5 小野木さんの家庭
「家は、わりと仲の良いごく普通の家庭だったんだ。
僕が小学校のころまではね。僕が中学に入学してすぐに、父は遠くの他県に転勤して単身赴任することになって・・・」
小野木さんの声はとても落ち着いていた。
視線をどこに向けていいのか分からなくて、私は繋がれている手を見つめながら話を聞いている。
「母は寂しそうだったけど、平日は二、三日に一度は父からメールや電話があったし、週末には家族揃って食事をして。そんな暮らしがしばらく続いてた。
でも、一年くらい経つと、電話もメールもぐんと減って、父は週末も帰って来ないようになった。
僕はただ単に、面倒臭くなったんだなくらいにしか思っていなかったけど」
窓際に座っている彼は、話しながら外の景色に視線を向ける。
私はそんな彼の横顔をそっと見た。
「父は赴任先で浮気していたんだ。それを知った母はショックで放心状態だった。
最初は父を憎んだね。どうして母をこんなに悲しませるんだって。
でも、母はそれからだんだん、おかしくなった」
そこで言葉が詰まり、小野木さんは繋いでいない方の手で自分の顔を覆った。
「母は、何度も何度も父の名を呼び、罵り、酷い暴言を吐いた。
父はいないから、目の前にいる僕に。
次第に、母には父と僕の区別がつかなくなっていたみたいで・・・。
酷い毎日だったよ。
僕も、精神的に参ってしまって。ある日、衝動的にあの屋上から飛び降りたんだ」
私は息をのんだ。飛び降りは痛いなんて言っていたけどまさか本当だったなんて。
彼はため息交じりに続ける。
「でも死ねなかった。たまたま下を引っ越しのトラックが通ってね、幌の張った荷台に落ちた。漫画みたいだよね。
目が覚めたら病室のベッドで、指一本動かしても体が引き裂かれそうなくらいの激痛だった。
ベッド脇では母がずっと泣いてて。
看病してくれる間は、以前の優しい母に戻ったようで、 入院している間は束の間の平穏な一時だったよ。だからこのまま家を出ようと思って、高校は全寮制の学校に行きたいって言ったんだ。家に帰ってすぐに。
そしたら母は発狂した。
・・・逃げたけど、後ろから押し倒されて包丁で背中をガッと。
ああ、ごめん。想像すると痛いよね。ごめん。大丈夫だったから」
聞いているだけで自分の背中の傷がずぐりと痛んだ気がした。
私はひどい顔をしていたようで、小野木さんは慌てて、ごめんごめんと謝った。
「い、いえ。だ、だいじょうぶです」
「その後、母も我に返って救急車を呼んでくれたから、ちゃんと助かったしね。
母はそれ以来、精神を病んでしまって施設に入ってる。
今は家に父と暮らしてるんだけど、上手くいってなくて。衝突してばかりなんだ。だから家を出ようってずっと思ってたんだよ」
そう言って小野木さんはにっこり笑う。
どうして笑えるんだろう。そんな、悲しい思い出を。
「あ、ほら、 海が見えるよ。見てごらん」
彼が指さす先には、何年ぶりかに見る海が広がっていた。
雲も少なくよく晴れた水色の空と青い海。とてもきれいな風景だ。
それでも私の頭の中には、小野木さんの話がぐるぐる回っていた。
私とは違うけど、母親に責められて傷つけられて・・すごく辛かっただろう。
胸が締め付けられるように痛い。
でもなんて言っていいかわからなくて、何も言えない。
「ごめんね、暗い話をして」
小野木さんは悲しそうな顔で少し笑って、私の頭をぽんぽん撫でた。
外の景色はずっときれいな海が続いている。
こんな風に電車に乗ってどこかに行く日が来るなんて、 考えもしなかった。
ずっと、あの家と学校とを繰り返すばかりの毎日。
あれがずっとずっと永遠に続くものだと思っていたのに。