記憶がない人の話
気付けばいつもここにいる。古びた机と椅子が自分の前にあって、その前には黒板があって。いつも私以外誰もいない。でも目がさめるといつも、コツッコツッっと足音が聞こえてくる。私は急いで椅子に座る。あの人が入ってくる。あの人は、食事を乗せたトレーを運んでくる。それを渡すと、サッと消える。私は急いでそれを食べる。食事といっても、白ご飯と漬物だけの、シンプルなもの。私が食べ終わったのを確認すると、食器をトレーに乗せて帰る。足音が聞こえなくなってから、何もすることがなくぼうっとしていると、いつのまにか目の前が真っ暗になる。そして、また同じことを繰り返す。
自分が誰かもわからない。なぜここにいるのか、あの人は誰なのか、ここはどこなのか、全くわからない。それが悔しくて、1度だけ、あの人に訊ねた。すると、無言で何度も何度も叩かれた。頰が腫れて、食事が入らないくらい。でも、食べないとあの人は帰らないし、また叩かれてしまう。だから、急いで食べる。味もわからない。それでも、ここにいれば、食事はもらえるし、部屋は暑くも寒くもなく快適で、部屋は広くも狭くもないから、まさに理想の場所だ。ただ、部屋に誰もいないこと、何もないから暇であることだけが唯一の不満だ。
そんな生活を何度繰り返したのかわからないくらい経ったある日。いきなり、あの人が入ってきた。そして、私の手を引いて部屋から出た。ずっと、この部屋を出てはいけないと思っていたから、まさか出れるとか考えていなかった。もっと早く出ればよかったと思った。でも、私は部屋を出た瞬間から、息ができなくなった。その様子を見て、あの人はこう言った。
「まだ死ぬわけにはいかないんだ。」
初めはその言葉の意味が全くわからなかった。でもあの人が、私に向かって剣を突き刺すほんの数秒前、すべてを思い出した。
ああ、そうだ。私とあの人は、以前恋人同士だったんだ。だが、結婚を親に反対され、2人で家を抜け出し、遠い場所で家を建てた。娘と息子も授かり、幸せな毎日を送っていた。だが、その地域の近くに熊が出た。あの人は狩りに出かけていたから、私は子どもを連れて、急いで逃げた。家を出た瞬間、熊が何かを引きちぎる、嫌な音が聞こえた。私は聞こえないふりをした。本当は、熊が出ることを知っていた上であの人に狩りに行かせたからだ。もうあの人との生活に耐えられなかった。でも、そう上手くはいかなかった。新しい場所で母子3人、仲良くやっていくつもりだった。だが、子どもはすぐに、流行していた病気にかかり、亡くなってしまった。生きる意味も見出せなくなった私は、死んだのだ。
あの人は、まだそのことを根に持っているのだろう。でも、この生活は何度続ければいいのだろう。次、また目を覚ました時、私は全てを忘れているだろう。だから、これが私があの人にできる、唯一の慰めかもしれない。そう思い、心臓から流れ出る血を見つめる。目の前がまた、真っ暗になる。
こんにちは。
ちょっとホラー?ものに挑戦してみました!
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