮ついた気持ちにすらならない。
それ以前に車で送迎付きだった。
少し無理をして入学できた私立橘学園は、自分は賢いというのは思い違いであったと宣告される毎日だ。
「あ~どうして英語って頭からぬけていくんだろうなあ…こんなはずじゃなかったんだけどな~」
栞は誰もいない朝の教室の自分の机の上に今日の分の早朝単語小テスト対策用の参考書を睨みつけながらブツブツ呟いた。
昨日の小テストは悲惨な結果で、これではまずいと思ったが、家にいても全く単語が頭に入ってこなかったので、今日はいつもよりもさらに早い時間に母親に学校に送ってもらい、何とか単語を覚えて、両手を上にあげながら腕を伸ばし肩を回した。
栞は誰もきていない静まり返った教室が好きだった。だがその静寂を打ち破る人物が三週間前からいた。彼は、教室に入る時は毎回決まった言葉を言って入ってきた。
「おはようございます」
碧華は母親に車で送ってもらうため七時という早い時間でも余裕で学校につけるが彼は違う。
電車で通ってきている。それもホームステイ先からは電車の乗り継ぎの関係で一時間ぐらいかかるらしかった。
「あっ! おっおはようございます」
栞以外誰もいない教室では自分に言われている挨拶だということは間違いないので一応小さな声であいさつを交わすようになって三週間がたった。今日が彼にとっての留学最後の一日だった。
栞はそれだけいうのが精一杯だった。
なぜなら彼はアトラス国の名門キングストン大学付属高校の学生で、三週間の交換留学制度を利用して、この橘学園にホームステイをしながら短期留学生として通っていたのだ。
彼の名はエンリー・ビンセントといって、彼はモデルのような容姿に加え、高身長で講堂で紹介された瞬間から「カッコイイ~」という女生徒の興奮した囁き声が響いたほどにイケメンだった。
クラスの女子だけにとどまらず、この三週間というもの、中等部からも彼を見に来る女生徒が後をたたなかった。それに比べて栞は、ごく平凡で勉強する時は眼鏡をかけ、後ろに髪を一つにくくっている姿は自分でも可愛いとは思えなかった。そんな自分にとって彼は眩しすぎるのだ。
この学校にも可愛い子はたくさんいて、この三週間というもの、休憩時間は彼に自分をアピールしにくる女生徒が教室の前の廊下に群がっていた。だが彼はそういう女性は苦手なようで、あまり話しかけられても無言で頭をさげるだけのようだった。休憩時間も一人で本を読んでいることが好きなようだった。
最初は彼に群がっていた女生徒たちも次第に直接話しかけるのをあきらめ、遠巻きにみている様子だった。
最初の頃は、日本語が苦手なのかと思って観察していたが、英語の得意な女子が話しかけても同じ反応をしていたようだった。
ところがどういうわけか、毎朝、みんなが登校してくるまでの早朝の30分の間だけは二人きりになる教室の中では彼は自分から栞に近づき、ポツリポツリと色んな疑問を栞に日本語で質問してくるのだ。
高校に進学してからというものクラスの男子生徒とほとんど交流をもっていない栞は内心彼との会話はドキドキだった。
彼とのこの時間が明日からはもうないのだと思うと少し寂しさが沸き起こっていた。
「おはようございます。あの・・・」
栞はその声に単語帳を閉じ、平常心を装いながら顔を上げた。
「おはようございます」
栞はもう一度軽く頭を下げながら笑顔をエンリーに向けた。
「あっ、いえ、実はその・・・」
いつもなら疑問に思うことがあるとストレートに聞いてくるのに今日に限っては言いにくそうだった。栞は彼が話し出すのを何も言わずに待っていた。5分ほどの長い沈黙が続いた後、一枚の紙を栞に差し出した。不思議に思いつつ、その差し出された紙を開いてみると、そこには英語でアドレスが書かれていた。
「これは?」
きれいな筆記体で書かれたその紙を見ながら栞は聞き返した。
「あの、僕の通ってる学校の寮のアドレスです。その・・・ああ~僕はこういうのは苦手で・・・」
エンリーは流ちょうな日本語でそういうと真っ赤になりながら下を向いてしまった。
「あのもしかして、私とその・・・文通っていうのかな、私、手紙をだしてもいいの?」
栞の言葉に顔を上げると、エンリーはうれしそうに笑顔で大きく頷いた。
「あのそれで、よかったら君のアドレスも教えてほしいのだけど」
そういって頭をかきながら少し小さな声で言った。
「いいよ。あっでも私、英語書けないよ。それでもいい?」
「じゃあ、僕も日本語で書くようにするよ、君のようにきれいな字は書けないけど」
