第一話 第一章「 キキさん、アルバイトを志す」
一人、パーティのリーダーが帰るのを待ちながら、拠点となる館の管理をしていたキキさん。
しかし、その資金も目減りしていき……。
次善の策として、館の管理費を稼ぐ程度のアルバイトを始めようと考えます。
◇ 第一章 ◇
キキさん、アルバイトを志す
01.
帳簿を見ながら、キキさんはため息をついた。
石造りの大きな部屋の中。六人掛けの円卓に一人。
孤独にはもう慣れたが、頼るべき存在も相談する相手も居ないのは、こういう時にはやはり少し辛い。
帳簿付けの時にだけかける眼鏡を人差し指で押し上げ、腕を組んで背もたれに寄りかかった。天井を見ながら、何となくキキさんは昔のことを思い出していた。
そう。
自分が名を得た時の事を。全てが始まった、あの頃の事を。
……
…………
大気には魂が満ちている。
個々の生物がその身体に宿す小さな魂は、死と共に肉体から離れ、大気に満ちる大きな魂に混ざり合う。
そうして、大気には眼には見えない大きな魂が満ちていく。
その大気に満ちる魂のわずかな一滴が、鳥の羽毛、狼の死骸、捨てられた衣服、ボルゾイ犬の尻尾に吸血鬼の牙などと結びつき、再び身体を持った一つの生命として輪廻した。
そうして彼女は、名前のない「人ならざる者」としてこの世に生まれ出た。
最初、彼女は知性は低く、言葉も解さず、ただ一人とある森の中を彷徨っていた。木陰に隠れ住み、夜な夜な大暴れをして騒音を撒き散らした。
森に足を踏み入れた者に悪夢を見せ、捉えてはその血を啜った。
近隣の人間たちはこれを畏れ、ある日、村に滞在していた一人の冒険者に退治を依頼した。
その冒険者は、未踏の地に分け入り貴重な物品を探索し、時には世に仇なす存在を排除し報酬を得る。そうやって暮らしていた者だった。
冒険者は、彼女を狩りに来た。
しかし冒険者は彼女を攻撃しなかった。
逆に名前を与え、仲間へと誘い入れた。
キキ。
と、冒険者は彼女のことを呼んだ。
遠い記憶である。
しかしその時のことを思い出すと、今でもキキさんは胸の奥が暖かくなる。
冒険者は「これよりキキは私達の仲間である」と言った。そして「私のことはリーダーと呼ぶように」とも言った。
名前を付けてもらったその時。
その時に、わたしは本当に生まれたのだ。
キキさんはそう思っている。
冒険者にとって、キキさんは三人目の仲間だった。
キキさんより先に二人の仲間がいて、後に二人が加入した。
最終的には、リーダーの他、ルサ、ワシリー、キキ、ルギエ、モコの六人のパーティになった。
仲間たちは皆、元々は名前の無い「人ならざる者」たちだった。
リーダーは全員に、名前と仕事と、そして生き甲斐を与えた。
リーダーと仲間たちとの冒険は、キキさんにとって充実した時間になった。
色々な場所へ行った。様々な経験をした。
ダンジョンを探索し、魔物を討ち、キキさんと仲間たちの能力は磨かれていった。そして遂には国をも滅ぼしかねない古龍の復活を阻み、それを倒すに至った。若い肉体に乗り移る事で擬似的な不死を得た、古代から世界の裏側で暗躍していたダークリッチの魂を、水晶の中に封印したこともある。
そんな時間を彼女は仲間たちと過ごし、成長していった。
数多の冒険を経た後、リーダーが異世界に旅立った。それから、もう随分と永い時が経った。
「必ず戻ってくるが、いつになるかは解らない」
リーダーはそう言って、冒険で得た全ての財産をキキさんと仲間たちに残し、自由に生きるよう命じて旅立った。
キキさんは着いて行きたがったが、別の世界を渡り歩く能力はリーダーしか持ち得ない。旅を何よりも愛するリーダーの気持ちを汲んで、彼女は涙ながらに心より尊敬する者を見送った。
リーダーが行った後。
キキさんを除く四人の仲間は、拠点の館を去った。全員、館に篭っているような性格ではなかったのだ。
みんな生まれた時には力弱かった者たちだが、リーダーとの冒険を経て大きく成長し、独り立ちするには十分すぎる能力を養っていた。四人は「旅費は旅先で稼ぐ」と言って、当面の路銀だけを手に、各々旅立っていった。
独り、キキさんだけが館に残った。
自分の性格と能力は館の維持管理に向いているし、いつになるか分からないとはいえ、リーダーの帰還を寂れた無人の館で迎えるわけにはいかないと、キキさんは考えていた。それに、旅に出た仲間たちの帰る場所だって必要だ。
そのような理由で。
キキさんは今、一人で「最果ての森」の奥にある館に住み、リーダーの帰りをひっそりと待っていた。
02.
