『エロイムエッサイム、我は求め訴えたり』
エロイムエッサイム、我は求め訴えたり
prologue ―― the world of Grand-Grimoire
「はい次、出席番号十二番!」
年増教師の神経質な甲高い声が、がらんとした実習館に響き渡る。
十二とは私の番号だ。生徒数は年々減る一方で、このクラスは私が最後尾になる。
私は彼女の前へ躍り出て、出席番号と名前を宣言する。本日の実習は、氷の魔法を用いて、バケツ内に張られた水を完全に凍り付かせれば成功という、至極簡単なものだ。
見ていなさいオババ。こんな、手習い前の子でも遊びでやっている実習なんて、
「我は求め訴えたり! 氷雪のこんこんぎつね、舞え!!」
詠唱とともに、私は右腕を掲げ、人差し指をバケツへと指し示した。すると、白い雪化粧を纏った狐が二匹、私に寄り添い、まるでじゃれる様に現れた。
辺りから感嘆の声が上がる。件の教師は、帳簿を持ったまま鋭い眼差しを逸らさない。
白の狐達は舞い、思惑通りバケツを凍て付かせ、水を凍らせ始めた。
ふふ、どう、今回は完璧でしょ。いつも実習になると失敗して、笑われて、落第生のレッテルを貼られて、本当は悔しかったのよ。筆記は完璧なのに。
でも、名を冠した者の召喚はとても契約が難しく、プロじゃないとまず無理で、まだ学生の私には、こうやって自然の象徴ぐらいしか呼び出せない。
一同黙って見ていると、二匹の狐達は誤ってバケツをひっくり返し、驚いて慌てて逃げ去り、後にはバケツを帽子にした雪だるまが出来上がっていた。失敗である。
「えぇぇぇ……」うな垂れる私と沸き起こる忍び笑い。
「はぁ、十二番また失格と」教師も呆れ気味に、帳簿へと羽ペンで記載していた。
もちろん、解散時に私だけ残され、先生のところへ放課後来る様にと言い付けられた。
と、そんな感じで今日も今日とて、小言、繰言を遅くまで並べ立てられ、心身ともに疲労困憊で実習試験は幕を閉じたのだった。
魔法学校からの帰り道、私は愛用の錫杖に横座りしながら、上下左右ひょろひょろと飛び、突き付けられた成績に打ちひしがれ、思い倦ねいていた。
どうして上手くいかないんだろう。お姉ちゃん二人は、もうとっくに魔女になって活躍しているというのに、私は、ずっとダメな子のままなのかなぁ……。
もう十六になるのに、召喚魔をまだ一つも使役出来ないなんて、ちょっと、自信失くしちゃう。私には、召喚士が向いてないのかもしれない。はぁ、やめちゃおっか――
「ぬわぁっ」
余計なことを考えていたら、前方の大きな樹に気付かず、ぶつかって錫杖から落ちた。
草の匂いを孕んだ風がざあっと吹き抜け、私の背まである長めの髪を靡く。夕暮れに染まる大樹の下で、頭の後ろに腕を回して枕にし、揺れる梢の中へ何気なく視線を注ぐ。
私らしくもないな、追試くらい、何百回でも挑戦してやるんだから。それにしても、魔法の源でもある大樹さんは今日も元気なのに、私の召喚はホント成功しないのよね。
学校を卒業して、早くプロ召喚になって、お姉ちゃん達と一緒に肩を並べたいな。
プロの魔道士は魔女と称号が変わり、会得したスキルに見合った役職が宛がわれ、基本的な生産、輸送、経営、開発、建築、解体、修理、救護に留まらず、治安維持、防衛任務、人間界の観測や警護、脅威である魔界の偵察や監視、等々を主にして生業となる。
召喚士は、幻魔、妖精、精霊、冠名の召喚と、徐々にレベルを上げては契約していく。
私だって、精霊までは一通り契約出来てるんだけどなぁ……現われやしない……。
その時私は、「あれ?」と、目をぱちくりぱちくり瞬かせる。
陽が沈み、暗がりに染まっていく梢の中を見ていて、私の中で妙な違和感が芽生えた。
そうだ。いつも鬱陶しいくらい枝葉から出ている、ダイヤモンドダストの様な魔力塵が、今は随分と少なくなっている気がする。
だとしたら、私の召喚魔法が成功しないのもこれの影響?
「まさかね……」
呟きとほぼ同時に、一番上の姉(おねぇ)から、ピアス型通信珠に呼び出しが掛かる。
このアイテムは、通信珠通しの会話だけでなく、相手や登録メンバーの居場所も探知することが出来る。詮索されたくなければ、待機魔力を全面カットしておくと、ピアスやイヤリング、コームやブローチといった、ただの装飾品へと成り下がる。
私はピアスを指先で触れ、意識を集中すると、急いた姉の声が頭の中で連結された。
話を聞けば、何やら三姉妹緊急召集らしい。よく分からないけれど、早く帰った方が良さそうなことは確かだ。二番目の姉(あねぇ)も、もう帰宅しているとのこと。
用件が終わったのか通信が切られ、私は大きな根っこの近くまで趣き、転がっていた錫杖を拾い上げた。さっきと同じ方法で横座り、自宅へ向かって飛翔する。
跨っても良いのだけど、あれは、女の子の部分が痛くなるし、私は好きじゃない。
高度を上げつつ俯瞰すると、大樹周りに作られた私達の町が一望出来た。南にある木造りの小さな魔法学校を後目に、樹木の密度は低いけど葉は生い茂っている森を越える。
色々な植物達が発する青い香りや、夜の帳が下りるのを感じさせる沈んだ空気が、吹き付ける風と混じり合って鼻腔をくすぐった。
毎日通っている空の道なのに、私は楽しくなってきて、急降下、小橋が掛かる水路の上を滑る様に高速で飛行し、セピアに彩られた水飛沫を立ててはまた空へと舞い上がる。
一息吐いて地平線を望み、橙色と紫色と黒色のグラデーションの艶やかさを目に映しながら、乱れた髪をさらりと掬い上げた。満足したので帰路に就く。
ほんのり明かりが灯った、我が家前で錫杖を降りる。門を開けて、石畳が敷かれた庭を通り、両開きの扉を開けると、姉二人が揃って出迎えてくれた。
「おかえりなさい」「おかえ」
長女二十五歳。おねぇは黒魔道士をやっていて、眠らずとも魔力が自然回復するという黒紫の衣装を纏う。彼女は指先一つで、火土水風氷雷闇を何も無いところからでも発動させることが出来る、かなり高位の魔女の優しいお姉ちゃん。大好き。
次女二十二歳。あねぇは白魔道士で、赤い縁取りの白衣装を纏う、光に特化した存在。治癒、治療、再生、修繕を得意とする。しかし、取り繕った外面とは裏腹に、内面はとても冷徹で、取捨選択厳しく、完璧主義の怖いお姉ちゃん。近寄り難い。
あねぇは容姿端麗だけれど、もし襲おうものなら、殿方の秘法は一夜にして粉砕されることは間違いない。彼女を形容すると、〝次女に鈍器〟〝次女が歩けば棒も伏せる〟〝次女に右腕を上げさせるな〟〝俺は人間をやめるぞジジョォォォォォ〟など。
おねぇがこちらへ歩み寄り、帰って来て早々、話す間も無く赤い紙を手渡される。
「ただいまぁって、えと、これは?」
私が紙をひらひらさせつつ訊くと、傍らからあねぇも同じ赤い紙を示した。
「婆ちゃんから、人間界への派遣が命ぜられたのよ」
「お婆ちゃんが? どうして?」
私達のお婆ちゃんは魔法世界の長で、全盛期に様々な魔法を習得し、前線を退いてからは、後世の若い魔道士へ見聞を広めて過ごしている。おねぇが口を開く。
「あなたも薄々気付いているでしょう? 最近この世界の魔法力が弱くなって、あらゆる魔法の効力が落ちているということを」
「あ、そうそう、やっぱり大樹さんと関係があるの?」
打ち頷き、続けて話してくれる。
大樹が生む魔力は、人間の感情や心情と感応して生まれるのだけど、近頃人間界で無感情な者が急増しているらしい。それで魔力生成が弱くなっているのだと言う。
あねぇが唇を噛みがちに、
「原因は、分かってる。魔法世界に反旗を翻した魔道士がいるの」
「えっ、裏切ったってこと? 誰が何のために?」
