58 暴力
目の前にいる人は、さっきのお母さんとは違った。
夢にも出てくる真っ赤な口紅をつけた、あのお母さんだ。
化粧品のキツい匂いがして、さっきまで浮いて見えた真っ赤なマニキュアも、なんの違和感もない。
「ま、あんたが私の言うことに逆らえる訳ないわよね」
後ずさろうとすると、腕を掴まれ、部屋の中に倒された。
「あー、もう、大変だったのよ。あんたのせいであたしの人生はめちゃくちゃ。
逮捕されるわ、裁判にかけられるわ、アル中の病院に入れられるわ、ほんっと、サンザンだったわよ」
上から見下ろされる。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
何がなんだか訳が分からない。
そんな私を見て、お母さんはぷっと吹き出した。
「なあに? その顔。まさかさっきの、信じちゃってくれたのー? あんたも?
マジで?」
きゃははははっと笑い声が響く。
隣の部屋でガタガタッと物音がして、襖がガラリと開いた。
「おい、もういいんだろ? 出て。お。この子が娘? わお、かっわいいじゃん」
上半身裸の男がニヤけながら奥の部屋から出て来た。
襖の向こうにゴミの山が見える。
「あの田島って女は、いいとこに育ったお嬢様みたいだから、騙すのもイチコロだったんだけどさあ。あんたは違うでしょ。
今まで散々あたしにあーんな目に遭っといてなんで信じてんの?
バっカじゃないの?」
「おいおい、そりゃねーだろ。
さっきのお前、超ウケたぜ。迫真の演技だったじゃん。
俺、笑いをこらえるのに必死だったんですけど」
「でしょお? 部屋も掃除してさあ。って、こっちの部屋に寄せただけだけど。
化粧も落として。がんばったでしょ?
なに? ホントに改心して良いお母さんになったとでも思ったの?
あは、残念ッ」
「おい、あんま酷いこと言うと、泣いちゃうぜ」
「うっさいわね、こいつは何したって泣きゃしないわよ。
あんたはあっち行ってて。あたしはこいつと話があんだから」
「・・っ」
ぐいっと前髪を引っ張られ、顔を上げさせられる。
「可愛くなっちゃって、ムカつくわー。マジで。
あたしが病院でワビシイ生活してる間、 男なんか作ってぬくぬくしてたなんて、
許せないってーの!」
バシっと頬を叩かれる。
「あんたのせいで、マジでウザかったのよね、あの田島。
ぶん殴ってやりたかったわ。でもそしたらあんたに会えなくなっちゃうでしょ?
だから我慢してたのよ。偉いでしょ、おかーさん」
あはは、と笑う声。
また一発、次はお腹に重い衝撃。
「あんたに会ったらどーしてやろうか、ずっとずっとそればっかり考えてたの。
もうそれだけがあたしの楽しみでさあ。
また逃げられちゃ大変だから、今度は絶対に逃がさないわよ」
目の前に紙が突き付けられる。
「あたしもう警察はこりごりだから、合法的に行くにはやっぱ、本人の意思表示のサインがいると思うのよね。
まずは里親ってやつを解消して、あたしの娘に戻りなさい。そうすりゃこっちのもんだし。なにしたって、あたしの自由よ。あんたはあたしのモノなんだから」
ぺらぺらと早口で喋る母が何を言ってるのか理解できない。
さっき顔を殴られてから口の中が痛い。
口に手をやると、手がどろりと真っ赤に染まった。
「あ・・」
指輪が。ユウに貰った大事な指輪が血で汚れた。とっさに右手の袖口で拭く。
「あーん? ガキが色気づいて生意気に指輪なんてしてんじゃないわよ」
上から手が伸びて、私の指からぬるりと指輪が抜き取られた。
「か、返してっ」私は叫んだ。
ユウに、ユウにもらった大事な指輪なのに!
「なによ。こんなの。五百円くらいの安物でしょ、バカじゃないの?
血でドロドロ。きったなーい」
ぽいっと床に投げ捨てられた指輪。
それを追って手を伸ばすと、ドンっと横腹に激痛が走る。
指輪を握り締め、横向きに転がると、容赦なく何度も蹴りが浴びせられた。
「何よっ、あんたなんかっ、クズのくせにっ。
そんな指輪ぐらいで幸せになんかなれるわけないのに、バッカじゃないの。
ちょっと、シュウ、あっち行ってろって言ってるでしょお!」
体が痛い。
畑仕事や山でも、切ったり擦ったりはしょっちゅうだけど、そんなものとは比にならない痛み。
「そんなつれないこと言うなって。ちょっとオレにもやらせろよ」
いきなり男に抱き寄せられ、私は身を捩った。
「い、いやあ!」
「うっわ、その声ソソる。ちょっと別のこともヤらせて欲しくなるなー」
「バカなこと言ってるとあんたも刺すわよ、シュウ! こいつに触らないで!
こいつをいたぶっていいのはあたしだけよ! 離しなさいよ!」
カチカチカチと背中で聞こえる音。聞き覚えのある音。
「ねえ、前の背中のタトゥーはまだある? 新しく書きかえてあげよっか。
あっはははははっ」
「えー? お前そんなヒドいことしてんの? どれどれ? 見せてよー」
布が破れる音と、笑い声。
狂ってる。 逃げないと。逃げないと、殺される。
でも体はガタガタ震えるばかりで、男の腕から逃げ出せない。
喉が言葉を出すことを忘れてしまったように声が出て来ない。いつものように。
手に握り締めると、固い物を感じる。ユウの指輪!
ユウ。ユウ。ユウ・・!
「いやっ、やめて。やめてっ!」
私は声を振り絞った。
「やめて、おかあさんっ!!」
男の手が私の口を塞ぐ。
「うるせえなあ。気絶させちまう? あ、でもその前に。殴るばっかりじゃあ、もったいねーよなあ」
苦しくて私はもがいた。
男の手が私の体を這い、嫌悪感に震える。
「やめろっ!! 離せっ、早く離せっ! あたしのものに触るなあ!」
すごい剣幕で母が叫び、突然男の手が振り払われ、私は床に崩れた。
「なんだよ、わけわかんねえ女だな」
「いいから、出てって。早く。出て行きなさいよっ!!」
「あんだよ! 勝手にしろよ!」
バンっと乱暴にドアがして、部屋は静まり返った。
私は、浅く呼吸を漏らし、指輪をキツく握り締める。
顔を上げると、カッターを握り締めたまま立っているお母さんがいた。
その目は真っすぐ私を見ているようで、焦点が合ってないようにも見える。