キキさんがため息をついていた石造りの部屋は、館の中心の「円卓の間」と呼ばれる広間である。
かつてはリーダーと五人の仲間が会議室兼リビングとして使っていた。広い室内には六人掛けの巨大な円卓が置かれ、片側の壁には重々しい木製のキャビネットが設置されている。部屋の奥にはレンガで出来た壁型ペチカが作り付けられていた。
ガラス窓の外が暗くなり始た初冬の夕方。
ペチカの中にうっすら赤く見える薪とレンガに蓄えられた熱が、忍びこむ冷気にだんだんと押し負け始めている。
キキさんは円卓の自分の席に座り、綴じた書類をめくっていた。
その表情は浮かず、彼女は再びため息をこぼした。
キキさんは、20代後半の人間の女性を思わせる見た目で、長身でスレンダーな体型をしている。灰色っぽくも黒っぽくも見える長い髪を、飾り気のないカチューシャでまとめ、さらに背中に垂らした先を色気のないリボンで縛っていた。
特徴的なのはその耳で、髪から突き出すほど長く、その尖った先端は髪と同色の羽毛に覆われている。
レンガ色の厚手のブラウスと紺のロングスカートの上に、肩まで覆う白いエプロンを着用していた。
命知らずにも彼女のスカートの中を覗く不埒者がいたならば、そのふくらはぎには鱗が、踵には鋭い蹴爪が見えただろう。特殊な足型に合わせて作られた、専用のスリッパも履いていた。
館の家政。それも掃除から帳簿管理まで全てをこなすキキさんの、それは仕事着だった。
彼女は浮かない顔で、一度手元の書類から目を離した。円卓の正面に置かれた一際立派な椅子を見る。かつてそこに座っていたリーダーは、しかし今はもう、居ない。
表情を引き締めもう一度視線を下げ、書類の数字を指でなぞった。
家計簿に記された数字は、資産が目減りしていることを無情に示していた。
リーダーが去った後、キキさんは館の完全な維持管理を最優先として動いてきた。財産はかなりの量が残されていたし、今までは外に出て金を稼ぐ必要がなかった。
しかし大きな館である。維持にかかる費用はゼロではない。洗剤一つ取っても、無料では手には入らないのだ。
無駄遣いをしてきたつもりはなかったが、それでも独り暮らしの無聊を慰めるために、趣味の機織りに使う糸や、酒を始めとした嗜好品を購入することもあった。
館の維持費用は、少しづつ、少しづつ、夜の闇の中でしんしんと降る雪のように積もっていった。
そして目覚めた時に風景を真っ白に染めている初雪のごとく、突如としてキキさんの目に映ったのだった。
もちろん、しっかり者のキキさんに管理されている家計簿である。すぐに金に困るという段階に来ているわけではない。
だが、リーダーの帰りがいつになるか分からない以上、これは手を拱いているべき問題ではなかった。
万が一、リーダーが帰った時、資金が尽きて館の維持管理がままならない状態になっていたら……。
そんな考えがキキさんの頭をよぎる。
資金管理の失敗。
それはキキさんにとって耐えられない大失態だ。
一つ頭を振って嫌な想像を振り払うと、キキさんは家計簿を閉じ、席を立ってキャビネットに戻した。
掃除は既に終わっており、円卓の間はチリひとつ無いほど掃き清められている。彼女は静かにドアの前まで行くと振り向き、円卓のマスターの席に向かって一礼をしてから、完璧な作法を守って部屋から退出した。
ドアが閉められた一瞬の後。誰もいなくなった円卓の間に、錠を下ろす音が重々しく響き渡った。
03.