「通称、青い魔女。コイツが、人間界で暴れてるのよ。私も一度組んだことがあるけど、すぐ身内を作って動きたがるから、すごくやり難い相手だったわ。何より厄介なのは、今回コイツの側近に、赤い魔女がいるってこと」
「青と赤の魔女……」私は相槌を打ちながら、学校で習ったことを思い返す。
青い魔女は、怪物や化物を魔力で造り出して使役し、尚かつ自らの身に魔物の力の断片を宿し、行使することも出来るタイプ。
赤い魔女は、魔法力を相手に送り込むことを得意とし、プラスの魔法力なら、魔力回復や身体能力の強化がなされ、マイナスの魔法力なら、足止めや抵抗力低下など弱らせることも出来ると先生は言っていた。
難関な魔女クラスにまで上り詰めていて、どうして突然こんな騒動を……。
「お前達、揃ってるね?」
奥から、お婆ちゃんの嗄れた声が聞こえた。こつん、こつんと年季の入った杖を突きながら、のっそり姿を現す。白髪頭で腰が曲がり、真っ黒なローブに身を包んだ、いかにも大魔女らしい風貌をしている。私達の前までやって来て、
「ありがとう、よく集まってくれた。今回の事件、概要は聞いているね?」
こちらに目配せ、「はい」と姉達、私も一つ頷いて答えた。
「うむ。青い魔女はな、鍵を複製して門を開き、掟を破って人間界へ侵入した。そればかりか、あちらの人間とも接触したのだ。それも一人や二人ではない。
ヤツの特性は知っていよう。魔物の持っていたアキュムレーションを宿していてな、あらゆる者から心を奪っては集積し、自らの魔力へと変換して蓄えておる。
こちらの世界の魔法力が小さくなり、大樹が弱っているのもそれが原因だよ。まぁ、いずれ私の元へ戻り、仕返しに来るだろうね。破門した張本人なのだからな。
それにしても、術が効かず歯向かった人間には魔法生物を当て付ける始末で、今や人間界は、たった一人の魔女の手によって危機的状況に晒されているのだ。
この事態を収束すべく、大魔女の家系が第一線で向かわねばならんのだが、私は耄碌した、娘夫婦には要となる役職がある。勤めをほっぽり出して、おいそれと籍を外す訳にもいかん。魔界への防壁を解くことにも繋がるからね。
そこで、お前達三姉妹には急遽人間界へ向かって欲しいのだ」
それぞれが持つ赤い紙を、枯れ枝の様な指でちょいちょいと指し示した。
「その護符が、向こうへ転移するための特製アイテムだ。三人力を合わせての魔女討伐、複製された鍵の破壊。そして、人間に心を、大樹に魔法力を取り戻してやってくれ。
以上が、今回の指令だよ。成功した暁には、大樹から削り出された神器を授けよう」
「分かりました」おねぇが楚々とした返事をする。
お婆ちゃんが目玉を剥き、「カアァッ」と手の平を翳すと、例の赤紙がぼんやりと光り共鳴し始め、床に描かれた六芒星と七惑星が私達を包み込んだ。隣であねぇが叫ぶ。
「婆ちゃん! まだ出発の準備が! それにまだ夜だし、明日の朝にでも! ああっ!!」
「えっ!?」私の視界は暗中に閉ざされ、音も人の気配も途絶えた。
着の身着のまま、慕う姉が一緒とはいえ、何か嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
the first ―― Slay Monster's Nest
暗幕が上がる。徐々に視覚、聴覚、嗅覚、触覚が私の元に戻ってくる。
何か焦げた様な異臭が鼻を突く。訝しげに思いつつ、パチリと目を開けると同時に、「いやっ」と短い悲鳴を上げて、私は反射的に両手の平で双眸を覆った。
一瞬だけ見えた人間界の変わり果てた姿。恐る恐る指の間から、自分がやって来た世界を見渡す。そこは灼熱に燃え盛る世界、夜なのに明々と照らされ、眼前に黒焦げの人型が横たわっているのが見て取れた。
子供のものらしい小さな黒い指先に触れてみると、がさりと崩れて落ちた。
「ひっ……」
私は涙目になって、パニックに陥り、一緒に来たはずのお姉ちゃん達を探す。
「お、おねぇ、あねぇ! どこぉ! 私は、ここだよぉ……」
返事はない。それぞれ離れて人間界へ転移してしまった様だ。初めて体感する異様な光景を目の当たりに見て、私の膝は震えて、ぺたんとその場で座り込んでしまう。
風向きが変わり、炎がこちらに迫ってくる。私の緑のローブを少し焦がした。
這う這うの体で遠ざかるけれど、お尻が火傷しそうなくらい熱い。
「うっ、誰か……助けて……」声まで涙ぐむ。しかし、涙をいくら流したところで炎の勢いは治まることはない。とにかく、とにかく消火しなければ――。
私は涙を拭い、膝を落ち着かせ、そっと力を入れて、内股ながらも立ち上がった。
「わ、我は求め訴えたり……水面のざぶざぶクラゲ、揺蕩え」
錫杖を振り翳すと、頭上に大きな傘を広げたクラゲが召喚され、あちこちに水滴を垂らしながら、ふわふわと浮かんでいる。
「どうしよう……毒クラゲさんじゃ消せないよぉ。おねぇちゃぁん……」
呼んでも誰も来ない。精々私の耳に入ってくるのは、上方へと燃え上がる、ごぉごぉという炎の雄叫びくらいなもの。四面楚歌。八方塞がり。打つ手無し。
段々と呼吸も苦しくなってきて、私はまたへたり込んだ。水が恋しい。水が、欲しい。
生への執着からか、精神が研ぎ澄まされ、焦げ臭い中に別なニオイを感じ取った。
「海……?」
私は無我夢中で立ち上がり、火の手を避け、太い木々を縫って傾斜を下り、ひたすら潮の香りがする方へと駆けた。クラゲもふよふよ浮きながら付いて来る。
暫くすると、風紋が描かれた砂浜まで辿り着き、波打ち際を境に暗緑色の海がどこまでも広がって、大きく薄黄色をした上空の三日月を照り返していた。
私は海へ向かって飛ぼうと、急いで錫杖に乗り、浮遊しかけたところでふと閃いた。
「クラゲさん、海の水を火のところへ持っていって!」
クラゲは指示通りに高度を下げ、傘を広げながら海中へと沈んでいった。間を置かずに海面が盛り上がり、三倍以上に膨らんだ身体をぶよぶよと震わせながら、火炎上空まで浮き流れて行く。私も浮上し、後に続いた。
「良い子ね。今よ、水を開放してあげて!」
身体を捻る様に萎ませ、吸った海水を炎の上に垂れ流す。その姿は雑巾さながら。
次第に山肌の一部が、白煙を出しながら鎮火し始める。
完全に消えるまで、私達は何度も何度も、海と山の往復を続けた。月が真上に昇る頃には、ようやっと作業も大詰めを迎えた。
草臥れて、砂浜で両足を投げ出して座る。
「ふぅ……こんなもんかな。ありがと、クラゲさん」
礼を言うと、嬉しそうに触手を振りながら、魔法力に戻り霧散して消えて行った。
まさか初めて使役出来た召喚魔が、毒クラゲだとは思わなかった。任務を終えて無事に帰れたら、クラスのみんなに話してみよう。きっと驚くだろうな。
それにしても、いきなり飛ばされて来た時はパニックになったけど、一難去ると何とも余裕が出るものだ。これから、お姉ちゃん達を探さないといけない。
「あ、通信珠!」と、私は手を打って、方耳を触った。
しかし、うんともすんとも言わない。ピアスを外して見てみると、亀裂が入ってしまっていた。もうこちらからは干渉出来ない。高熱に晒されて破損したのだろう。
「これ、高かったのにな……くすん」
このままめげていても仕方がない。そう思い、私はピアスを装飾し直し、ローブの砂を掃ってから錫杖に乗った。全体を見渡すため、一度高高度まで浮かび上がる。
どうやら、火災の渦中にあったのは、山間から麓へ続く、小さな港町らしかった。
初めて訪れた異種族の世界を目の前にして、思わず声が漏れる。
「ここが人間の世界なのね……」
でも、建物の壊れ方が自然災害的でなく、街中のあちこちに穴が開いている。干潮の砂浜でよく見掛ける、蟹の巣穴みたいに。
