8.理解をされない
逆に、母親は、子供の心の機微を全く考えられない、人だった。
幼い頃、私は、母親に自らの気持ちを解ってもらえた記憶がない。今考えても、私は、母親に好かれようと頑張っていたのだが、全て、無駄に終わり、幼稚園に上がる頃には、私は、母に自らの気持ちを解ってもらうことを諦めていたように思う。
……母親は、料理が本当に駄目な人だった。私は、おいしい卵焼きが食べたくて、自分で卵焼きの練習をした。技術を上げたくて、キャベツの千切りから始めた。
あの頃の生活は、よく思い出せない。私の中にある記憶は、感情が伴わないものか、ほぼ記憶がなくなっているかのどちらかだ。ひどく、薄い紙のような記憶。
私は、母親の為に一生懸命母を庇ったが、母には一切伝わらず、一生懸命、いい子であったが、母には逆に怒られてばかりだった。しかも、予想外の方向から怒られてばかりだった。
ヒステリックな母は、……単純な話、夫からのストレスを子供たちに向けて。
母や父に怒られぬように、毎日はひどく緊張を強いられるものだったように思う。
私には年の近いきょうだいがいるが、皆、性格が違う。
彼らとは、よく、すさまじい喧嘩をした。
一度、母は、私たちの喧嘩を目にして、包丁を取り出して、これで出来るならやりなさいと言われたことがある。
それを見た時、私と彼は喧嘩を止めたが、……あの時の母親は何を考えていたのか。
野良猫を見つけた母の状態はあり得ないほどで、
……ここに書けない。
……書けないことばかりだ。
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父親と母親がそうだった理由を、私たち子どもは理解していなければならなかった。
父親も母親も必死だったことを理解していなければならなかった。
支配的なものが変に漂う世界で、それでも、父親と母親は、一生懸命なのだと私たち子どもは理解していなければならなかった。
口を開けば金銭的価値をちらつかせる父親がヒステリックで無理解な母親が、本当には愛情深くて優しいのだと思い込まなければならなかった。
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母は、年の近い幼子を世話する一方で、仕事と義理の両親の介護の上、毎日の夫の暴言に耐えている日々であったし、
父親は父親で、仕事の重圧があった。
それらを子供たちは理解し、ある意味で、”両親に自分たちが理解されることを諦めた”のだと思う。
子供たちは、……私以外、大人になって、父や母から距離を置いた。