栞は自分のペンケースを鞄から取り出すと、中にいれていたメモ帳を一枚破り取ると、そこにローマ字で自分の住所と名前を書き込んで手渡した。
それを嬉しそうに受け取ったエンリーだったが、それ以上に机に置かれた栞のペンケースが気になって仕方がない様子だった。
そのペンケースは母親である碧華の手作りで、昨日完成して貰ったばかりの物だった。中に色々入れる為、市販されているのよりも大きめになっていた。
「あの・・・そのペンケースはどこに売っているのかな?明日、帰国するまで少し時間あるので、ホームステイ先の人が買い物に連れて行ってくれるそうだから、買いたいんだけど、売っている場所を教えてくれないかな」
「これ?」
「うん、その柄は和柄だよね。とても日本的だと思って」
「これ?これは家のママが作ったものだから、オリジナルなの。家のママ、小物作りが趣味で、ペンケースとかリュックとかよく作っては私にもたせたがるんだよね」
栞は自分の持っているペンケースを手にもって眺めながら答えた。
その答えにエンリーは驚いた顔で聞き返した。
「えっ?買ったものじゃないの?」
「うん、でもその反応家のママに言ったら感激しそう。ママ自分の作ったの褒められるの大好きだから」
「本当にそれ、すごくいいね。お母さまの手作りかあ・・・じゃあ買うのは無理だね。欲しかった柄のペンケースのイメージにピッタリだと思ったんだけど」
「そうだ、確か家にもう一つ別の色のがあったはずだからあげようか。家のママ、いつも使わないのに一つ多く作るから」
「えっ?いいの?」
「うん、あっでも、お店に売っているような完成度じゃないと思うけど、それでもいいかな」
「大丈夫。でも本当にいいの?あっでも僕今日で終わりだ・・・あの送ってもらうことは可能かな?」
「いいけど・・・そうだ!確か先生が、今日の放課後、授業が終わったら、エンリーさんの送別会するって言ってたよね。その空き時間の間にママに持ってきてもらえるように電話で聞いてみようか?どうせ今日も帰り、車で迎えにきてもらう予定になってるから」
「ほっ本当ですか?そんなことできますか?迷惑じゃないですか?」
「ついでだから大丈夫だと思うよ。そうだ。そうと決まれば、電話をしてくるね」
栞はそういうと立ち上がり、鞄からテレホンカードを取り出すと、教室を飛び出した。
〈お母さん、一生のお願いがあるんだけど〉
朝の七時半は碧華にとって二度目の朝食を開始する時間である。
いつもはもう少し遅いのだが今朝はいつもより早くに学校に栞を送って行き、帰りも買い物をせずに真っ直ぐ家に戻った為、早い二度目の朝食にありつこうとしていた。
その至福の時を妨害する携帯電話の音が響いた。碧華は携帯電話を持ち耳に当てた。
『どうせまた、忘れものをしたから持ってきてだろうなあ。忙しくなりそうだなあ』
なんて思っていただけに栞からの電話は思いもよらない一言だった。
「何?」
〈あのね、たいしたことじゃないんだけど、あっでもやっぱりダメかな?〉
「何?何か忘れ物でもしたの?」
碧華は電話越しに高いトーンで話てくる栞にたずねた。
ことと次第によっては急いで車に乗り込まないと行けないかもしれないからだ。
〈えっ、違うよ。あのね、また帰ったら詳しく話すけど、ほら、三週間の間、アトラスから留学生が来てるって話したことあったでしょ〉
「ああ~、クラスにイケメン留学生が来てるっていう話?」
〈そうそう、そのエンリーくんがね、私のペンケースをすっごい気にいったみたいで、お母さんの手作りだって言ったら、すごい上手だって褒めてくれたんだ。でっつい同じ物でよかったら家にもう一つあるからお母さんがいいって言ったらあげるって言っちゃったんだけど・・・もう一つ予備あったよね〉
「ペンケースっていうと、昨日あげたのものだよね。あれなら、小さいのだったらあるけど、時間あるんだったら、作ってあげるけど」
〈それがエンリーくん、今日の放課後が最終日なんだ。だから、家にあるのでいいから迎えに来てくれる時持ってきてほしいんだけど〉
「いいけど、ちなみにその子そこにいないの?」
〈いっいるけど〉
「じゃあ何色が好きか聞いて?」
電話越しから興奮しながら話している声が受話器から聞こえてきた。
『あんなペンケースを気に入ってくれるなんてなんだか嬉しいなあ』
碧華は心の中で思った。
〈青だって、どうしてそんなこと聞くの?〉
「聞いただけよ。じゃあ迎えに行く時、忘れないように持って行くわよ」
〈うん、じゃあ頼んだからね。忘れないでね〉
栞はそれだけ言うとすぐ電話を切ってしまった。