私はゆっくりと町まで近付き、様子を伺う。どうもおかしい。あれだけの山火事が起きていたにも関わらず、寂然と町の灯りは消え、町の人は誰一人確認出来ない。
強いて言えば、こちらに来た時、火災に巻き込まれたらしい子がいたくらいか。思い返せば、あの子はまだ六歳くらいだった。……。
待ってて。夜が明けたら、私が町までちゃんと連れて来てあげるからね。
そう心の中で約束し、私は突き出た桟橋にそっと降り立った。波に揺られて、ギシギシと、何艘か並ぶ小さな漁船が軋む。船の中にも人気はない。
私は恐る恐る、廃墟の様な町へ足を踏み入れた。月光を頼りに、辺りを窺い、気配を探る。その時、「あっちょっ」バランスを崩して転んだ。
「いったぁ……もう」呟きながら砂埃を払い、ローブの裾を捲って足元を見ると、履いてきたパンプスの甲の部分、×字にあしらわれたベルトが一本根元から外れていた。
「あぁ、これじゃ、もう歩けないじゃない」
よろよろと立ち上がり、近場の、扉さえ破損してなくなっている民家に入る。
「ごめんください、って誰もいなそう。お邪魔しますね」
と、一応礼儀として、見えない主に声を掛けた。
縫い物道具くらいは、どこの家にもあるだろう。ちょっと拝借して、靴を直そうと思った。玄関を上がる際、いつもの調子で、土足のまま上がりそうになった。
魔法学校では人間界の講座もあり、下調べというか、基本知識は揃っている。
私はパンプスを脱いで、手に持つ。改めて、荒れて砂埃っぽい板の間に素足を下ろす。
「あ、ついでに、おトイレも借りますね。どこかな」
あちこち出入りして、設けられた室内を調べて回ってみると、玄関から進んで右手にトイレがあった。紙もちゃんとある。電気は点かない。
私は履物を下に置き、錫杖を立て掛けた。ローブとアンダーローブの裾を腿まで捲り、下着を膝まで下ろして座った。
「ふぅ……」用を足す。膀胱に溜まった不純物が、水となって勢いよく流れ行く感覚が、恍惚さをもたらすと同時に、反射で私を身震いさせる。
しかし何と言うか、余りに周囲の音が静か過ぎて、私の排泄音が響いて恥ずかしい。
全部出し終わった様で、身体から抜け出る温かい感じが途絶えた。埃を払いつつ紙を巻き取り、毛の間などに残った滴を拭き取ってから捨てた。
男の子は、きっと楽なんだろうな。と、いつもする度に、そういう思考が頭を過ぎる。
下着を履き直し、汚水を流そうと、ツマミを大小どちらに捻っても水が出ない。町に起きた騒ぎで、水道も破損しているのかもしれない。
「ご、ごめんなさぁい……」
小声で謝り、仕方なくそのままにしてトイレを後にした。手を洗う代わりに、先程台所のテーブルで見付けた、ウェットティッシュを使わせてもらった。次は裁縫道具だ。
でも、勝手を知らない人の家で、そんな地味な道具が見付かるかは疑問ではある。
一巡はしたけれどやはり見当たらず、とりあえず二階に向かうため、階段へと赴いた。
古いのか、足を掛ける度にぎしりと軋んだ音を発した。奥の部屋から散策する。
一瞥していくと、ベッドの上にぬいぐるみ、花柄の布団、レースのカーテン、学習デスク上に並ぶ小物、壁に掛かったセーラー服、学生鞄、どうやら女の子の部屋の様だ。
なおベランダに通じる窓のガラスが割れており、カーテンが吹き込む風で揺れている。
その隙間を縫って、白んだ刈安色をした月光が仄かに差し込んでいた。
女の子の部屋なら、ソーイングセットがあるかもしれない。私はそう思い、デスクの引き出しを失敬した。すると、一番上の段に赤い小箱を見付けた。
開けてみると、大正解、針や糸、小さな裁ちバサミなどが綺麗に整えられていた。
私は、大きめの針と硬めの糸を借り、デスクの上で作業を開始する。ベルトの端とパンプスの端に針を通し、動いても外れない様に、何重にも縫っていく。
玉留めをしてはまた縫い始め、計三回縫い付けておいた。実際に履いてみると、それなりには持ちそうだ。応急処置としてはこんなものだろう。
裁縫箱を元の通り片付け、ベッドに腰掛けた。ふぅっと一息し、天井を仰ぐ。
「……お腹空いたな」
私は足を上げ、反動を付けてから立ち上がり、階下キッチンへと赴いた。
またも失敬して冷蔵庫を開ける。電気が途絶えているから、痛んでいるかとも考えたけれど、ひんやりと、中はまだ冷気が少し残っていた。
ということは、通電が途絶えてから、それほど時間が経っていないらしい。今になって思えば、町民は山火事から避難している可能性もあるわけだ。
私はすぐ食べられそうなものを見繕い、胸に抱えてテーブルに着いた。先の散策で調べた時に、ガスも出ないことは確認済みだ。なので火も使えない。
冷蔵庫の隣に設置されたプラスチックの網棚から、食パンも頂いた。翌朝用にでも。
残り少なかったので、牛乳をパックのまま飲みつつ拳大のハムを丸齧り、トマトを頬張っては、サラダパックの野菜類をもしゃもしゃと食べた。
「ごちそうさまでしたっと」
お腹が膨れたら眠くなってきた。この辺の更なる調査や姉らの探査は明日にして、今日はもう休むことにする。使った魔法力も回復しておきたい。
私は買い置きであろうハブラシを借りて、海水をコップに汲み、歯磨きをする。この時にふと気付いて、後から海水をタライで運んでトイレも流しておいた。
あの女の子の部屋に戻り、布団を借りる。緊急派遣で仕方ないとはいえ、知らない家の物を借りてばかりで、何だか罪悪感が芽生えてくる。一段落したらお礼をしよう。
「おねぇとあねぇは……どこにいるのかな……」
ふんわりした布団に潜り込むと、体温で温かくなってきて、すぐさま眠りに落ちた。
――夢の中にいた。私が夢だと認識出来ている明晰夢。
知覚していない時の、ただ成すがまま流される夢ではなく、何でも思い通りに、こうしたい、ああしたいと想像通りに描かれていく。
お婆ちゃん、お父さんとお母さん、そして姉妹三人で、温かい夕食を囲んでいる夢。
みんな表情が穏やかで、私はスープを一口啜った。格子窓の外には、大樹の魔力塵が雪の様にちらちら輝きを放って降り注ぎ、美しくも幻想的だった。
こうした家族が一同に集う団欒の情景は、ここ数年見たことが無かった。一人きりじゃないけれど、いつもお婆ちゃんと一緒に過ごしていることの方が多かった。
そんなゆったりとした夢の一ページが、端からばりばりと砕かれ吸い込まれていく。
短く声を上げ、自席から手を伸ばして掴もうとしても、何にも届かない。いくら想像力で補っても為す術なく、全く思い通りにならなかった。
私一人だけが残され、辺りには黒幕が広がるばかりで、しかもどこからか、咄嗟に耳を覆いたくなる何者かの月賦まで木霊してくる。私はイラッとした。
「ちょっと誰よ! 人の夢食べてるの!! 許さないっ、我は求め訴えたり――」
と、詠唱途中で目が覚めた。なぜか私は今、揺れている。とても。
「え?」
身体を起こし、寝ぼけた思考を集中させて、置かれている状況を把握しようと試みる。
私自身も、壁の制服も、電灯も揺れ、錫杖は転がって踊っている。
「じ、地震?」
いや、よくよく耳を澄ますと、白んできている外から、地鳴りの様な音響が聞こえる。
私は覚束ない足取りで靴を履き、杖に飛び乗って、吹き曝しのベランダから表へ出た。
周囲を見回すと、昨夜見付けた地面の穴から、家の二倍はあろうかという巨大なアースワームが突き出てうねうねと動いていた。それに合わせて地も鳴動する。
きっとこれが町を壊滅させた原因で、青い魔女が放った魔法生物なのだろう。退治しなければいけないけれど、こんな大きなのを相手に一体どうやって……。