キキさんは仕事と私事をきっちりと分けるタイプである。例え館に一人で住んでいても、仕事中は独り言すら丁寧なですます調になる。そんなキキさんがスイッチを完全にオフにする場所の一つが彼女の私室だった。
現在、殆どの部屋が使われずにいる広い館の中で、そこは唯一生活感のある空間である。
部屋の三分の一を占める、書見のための机と巨大な本棚。残りのスペースには、趣味である機織りや服飾のために使う織り機や作業台、機材。
隅には多くの布や衣服が収められた行李が積まれ、服や靴を作成する際に使用する木型がいくつも並べられていた。
机の脇に置かれた金属製の重厚な金庫が、書籍と服飾の道具の中で、やや異色な空気を醸し出している。
まったくそこは、完全にキキさんのための部屋だった。
少し雑然としているが、物の多さを考えるとむしろよく整頓されている。
片付いている状況を好みながらも、ちょっとした収集癖のあるキキさんの性格をよく表していた。
奥にさらに一部屋あり、そこはベッドとクローゼットが置かれた寝室となっている。
仕事中は常に身に付けているマスターキーを金庫へとしまい、キキさんは寝室に入っていった。リーダーから管理を任されたこのキーは、キキさんにとっては誇らしい物の一つだった。
寝室で、仕事着であるエプロンやブラウスを脱ぎ、たたみ始める。
「まったく、ままならないな」
ハスキーな声で、彼女は呟いた。仕事中の丁寧な喋り方ではない。
「リーダーが帰るまでは館の管理だけしていたかったが、仕方がない。次善の策を取るしか無いか」
綺麗に折りたたまれた衣服を、洗濯物のカゴに入れると、半裸のままクローゼットを開ける。
スカートも脱いでいるため、ボルゾイ犬のような長い尻尾があらわになっていた。
クローゼットいっぱいに並んだ衣服の殆どは、キキさんが自分で作ったものだ。その中から「カジュアルな外行き」として自作した白のブラウスとシックな色調のスカートを出した。
着替えながら、彼女はまたひとりごちた。
「あのマスターなら、アルバイトの口くらいは教えてくれるだろうさ」
館の維持管理作業に支障を来さない程度のアルバイトで、管理費を稼ぐ。
それがキキさんが考えた「次善の策」だった。
04.
焦げ茶の皮のロングコートを羽織って、キキさんは館の外に出た。
冬の白い森の風景が目に入る。吹き付ける風は冷たい。
数週間前から降り始めた雪は、溶けつ積もりつを繰り返した末に根雪となって、館を森を、白く飾っていた。冬至にはまだ何日もあるが、しかし日が落ちるのは早くなっている。
仕事を終えてからまだ間もない時間であるにも関わらず、既に空は暗く、地表近くに赤紫の残光を残すのみとなっている。とはいえ雪の反射があるため、夜空は夏の頃より白っぽく、明るい。
針葉樹が立ち並ぶ、最果ての森と呼ばれる大森林の奥に、彼女たちの館は建っていた。
もしも迷い人がこの館にたどり着いたら、きっと無人だと思うだろう。荒れてはいないようだが、こんな人里離れた場所に住んでいる者のあるわけがない、と。
キキさんは館のドアを施錠し、鍵は小さなハンドバッグに入れた。
雪が積もった郵便受けを開けて、律儀に中を確認する。もう三十年(キキさんの時間感覚を人間のそれに当てはめても三年程度の長さにはなる)も配達物など来ていないが、キキさんはどんな仕事も疎かにしない。
こうして外出の支度を全て終えると、キキさんは前庭を渡り、館の周りにぐるりと植え巡らされた低木の垣根を越える。
「外」へと出てから、彼女は息を吸い、目を閉じた。
魔術を使うため、精神を集中させていく。
闇が、質量を持って自らの身体を包み込む、そんなイメージを思い浮かべる。闇には形があり、それはまるで大きな一対の翼のようだ。
魔力が、キキさんの意思に従い顕現する。
いつの間にか、巨大な二対四枚の黒翼が彼女を包んでいた。
輪郭のぼやけた闇の翼は、羽ばたきながら黒の粒子を撒き散らし、ゆっくり空へと舞い上がる。ある程度まで上空に行くと、次の瞬間に翼はその姿を鋭い三角型へと変え、キキさんは普通の人間の目では追えないほどの速度で飛び去っていった。
キキさんが姿を消した後。辺りはまるで何もなかったかのように静かで、やがてまた雪が降り始めた。
次回は、2019/04/19(金)の夜の投稿を予定しています。