56 再会
チャイムは壊れていて鳴らなかった。
田島さんはドアをドンドン、と叩いて呼びかける。
「橋本さん、いらっしゃいますか?」
中から、何か物音が聞こえた。
「・・はい、どうぞ」
女の人の声がして、田島さんはドアを開けた。
一歩、二歩、ユウの後ろにくっつきながら玄関に入る。
玄関は狭いので三人立ったらもういっぱいだ。すぐ部屋になっている。
入った途端に鼻に付く、化粧品のような消臭剤のような、独特の香り。
どこか記憶にある、この匂い。
でも、目に入るのは違和感だらけの部屋。私はもっと乱雑に汚れていたところしか見たことがない。
こんな、綺麗に片付いていると、 他人の部屋のようだ。
「愛美! 愛美なの?」
聞いたことのある、お母さんの声に、全身がビクリと痙攣する。
顔を上げることができずに俯いていたら、目の前に立つ人がしゃがんで、私の顔にそっと手で触れた。
「ああ、本当に愛美だわ。嘘みたい。三年でこんなに大きくなるなんて」
私はただ硬直するばかりで何も言えなかった。
これが、お母さん?
目の前の人が、お母さん?
「本当に、ごめんね、愛美。辛い目に合わせて。
もう安心してね、お母さん、 お酒も飲んでないから」
お母さんは、こんな風にしゃべるんだっけ? こんな風に優しく笑うんだっけ?
記憶にあるお母さんとは違い過ぎていて、頭がついて行かない。
そっと視線を上げて、顔を、見てみる。
ああ、そうだ。いつもお母さんは真っ赤な濃い口紅をして、目には紫のアイシャドウが塗られてた。
今は、化粧をしていないんだとわかる。
くたびれたTシャツに色あせたGパン。
・・お母さんはこんなひとだったんだ。
「どうぞ、上がって。狭いところだけど」
小さなテーブルを挟んで私達は向かい合って座った。
私は田島さんとユウくんの後ろに隠れるように腰を下ろす。
お母さんは田島さんに最近の生活のことなどを色々話した。
仕事も見つけて、 ようやく落ち着いて生活できそうだと。
これも色々心配してくれた田島さんのおかげだと笑って言った。
「あの、愛美と話したいので、いいでしょうか」
おずおずとお母さんは上目使いにそう言う。
「失礼ですけど、まだ二人きりにはできません。僕らには構わずお話ししてください。・・マナ? 話せる? 大丈夫?」
ユウがにっこりほほ笑んでそう返した。 最後は私だけにささやくように。
私はぎこちなく頷いて、ユウくんの後ろから前に身体を移動させる。
それに焦れたようにお母さんは素早く身を乗り出し、私の手を取った。
「本当に、うれしいわ、愛美。ずっと会いたかったの。本当に本当に、ごめんね。
お母さんが悪かったの。ごめんね」
悲しそうに眉を寄せる姿。
ずっと、夢に見ていたあの恐ろしいお母さんはもういないんだ。
やっと、もとの優しいお母さんに戻ってくれたんだ。
やっと、やっと、私もあの悪夢から解放されるんだ。
じんわりと、喜びが心を満たして行く。
「・・お、おかあさん」
「ああ、愛美。また私をお母さんって呼んでくれるのね。嬉しい」
肩を奮わせ、目を両手で覆う。
その爪は不自然なくらい綺麗な赤のマニキュアが塗られている。
でもそれは昔から見慣れていたものだったので何も思わなかった。
「・・ちょっと、ごめんなさい」
お母さんは急に立ち上がり、襖の向こうの奥に行ってしまった。
田島さんは私の横に座り、優しい表情でぽんぽんと私の肩を叩いた。
すぐにお母さんはハンカチで目を押さえながら戻ってきた。
田島さんは腕時計をちらりと見て、そろそろ失礼します、と腰を上げる。
「ええ? もう帰るんですか? ま、愛美とはまた、会えるんですよね?」
お母さんは慌てて田島さんに詰め寄る。
「ええ。今日はまだ初日ですし、愛美ちゃんも突然のことで精神的に混乱しているでしょう。少し、時間をあげてください。
また、定期的に会う機会を設けたいと思っています」
「愛美。会いに来てね。絶対よ」
お母さんは私の手をギュッと握った。かさりと手に当たる紙のような感触。
お母さんの目は真っすぐに私だけをじっと見ている。
さっきまでの優しい目の奥にギラリと何か光るものが見えた。
・・それを誰にも見せるな、そう声が聞こえた気がした。
私はそのまま紙を握り締め、ペコリと頭を下げ、お母さんのアパートを後にした。