私の夢を食べたやつにどことなく似ている。胴体は長く太く先端には口があり、長い鉤爪の様な歯が乱雑に生えている。目は無く、額らしきところに、手の平大で黄土色の宝石が埋め込まれているのが見えた。魔宝珠だ。
もちろん私達の世界のアイテムで、この珠は通常、魔力増幅や効力上昇などが必要な時に用いられる。魔道士や魔女の技量によっては、魔物の原動力として、今回の様なイレギュラーな使い方も可能らしい。
私も実際に見たのは初めてで、教科書をなぞった知識しかないけれど、お姉ちゃん達ならもっと詳しいかもしれない。
まじまじと観察し、様子を見ていたら、突然こちらに頭を向けて襲い掛かってきた。
「きゃっ」
ワームが吐き出してきた液を飛翔して避けると、液体を被った電柱が白煙を上げて溶けていく。張られた電線がだらりと弛緩した。臭う、胃酸か何かの溶解液だ。
私は錫杖を巧みに操作して、次々続く濁った液をかわす。
「やん、きたなっ、もう、いい加減に、してよっ」
それでも時折飛沫が掛かって、お気に入りのローブを焦がした。溶けた部分から、乳房を包む下着が露になった。自然と胸元を庇う。
「もう、やだ」そこに一瞬気を取られたせいで反応が遅れ、ワームのしなる胴体をぶつけられて、「くあっ!!」私は町上空を流され、山の方へと飛んで行く。
杖ごと体勢を立て直しながら、樹林や山肌に衝突する前にブレーキを掛ける。
「いやぁ、ちょっと止まって、止まって! 止まりんぐ!」
間一髪、幹から伸びる、太く鋭い枝の直前で停止した。一旦枝の上に乗る。
女の子に汚い液を掛けるなんて最低、私はそう思い憤った。錫杖を向け、召喚魔法詠唱の構えに入る。ワームの奥、港の先、水平線から顔を出した朝日が目に沁みた。
「我は求め訴えたり! 氷雪のこんこんぎつね、舞え!!」
私の魔力より形成された二匹の狐が、宙を駆けて行きワームへと齧り付く。胴体が凍り始めた直後、もがいたワームに振り解かれ、鋭い歯で順に噛み砕かれ消えた。
「ああっ……」
私の召喚魔法では、レベルと力不足で太刀打ち出来ないかもしれない。こうしている間にも、魔物がのたりのたり動き回る度に町が崩れていく。
こんな時、どうしたら良いんだろう。お姉ちゃん達ならどうするだろう。
おねぇなら……炎の魔法を弾にして飲み込ませ、内部炸裂させているイメージ。
あねぇなら……愛用の杖で滅多打ちにしている姿が、イメージとして沸き起こった。
想像してみたけれど、やはりどちらの戦法も私には真似出来ないし、何より合わない。でも、どんな時も諦めずに立ち向かって行く、凛々しい姿だけは見習いたい。
私は錫杖を横にして額まで掲げ、ありったけの心念を募らせた。
私には難しいかもしれない。だけど、この町には一宿一飯の恩があるし、誰も不幸になってほしくない。そしてお婆ちゃんとの約束、青い魔女の好きにはさせない。
だから精霊さん、今だけでも、その力を貸して下さい。
「我は願い訴えたり、元寇びゅんびゅん吹き荒ぶ風の精、いざ!」
詠唱を言い終えると、私の傍らを一陣の風が通り抜け、空気が菱形に歪み、その中に淡いグリーン色で揺らめきながら、蝶の風貌をした風の精霊が召喚された。
「き、きてくれた! 成功した! わぁやった!」
腕を伸ばすと、その蝶は手の甲に止まり羽を憩う。心から感動して、凝視してしまう。
忘れるなとばかりに、前方からワームが町を蹂躙して這い回る。穴から出てきたその全容は、長いナマコに似ている。ぬたぬたとして、不快なことこの上ない。
私は敵をキッと見据え、早速風の精霊に願う。
「精霊さん、あの気持ち悪いのをやっつけて!」
また一陣の風が吹く。聞き届けてくれたのか、私の手から離れ飛び立ち、風の流れを羽に纏って自らの力としているみたいだ。蝶周辺の空間が、陽炎の様にぶれる。
私も錫杖に乗って、舞い進む蝶の後に続く。
羽ばたきながら片翼ずつ交互に羽を振るうと、どぎどぎと鋭利な風の刃が繰り出され、ワームを滅多に切り刻んでいく。一重の風刃、二重の風刃、三重の風刃――。
振動凄まじく、大地にまで斬撃の余波が痕に残る。一方、輪切りにされたワームは、分かたれた胴体がそれぞれ意思を持つ様に、びたんびたんとあちこちを跳ね回り、しかも傷口から新たな頭が再生し始める。つまり小さくなって増殖した。
「そんな……切られても生きてるなんて……」
しかし、悄然としている暇はない。追撃を掛けなければ、完全に倒さなければ、私達が来た意味が無い。そう思い、私は更に精霊に乞い願おうと顔を向けた。
「精霊さん、もう一度――」
声を掛けた時には、蝶は粒子となって虚空へと消えた。それを見て間も無く、私の身体も制御出来なくなり、地面に叩き付けられた。
「あうぅっ……!」
左脇腹を強く打った。もぞもぞ迫って来るワームの群れに、頭の中が真っ白になった。
私は痛みを食い縛って立ち上がり、杖を抱き、左腕を庇いながら海の方へと逃げる。
残存する魔法力が尽きた。もう飛翔することさえ不可能になった。精霊召喚の維持は、ひよっこ同然の私には長く続けられないらしい。
「助けて……誰か……」片脚を引き摺って小走り、彷徨う幽霊みたいに助けを求めた。
分かってはいるけれど、返ってくるのは這い寄る地響きだけ。そして遂に、
「……ううっ!!」
引いていた私の左足に噛み付かれた。細く尖った両歯が、皮を突き破って骨まで貫く。
動脈まで切れたのか、鮮やかな血潮が溢れ出す。もう逃げられない。
「助けて……お願い助けてぇ……ぐっ」
ワームは獲物を得て喜び、猫が鼠で遊ぶ様に足を引っ張られて倒される。落ちた時に強打したところを更に打ち、「あう……」広がる痛みに悶え呻いた。
必死に地面を這おうと腕に力を入れてもがくけれど、新たなワームに左腕と右脚までがぶりと食い付かれ、私の心境に諦めの思いが沸き始めた。
「痛いよ……いた……い」
またもう一体、目の前に回って来たやつが、楽しそうにあんぐりと大口を開けて、私の背にドボドボと溶解液を吐き出してきた。
「ああああああああああ!!」
ローブが、下着が溶け、背が露になり、肌まで酸が沁み込んでくる。
「痛い!! 痛いよぉぉぉ!! たすけ、お姉ちゃあああああん!! いやあああ!!」
叫び声も悲鳴へと変化し、辺りに木霊する。のた打ち回りたくても手足を押さえられ、
動けない。腕側と足側で私を取り合おうとするので、今にも腹から引き裂かれそうだ。
その反動で、背で溶かされた髪がバラバラと落ちる。心が折れた。
「おねえちゃん、おねえちゃ……虫が……私を、私を……!! 虫が、虫がっ!!」
喉が嗄れている。
「し、死にたくない!! 誰か!! 町の人でもいいから!! 誰か!! ねぇ誰か!!」
発狂寸前の私に見えた情景。前にいるワームの口の中が、私の頭目掛けて――
ざりっ。
何かが抉れる様な音が聞こえた。
私の首、取れちゃったのかな。醜くボロボロの血だらけのまま、一人で死ぬのかな。
白いの。どこまでも白い。一点の曇りも無い光の海で浮かんでいる感じ。心地良い。
ふと私は霞む目を見張って、髪を優しく撫で付けている人物像を捉え様とする。
「え、お姉ちゃん……?」
「そうよ。よく頑張ったわね。後は私に任せなさい」
「うん……。来て、くれたんだ…………」
温かく抱かれながら、安堵の息を吐いて身を委ね、私の意識はそこで途絶えた。
the second ―― Who is the Hero for My little sister
私は妹に、暫くの間効力が持続するタイプの治療魔法を施した。
重症を負っていた箇所は既に、即席で粗方ではあるが治癒させてある。
溶かされていたローブも修繕したから、もう淫らに裸ではない。私の腕の中で、白い魔法力のきらきら星達に囲まれて、静かな寝息を立てる妹に声を掛ける。
「可哀想に。遅れてごめんね。今はゆっくり休みなさい」
そっと浜辺に横たえ、私は愛用の二対鉄杖を手に取った。そのまま使うことも可能であり、戦況に応じて真ん中で分離し、両手に一本ずつ持つことも出来る。
未だ土煙を上げ続ける町方面に向いて、ぼそりと一言放つ。
「クソミミズ、跡形も残らないと思え」
奥歯をぎりりと噛み締めた。妹の危機に、私の中を渦巻く白い炎が熾烈に猛り狂う。
私は鉄杖に乗り、上空へ浮かび、ハイスピードで空を切って港町まで飛ばした。
桟橋側の沖へ回って、海面スレスレを白波を立てて飛行し、町中を縦横に駆けずり回るアースワームの一匹に狙いを定めた。
そのまま速度を殺さずに自分は飛び降り、鉄杖だけを目標へと打ち放つ。私は土煙を立たせながらレギンスで大地を擦り、幾らか滑走して止まった。顔を上げる。
杖は横断していたワームの土手っ腹に直撃し、断末魔さえ上げさせずに粉砕した。
「ハズレ」言いつつ眼鏡を上げる。魔宝珠を着けたやつが本物で、それを倒せば分裂した小物は勝手に息絶える。何匹増えようが、大本は一匹でしかないのだ。
因果なものか、この場所は、先程妹が危うく首を食らわれそうになったところだ。縞状の歯型が付き、抉れた地表の上に私は立っている。
直線上の大木に突き刺さった得物を回収しようと、足を踏み出した瞬間、脇から後から地中からワームがこぞって顔を出し、行く手を阻もうと壁になる。
「素手の女が相手だと、勝てるとでも思っているのか?」
私は腰を落とし、鉄杖目掛けて駆け出した。立ち塞がる邪魔なやつには、勢いが乗った回し蹴りを浴びせて通る。流し目で見ると、軒並み歯が折れて汁を撒き散らしていた。
このレギンスは内部に鋼鉄仕込み、故に蹴撃を組み込む戦法も可能。そこらの普通の魔道士には履けもしない。目的の杖を幹より引き摺り出す。
「さて……残りは七体か」
歯を失ったワームはハズレな上、今や虫の息だ。無視して良いだろう。
私は杖をパキンと真ん中で分離し、一刀ずつ手に持ち、素振りをして馴染ませる。
身を寄せ合ってうぞうぞ犇く中央に、魔宝珠を持つ者が見えた。あれがオリジナルだ。
「たああああああ!!」地を蹴って腹から声を出し、群れの中へ突進して行く。
歯牙を避け、溶解液をかわし、体当たりをいなす。そして隙を突いて――
ダン、ドン、ダン、ドン、ダン、ゴン、ガン!
と、リズム良く二対鉄杖を七発叩き込んだ。戦果はもう確認するまでもない。
ワームは体中でこぼこ凹み、私の眼前でぐたりと横倒れに力尽き、額から魔宝珠がコトリと落ちた。それを拾い上げた時、本体も分身も砂屑となって風化してしまった。
潮風に煽られて、地表を舞い、中空を漂い飛ぶ。私は宝珠を手に、少し仰ぎ見ていた。
「……終わったのね」眼鏡を上げて、鉄杖を一本に戻す。
あれが青い魔女の刺客。魔女クラスならともかく、並の魔道士では、妹と同じく到底太刀打ちは出来ないだろうと思う。同時に、魔女クラス相手に私でもどれだけ張り合えるか分からない。相互スキルの相性の問題もある。
魔法生物はいくら倒しても、きっと次々生み出して来るに違いない。対策としては、魔女そのものを倒すか、媒体となる魔力を封じるか。
いずれにしろ、とんでもなく厄介なのは明々白々な事実で、私を悩ませる。
まぁ、考えるのも重要だけど、この町を治してあげないとね。それに、浜の岩陰に寝かせたままのあの子も気に掛かるし。そろそろ治療魔法が切れる頃だ。
私は集中し、杖に復元と再生の魔力を込め、一気に地へと突き立てた。
そこから白光が止め処なく溢れ、波紋状にゆらゆら拡散し、遂には町全体へと染み渡っていく。蹂躙され破損した家屋、倒れた電柱、学校などの割れたガラス、荒れた農園、ワームが通った穴や窪み、その他諸々を元通りに修繕する。
「こんなとこかな」
我ながら上々の成果だった。鉄杖を地から離し、横座り、妹の待つ浜へと飛ぶ。
その道中、エクステンションヘアーの髪留め通信珠を通して、姉の現在位置を探った。
「……ん?」妙なことに、どうやら一旦ワープ魔法であっちへ戻っているらしい。連絡を取ろうと通信を送っても反応が無い。
姉ちゃんのことだから心配は無用だと思うけど、一応このことは覚えておこう。
砂浜の岩陰に横たわる妹を診る。再生しているロングヘアーを手ぐしでスッと梳いた。
回復に時間を掛けただけあって、以前より艶やかな状態に戻っている。身体の傷跡も一つとして残っていない。施した魔法も、上手く完治した後で治療効果が切れた様だ。
私の膝の上で、妹の瞼が震え、軽く呻きながら目を覚ました。
「わ……あねぇだ。あの、魔物はどうなったの?」
「おはよ。魔物は私が代わりに倒したわ」と告げ、私より小さな手を取って、戦利品の魔宝珠を握らせる。「あなたが持ってなさい。魔宝珠はお守りにもなるから」
「ありがと……でも、あのナマコに着いてたんだよね……」
「気にしない気にしない」妹の白い頬を両手の平で包み、微笑んで見せた。
「うん。……あ、そういえば、焼けた森の中に取り残された子がいたの。あねぇも一緒に、町まで連れて行ってあげてくれない?」
「いいわよ。ついでに森も再生しよっか。完全に焼けた植物とかは戻せないけど」
「さすが、あねぇは頼りになるなぁ」
私達は揃って杖で飛翔し、妹のナビゲートで件の場所、海岸から近い森の境目辺りへ降り立った。てててと探しながら、私の前をちょこちょこ駆ける。
妹がある場所で立ち止まった。私も背後から覗き込み、彼女の視線を辿る。
「これが逃げ遅れた子?」
「え、えと……」
私を見上げて、何ともばつが悪そうな眼差しを寄越した。それもそのはず、子供ではなく黒焦げの丸太が、崩れた枝を伸ばして転がっていただけだったのだから。
「あの時は暗くて、よく見えなかったんだもん……。周りは山火事で、私その中に転移してきて焦ってたし……」
「ふふ。でも良かったじゃない。誰も犠牲者がいなくて」
「そうだよね。あ、でも、それじゃ町の人達はどこへ行ったんだろう」
「山火事で避難してるんじゃないの? 魔物のせいなら、もっと被害が出てるだろうし」
「また一緒に探してみよっ」
「ちょっと待って」私のローブの袖を引く妹を止め、「先に森を蘇らせないと」
「そっか」と、彼女は私を離し、錫杖に座って浮遊しながら眺めている。私は町に使ったものと同じ方法で、白い魔力を染み渡らせた。
焼かれても微かに生きていた樹木が、自然治癒力を活性させて再び青い葉を茂らせる。
私の魔法を目の当たりにした妹は、ぱちぱち手を叩いては賞賛の言葉を口にしていた。
悪い気はしなかった。私が十六の時は、きっと可愛げのない学生だっただろうと思う。
その後、二人で手分けして町民を探してみると、避難所に集っているところを発見した。しかし、どうもみんなどこか無気力で、疲労困憊という空気を醸し出している。
「無事だったのに、どうしたんだろうね」
妹がぽつりと訊く。私は少し中腰ぎみに視線の高さを合わせ、
「婆ちゃんが言ってたじゃない? 青い魔女が、心を集めて魔力にしてるって」
「それで心を、削り取られちゃった?」
「きっとね。あんな大きいミミズが暴れて騒ぎにならなかったのだって、他の町の人も多分、心を吸われているからかもね。でも、診たところ全部は持って行っていないみたいだから、しばらく休んだらみんな回復するわ」
それを聞いて、安心した様に彼女は一つ頷いた。大勢の中で、比較的調子が良さそうだった妹と同い年くらいの女の子に話を伺う。
少女曰く、山火事が発生して一斉に避難したところ、突然気だるくなったそうだ。それ以降、私達が訪れるまでの間のことは、あまり覚えていないらしい。
何にしても、魔法力の元である人間の心が弱っていると、私達も比例して力が弱る。
私は回復魔法を乗せた鉄杖を振り、霧状にして広範囲に散布した。
「これで、心も身体も元気が出てくるでしょう」
とりあえず、この町でやるべきことはやった。あと私達がすることは、青い魔女はもちろん、他の魔法生物も見付けたら倒すこと、それと姉と連絡を取って合流すること。
足並みを揃えて避難所を後にし、建物の外に出る。丁度、私の通信珠が灯った。
「はい私。姉ちゃん?」
『すぐに、戻ってきて』
衣擦れの音がする。おかしい、激しく動いて息を切らせながら、急いて話しているみたいだ。妹に気取られない様に、努めて平静を装って応答する。
「どうしたの? 何かあったの?」
『青い魔女、そっちのは、陽動だったのよ。だから、早く、戻ってきて――』
「分かったわ。転移魔法使って急いで戻るから待ってて」
通信が切れた。魔法世界で良からぬ事態が進行しているらしい。
傍らで、「おねぇ、何だって?」と、妹が心配そうな顔をして尋ねてきた。
「向こうで何かあったみたいね。呼ばれたから行ってくる」
勘で感じ取ったのか、すかさず擦り寄ってきて、わやくなことを言う。
「私も行く!」
「あなたはまだ病み上がりでしょ。お姉ちゃんの言うことを聞いて、ここで待っていなさい。魔法世界へは私だけ戻る。いいわね」
私はぶっきら棒にそう告げ、杖を翳してそそくさと転移魔法の詠唱に入る。
表層的な部分とは違う、また別な考えもある。妹を人間界に残したのは、単純なレベルの差もあるけど、向こうで何が起きているのか大凡目星が付いているから。
彼女まで連れて帰ってしまったら、私達の世界の護り手が最悪ゼロになってしまう。
「あねぇ! お姉ちゃん、待って!!」
それでも私にしがみ付く妹を、トンッと一突きして離す。忽ち魔法が発動して、私は光に包まれ、人間界から魔法世界へと視界がオーバーラップする。
「気を付けて!! 無事に帰って来て!!」
去り際に発せられた、妹からの精一杯のエールが耳に強く残った。
the third ―― Break whole, Loving Memories with
私の右薬指に嵌めてある、指輪型通信珠が着信を知らせて灯る。
しかし、すぐに応じることが出来ない。魔法世界に戻ってから朝を向かえ、私が今相対しているのは、青い魔女が造り出した強力な魔法生物。大樹と同等の大きな黒い龍。
頭には二本の角。鱗は首から背、尻尾まで棘が生えて繋がっている。暗黒色の魔宝珠は額に着いている。細長い首をくねらせ威嚇し、赤く輝く相貌が光跡を描いて踊る。
龍が唸り喉を震わせて、一旦けたたましく咆哮をすれば、生じた衝撃波が空間を伝い、遮るあらゆるものを超振動によって破壊する。
私は咄嗟に氷の魔法を前方に張り巡らせ、障壁として凌いだけれど、何の防護も無い木造の学園や水車小屋が粉砕されてしまった。無残にも瓦礫の山と化す。
長い尻尾を左右に振り、遠心力を加えた一撃が、私を突き出た岩肌へと叩き付けた。
その場で胸を押さえて膝を突き、「けほっ、こほっ」と、肺へのダメージで反射的に咳き込んだ。蹌踉としながらも、杖を支えにして立ち上がる。張り出した胸が揺れる。
龍から受けた被害は、白い魔女の妹がいれば殆ど治すことが出来る。でも、魔法は全能ではない。命の蘇生は出来ず、死んだらそこまで。だから、誰も死ねない。
「雷よ! 俯瞰に望める仇を焦がせ!」私の誘ないに呼応するかの様に、聖杖の先端の宝玉が薄紫色に輝いている。
杖を振るい、龍の頭上に雷を落とした。眩い閃光を発し、大気を劈く轟音が反響する。
斑に纏う黒煙の中から、ずいと顔を覗かせ、首を撓らせて猛毒の霧を吐いてきた。
大気が淀み地が腐る。迫り来るその大量の毒霧に、私ですら思わず後退りしそうになる。しかし、杖を持つ手を握り締め、地を踏むブーツに気を入れて留まった。
幼少から育ったこの土地を、家族や妹達との想い出を、これ以上壊されるわけにはいかない。そういう思いが、私を心身ともに一層奮い立たせる。
「風よ! 逆巻いては邪まな息吹を祓え!」風の力を経て、宝玉が薄緑色に光る。
魔法を解き放つと、強い追い風が起こり、漂う毒霧を打ち払った。龍が若干怯むのが見て取れた。私は機を逸することなく、起こした風を利用して舞い上がり、上空で聖杖を構えて連続で魔法を唱え、追い討ちを掛ける。
「氷よ! 凍て付く桎梏において磔けよ!」宝玉は水色。龍を中心とした円周から、幾つもの鋭尖な逆さ氷柱が、重心目掛けてざくざくざくざくと立ち上っては突き刺さり、そこから青紫色の体液が流れ零れる。
「地よ! 巌猛々しく降り注げ!」宝玉は黄土色。私の二十倍はある岩盤を作り出して飛ばし、氷柱で身動き出来ない龍の頭へと直撃させた。衝突のエネルギー凄まじく、ぐるるる……と呻き声を漏らして、細い首がだらりと鞭打ち症の様に下方へ垂れた。
「水よ! 泡沫の細波より捕えて沐せ!」宝玉は青色。細く研ぎ澄ました高圧の一線を、地に伏せる龍の頭に照準を合わせ、その額の黒い魔宝珠ごと貫いた。
追い風が吹き止み、「あっと」私は落下途中で杖へと腰掛けた。流れる様に龍の頭近くまで飛んで行く。遠目に様子を見た限り、どうやら息絶えてくれたらしい。
魔宝珠は、真ん中の穴から幾筋もの亀裂が走り、そのままパキリと砕け散った。楔が壊れたことで龍の身も闇のあぶくとなって、陽に吸い込まれるかの様に昇って消えた。
魔物の最後を見届けたし、とりあえず難は去ったかな、と一息吐く。町のみんなは、朝からお婆ちゃんが我が家地下で結界を張って、今も護ってくれている。
私達がお婆ちゃんの転移魔法を受けた時、妹二人とは逸れてしまい、私は人間界の最南端である南極に転移してしまった。
それもブリザード真っ只中で、もし私が魔女ではなく、魔法で炎の空間が作れなかったら、このローブ一枚では間を置かずに凍死していたことだろう。
でも、どうして三姉妹が同じ位置に転移されなかったのか不思議に思う。世界の何かが歪曲し始めているのかもしれない。
聖杖の宝玉は赤く彩られ、寒気を遮断する炎の壁を張り巡らせ続ける。そうして、ホワイトアウトさえ引き起こす猛吹雪を退けて延々歩き、低気圧帯の抜け口を探していた。
杖は使用しているので飛翔には使えない。氷の上をとぼとぼと彷徨っていると、ある時通信珠の指輪が灯り、お婆ちゃんから突然の帰還要請が飛び込んできた。
私は了解し、ワープ魔法を詠唱してこちらへと戻った。人間界へ行くことは禁じられているため、移動手段が門を直接潜るか特殊な護符を使うかなどで限られているけど、転移で魔法世界へ戻る分には世界のどこからでも普段と変わりない。片道切符。
私だけを呼んだのは、魔力が一番高い人材がすぐにでも必要だったからだろう。
青い魔女。実際に龍を相手にしてみて、あれだけ強力な魔法生物を作り出せるほどの魔力を、内に宿していることが分かった。人の心を削り取ってまで。
私は踵を返し、お婆ちゃんのところまで戻ることにした。その矢先に、
「あなたが大魔女のお孫、黒い魔女さん、ですよね」
声がした方を振り返ると、腰元に二刀の剣を携え、柄に手を置いてこちらに微笑む屈強そうな男が佇んでいた。私は彼を知っている。
彼の髪は短めで、前掛けの後ろから、三つ編みの様な二本の赤紐を風に靡かせている。
「青い、魔女……」
魔女はクラスの総称号で、男性でも中性でも魔女を名乗る。魔女狩り然り。
私は杖を構えて臨戦態勢に入った。知らず知らず冷や汗が出る。
「ふふ、一人で無理をなさらない方がいいですよ。今の私は、七十億の心を魔力に変換していますからね。大魔女の結界さえ相手になりません」
「どうして、どうして掟を破ってまで人間に迷惑を掛けたの? 普通に暮らしていた人達の、大切な心を踏み躙ってまですることなの?」
彼は私の問いに対し、ククッと笑みを零した。
「大魔女への仕返しのためです」
「なっ、お婆ちゃんへの仕返し? まさか破門されたから? たったそれだけの、局所的な私怨のために、何億もの……」
「ふふ、冗談ですよ。大魔女なんて実はどうでもいいんです」
「巨大な力を手に入れたからって自惚れて、私をからかっているの?」
「いえいえ、魔龍と同じくただの余興ですよ。本当の宴は、これからです」
剣を一本ずつ鞘から抜き、私へ切っ先を向けた。陽光を反射してきらりと光る。
「手品を一つご覧に入れましょう。昔生み出した魔物がですね、身を軽くする能力を持っていたので、ありがたく頂いておきました。それがこれです」
彼の身体を、赤味掛かったオーラがゆらゆらと纏う。確かめる様に剣を一本振るうと、剣尖がまるで見えないほど速い軌道を描いた。
今ので満悦したのか、聞いてもいないのに、ナルシスト特有の独り言が始まる。
「私の目的は、全世界を隔てる次元の一律化。それを成すには、絶大な魔力が必要だったわけです」空を切り、もう一本を振るっては見惚れる。「だから人間界に直接赴く必要がありました。門の鍵を複製してまでね。まぁ、忠実なコピーとはいえ紛い物は紛い物、一回使ったところで壊れましたが」
「全世界の、一律化?」
「そうです。人間界も、魔界も、この世界も、同一空間上に存在させるのです。そうやって切っ掛けを与えてやれば、人間の特性上、必ずここへ調査と銘打って攻め込んで来ます。ふふ、実に面白いでしょう? 知らぬところで護られていた種族が、魔法の力をひと度目にすれば、貪欲に恩を仇で返してくる……。そうして、自らさえ滅ぼし兼ねない人間界の武器を持ち出してくれれば上々です。まさにカオスです。
魔法と兵器と魔族、これらが一緒くたに存在する様になれば、下らない人間界の尻拭いや、ヘタレなこの世界のお守りをしなくて済む、そうでしょう?」
同意を求められても、私には何一つ理解出来なかった。ただただ首を振る。
「分かりませんか? まぁそれでもいいです。私は私で、計画を強行するだけですから」
「――ぐあっ! あぅ……う……」
気が付いたら、私の下腹部に膝蹴りが打ち込まれていた。女の臓器が悲鳴を上げる。
「う……う……はぅ……」
膝から崩れ落ち、地を這い、砂を握り締める。頭の上から声が聞こえる。
「計画を円滑に遂行しようと、邪魔なあなた方三姉妹には、アースワームを餌に人間界へと向かってもらったのですが、あなただけ随分と早く戻ってきたものですね。
ふむ、下準備で三世界に楔を施したせいで空間が――」
ブツブツ何かを言っているけど、痛みで耳に入らない。私は下腹部を押さえながらも、顔を顰めて立ち上がった。彼は、戦争に慣れている本物の魔女、そう思った。
「つ、まり……陽動、だった……のね」
「そんなとこです。ところで、寝たまま処分された方が、楽だと思うんですがね」
高速の剣戟で切り刻まれ、ローブを破いて肉を裂き、赤黒い血飛沫が点々と空を舞いぼたぼたと落ちる。彼は剣を地へ突き刺した。
「ぐっ……がっ……」
私は瞼が今にも下りて気を失いそうなのに、片腕で首を絞め上げられる。足が浮く。
息が出来ない。視界が霞む。口から唾液がだらしなく垂れる。
意識が途絶え掛けたその時、腰裏の短剣を抜いて勢いよく振り上げた。首が開放されて足が着く。私は咽せて何度も何度も咳き込んだ。唾液を拭って顔を上げる。
彼はたじろぎ、頬に一線、短剣による傷が出来ていた。
「魔女クラスだけなことはあって、女性ながらよく粘りますね。ですが」
二刀を収め、魔法詠唱の姿勢に入る。
「早々に退散して頂かないと、予定が狂うんですよ。あしからず」
彼の周囲に、集積した炎の魔力が凝縮してゆく。私はその魔法の種類に気付き、背を向けることも厭わず、聖杖に乗って一目散に飛び立った。
直後、彼を中心として大爆発が起きる。轟音を立てて、爆風が私を巻き込んだ。杖から落ち、衝撃に流されるままごろごろごろごろ引っ繰り返って漸く止まった。
土煙が徐々に晴れる。私は擦り傷だらけで、ローブは砂埃に加え更にボロくなった。
爆心地にはクレーターが形作られている。ハッと意を向けると、青い魔女が再び何かを詠唱していた。一人では勝てない。せめてもう一人……。
「誰か、誰か聞こえる?」
『はい私。姉ちゃん?』
妹の声が聞こえる。通信珠を連結してくれた。私はすぐに用件を伝える。
「すぐに、戻ってきて」
『どうしたの? 何かあったの?』
彼は岩を削り、幾本もの槍を放ってくる。恐らく魔物から会得したものだろう。
私は地を蹴って走り出し、降り掛かるそれらを踊る様に避ける。
「青い魔女、そっちのは、陽動だったのよ。だから、早く、戻ってきて――きゃっ」
彼の繰り出す石槍をかわした弾みで躓き、押し倒され、通信が途絶えてしまった。
起き上がろうとするも、顔のすぐ横に剣を突き立てられる。
「無闇に動くと、白い頬が私みたいに切れますよ」
言って、私の右薬指から指輪を抜こうとする。「連絡ですか。余計なことをしてくれますね」私は指を丸めて抵抗した。
しかし、意に介さず力ずくで拳を抉じ開けられ、薬指の骨がめきりと折れる。
「――あぅっ!!」駆け抜ける想像を絶する痛みに、悲鳴さえ押し殺される。私は杖をからんと落とし、歪に曲がった薬指を庇う。脂汗が額に浮き出てくる。
「ふん」彼が一つ念を込めると、指輪は風化し崩れ去った。「黒い魔女ですと、この程度ですかね。所詮、女は女でしかない」
剣の腹で、顎を上に向けさせられて、痛みで引き攣った表情を眺められる。「あっ!」片方の乳房を鷲掴みにされる。私は反射的に後方へ飛び跳ね、彼から遠ざかった。
「ふふ、ご自慢の杖をお忘れですよ。ふくよかなレディ」
聖杖が蹴り飛ばされて、目の前まで転がってきた。私の心が黒に支配されていく。
まだ男の人を知らない女の象徴を触られて、しかも愛用の杖まで足蹴にされた。同じ魔女クラスだから手加減していたけれど、もう詫びても許すものか。
内情を表すかの様に、宝玉が漆黒に彩られ始めたその時、
「はいお待ち」
妹が、白装束を翻して現れた。宝玉から魔力が抜け、元の無色へと変わる。
「あぁ……」
「随分ヤバそうだけど、姉ちゃん大丈夫?」
眼鏡の奥、懸念した眼差しで私を見遣る。
掻い摘んで経緯を話しながら、裂傷を塞ぎ、負傷していた指も治してもらった。しかし、ローブを修繕する暇は流石に無かった。あちこちの裂け目から桜色の下着が覗く。
「なるほど、魔龍と青い魔女と連戦したってわけ。無理しちゃって」
「ごめんなさい……」
「でも間に合って良かった。これからは二人で戦いましょ。接近戦は私に任せて」
「ええ、期待してるわね」
私達は背を預け合い、場を仕切り直して魔女を見据えた。妹が両手に杖を持ち、本気モードへと変わる。彼女が相手をしている間、私は詠唱に専念出来る。
彼は剣を抜いて応え、妹とまるで殺陣の様に火花を散らして打ち払い合う。両者互角で、機は譲らない。切り掛かられてはいなし、殴打しては受け止められる。
素早い動作で攻守が移り変わり、ぶつかる甲高い金属音を辺りに鳴り散らす。
チャンスを窺いつつ、私は聖杖を真ん中に固定し、詠唱の準備をした。魔女が合間に魔法を使っても、妹が光の魔法結界で防ぎ無効に終わる。
彼の息が切れ、表情が段々と険しくなり、焦りの色が垣間見えた。一瞬体勢が崩れる。
「闇よ! 神奇なる力封じる刻印となれ!」
私は隙を逃さず魔法を唱えて、完璧なタイミングで魔法を命中させる。頭に天使の様な黒い輪っかが現れ、強大な魔女の力を封じ込めた。
詠唱しても何も起こらない。掛かっていた魔法も効力を失ったらしい。彼はしどろもどろになって、繰り返し繰り返し無駄に詠唱を続けていた。
「なぜです! なぜ、封じられる! 私には、七十億の魔力が、最高の魔力が……!」
「残念でしたッ」彼女もまた勢いに乗って、二刀を叩き落とし、杖を一本に戻して横薙ぎ気味に、彼の首を大樹の幹にまで押し込める。
「あんたねぇ、自分の器って、考えたことあるわけ」
そして妹から真理を突き付けられて、彼は眉根を寄せ、心外だと言わんばかりに表情を歪ませた。先程までの余裕はどこへやら、破れかぶれに暴れ出す。往生際が悪い。
「氷よ! 凍て付く桎梏において磔けよ!」
魔力で作り出された氷の双柱が、彼の手首を射抜く。氷柱の上を赤い血が流れ伝う。
悪魔でも血は赤い、か。私は不意にそんなことを思った。妹もすっと離れる。
それでも痛みで我を取り戻したのか、大樹に磔けられながらも私達に豪語する。
「ふっふふ……予想通り、大魔女直属の姉妹が揃うと勝てませんか……。赤い魔女を、魔界へ残してきて正解でした。ですが、まだ私は終わりませんよ。大樹自体が、世界から完全に消え去ってしまうとしたらどうでしょう? さぁ魔剣よ!」
私はハッと顔色を変え、彼もそれを見てニタリと笑みを零した。落ちた剣から暴走した魔法力がどす黒いスパークを生じ、ばりばりと四面八面へと出でる。
二本の剣は独りでに動き、一本は大樹に突き刺さり、もう一本は青い魔女の腹に突き刺さった。条件が満たされたのか、周囲に消滅のペンタクルを線引いて、黒紫の六芒星を形作っていく。よく見れば柄尻に真紅と深青の魔宝珠、剣自体が魔法生物だった様だ。
「そんな、やめなさい! あなたも消えるのよ!!」
叫んではみても、私自身もう止められないことを経験則から把握している。浮かび上がった魔方陣が明滅し、大樹を枝葉から順に削り消してゆく。
「ふっ二人掛かりで、王手に詰められたんです。大樹の魔法力と、私の生命力を媒体として、今、魔法世界は幕を閉じる。存在そのものが消える。
類い稀なシチュエーション。私が遺す最大の演出だとは思いませんか。ははははは!」
狂ってる……。どうしてこんなことに……と、一瞬ネガティブな思考が芽生えるけれど、土壇場で思い倦ねるよりも、今出来ることを模索する。
「……もう閉ざすしか」傍らの妹も同じ考えの様だ。それは覚悟の一言。大魔女の血を引く私達二人が、これから何をすべきかが決まる。
自然と顔を見合わせ、彼女は一つ頷いてから髪飾りの通信珠に手を翳した。
無事繋がったのか、人間界にいるあの子に現状を話し始め、
「――だから一旦閉ざすの。あなたがもし人間界で、魔法力をゼロから培って、今以上の魔力を身に着けられたら、またこの世界を開いて頂戴」
私も彼女らの通信に割り込んで、口頭なのが残念だけど、最後の会話を交わす。
「そういうことだから、あとはよろしくね。元気で過ごすのよ」
連結を切る瞬間、「お姉ちゃん待って! おねぇ!! あねぇ!! まだ――」と珠が震えるほど声量のある声が響いた。
私と妹は手を取り合い、聖杖と鉄杖を交え、禁断の魔法を二人掛かりで詠唱する。
最上級のこの魔法を上手く発動させることが出来たら、全ての世界はいかなる他世界からも隔離され、封印される。それが〝閉ざす〟ということ。
しかし、苦渋の選択ながら、完全な無に消え去るよりはベターだと思われる。何かしら断片が残ってさえいれば、復興の希望は潰えないからだ。
いつの日か、外部からこの封印を解いてくれることを信じて。
交差する杖の中心で、私達の持つ異種な魔力が混じり合う。それは歴史書にも記された、黒と白のプレリュードさながら――歴史は繰り返す。
青い魔女も、身動きが取れない状態でこれを見据え、流石に血相を変える。
「や、やめろ! それはっ、自分達ごと封じるなど、気でも狂ったか!!」
詠唱に着手したまま、私達も言い返す。
「それぞれ個々に存在し、平和を謳歌していた罪のない世界さえ巻き込んで、世界の統合、次元の一律化を無理やり望んだあなたが言うことではないでしょう」
「そうよ、あんたが余計なことしなければ、こんな破綻した物語は生まれなかったのに」
役職は違えど、双絶の魔女クラス二人分の全魔力キャパシティを融合させた、古えより続く禁断の封印魔法が無事に完成する。
「行くわよ」「はい」
私達のセリフを合図にしたかの様に、集った事象の歯車は一気に動き出した。
大樹が根を残して消え去り、青い魔女も力尽きる。封印の魔法が作動し、世界がざらざらとしたスノーノイズに包まれた。空間を伝う波動の振幅が大きくなる。
瓦礫も岩塊も、小川も桟橋も、大樹さえも、形あるものが次々に封じられていく、何もかもが閉ざされていく。〝終わり〟さえも。
聖杖を持つ感触も、妹の手の温もりも途絶えた。全てが深淵の奥へと消える。
「これで、良かったのよね……」
さようなら、思い出の魔法世界よ。また会う日まで――。
epilogue ―― let cast a Elohim-Essaim
青い魔女と赤い魔女の反乱から数年が経った。
私だけ人間界に取り残され、お姉ちゃん達は消滅を打ち消すために、禁じられた魔法を使ってまで、みんなや世界を丸ごと封印してしまった。
当時は絶望に打ちひしがれ、涙を流すことに明け暮れたけれど、人間界で人間に混じって暮らすうちにそれも薄まった様に思う。
もちろん、私は歴史的に人間界には絶対存在しないので、都会では大手を振って歩けないけれど、あの小さな港町くらいなら顔を出せる。
私が一日だけ居候させてもらった、同い年だった女の子とも仲良くなれた。山火事の時、避難に遅れたからお部屋を借りたんだよと話したら、頬を染めてはにかんでいた。
一緒に遊んだり、泊まらせてもらったり、二人でお風呂に入ったりと、色々な親睦を深めるイベントがあった。とある夜には、女の子の気持ち良さも教えてくれた。
そうやって月日が流れる間、私もただぼぅっと呆けていたわけではない。
あのアースワームが残した魔宝珠を起点に、人里離れた土地で新たな魔法源を構築し、一月後には幻魔を呼べるくらいには育っていた。
それに伴って、私もお姉ちゃんみたいな魔女を目指して切磋琢磨を忘れず、以前以上の魔力増強に勤しんだ。成果としては、精霊召喚を長時間維持出来る様になった。
そして二十歳になった今日、お姉ちゃん達との約束を果たす時が来た。私は精一杯集中し、残存魔力さえも全開に、使い慣れた方式で詠唱を開始する。
おねぇ、あねぇ、遅くなってごめん。待ってて、今度は私が助けてあげるからね。
「我は祈り訴えたり! 天地創造のぴらぺら大魔導書よ」
目の前に翳した錫杖の先に、四方八方から魔法の光粒が集い、次第に分厚い本の形を成していく。最初であり最後でもある召喚魔法、そう、私達の世界の召喚――
「開け! グラン・グリモワール!!」
了
最後までのご精読ありがとうございました。
ネトゲ実況板のとあるスレで公開してみたところ好評を頂いたので、第19回電撃大賞にも応募してみたのですが、一次審査落ちという結果でした。
他社の応募規定には未公開作品を条件としていることが多いので、こちらでも公開させて頂きました。上記スレでも公開していますし、ブログにも載せていますしね。
一応続編が途中まで書いてあり、三姉妹の名前が明かされるお話になっています。
いつかどこかで目に留まったら、読んで下さると大変嬉しく思います。
それでは失礼致します。