がたんごとん。
田場あゆみは毎朝、始発駅から電車に乗り込む。そしてかれこれ1時間は揺られて大学へと通っている。
つまり、1時間は眠っていられるということだ。
いられる、ということなのだが。
今、電車内で座席に座る彼女の前に立つのは――どうやら、おばあさんらしい。
「らしい」というのは、今、あゆみがふと目が覚め、目を薄く開いたからで。
そして前に立つ人物の、シワの寄った手が見えたからで。
車内はそこそこ満員。空いている座席はあるようには思えない。
うつらうつらとしていたあゆみは、そろりと顔を上げ、前に立つ人物を確認した。予想通り、品の良さそうなおばあちゃんが立っている。
あゆみは昨日、レポートを片付けるせいで眠るのが大分遅かった。ものすごく、眠い。というより、むしろここで眠らないと今日一日を乗り切る体力が……!
だけど。
ここは席を譲るべきだね。
私が好きな時代小説の中でだって、当然のようにみんなお年寄りには優しくしているし。
てか、倫理的にそう。
自分が年とってから席を譲られたいのなら、若いうちに譲っておかなきゃだめだ。
でも。
なんだか、タイミングを失ってしまった。
気付いたらすぐに席を立てば良かったのに、グズグスとしていたから、なんだか、自分の中でのタイミングを見失ってしまった。
うう、どうしよう……ってか、立たなきゃ。
あゆみの意思はゆらゆらと揺れる。
がたんごとん。
不意に、彼女の右隣が空いた。
停車駅でもなんでもないのに。
え?
思わず顔を上げると、彼女の隣に座っていた青年が、そのおばあちゃんに声をかけていた。
小さいけれど、がたんごとんと揺れる音に負けない、落ち着いた声。
「ここ、どうぞ」
「まあ、ごめんなさいね」
はにかんだ笑みを浮かべて、譲られた席へと座るおばあちゃん。
彼女と入れ替わってあゆみの前に立った青年は、何事もなかったかのように文庫本を読みふける。
や、やられた。
そして気まずい。
いたたまれなさにあゆみは再び顔を伏せ、目を閉じる。
たぶんきっとぜったい、私が立つべきだったんだ。
重かったはずのまぶたは、もう閉じてもまどろみすらできなかった。
それから、あゆみはその青年がいつも自分の乗る車両に乗り合わせていることに気が付いた。
大学生であるあゆみは、月曜から金曜まで1限から授業を取っている。とりたい科目が午前中に集中しているのだから仕方がない。
すごいめんどいけどね。眠いし。
友人たちは大概が午後からのんびり登校してくる。人気のある授業というのがそもそも、昼から始まるものが多いためでもある。あゆみか気になる授業はつまり、まったく人気がないわけなのだが、それはともかく。
あゆみが乗るのは始発駅。その青年はそこから2つ目の駅の、前側の扉から乗り込んでくる。
彼女はついも、車両の真ん中辺りに座っている。
はじっこよりも真ん中が好きだ。あゆみが降りる頃には人もまばらになっているので、降りるために人の波を掻き分けなければならない、なんてこともない。
それに満員電車でも中央付近には割りとスペースがあるのだ。実は。
彼には特に、そのような心情はないようだ。
あゆみの近くにいることもあれば、端っこで立っていることもある。空いていれば座ることもある。
そして、彼はお年寄りや妊婦さん、ケガをしている人にも、ためらいなく席を譲る。絶妙なタイミングで。彼に席を譲られれば、どんなガンコなお年寄りでも座ってしまうのではなかろうか、という具合に。
彼は席を譲る、いわばプロであった。
そして今日もまた、座ってまだ1駅しか過ぎていないというのに乗ってきたお年寄りにためらいなく席を譲っている。
ああ、また。
あゆみは思う。
彼は席を譲るために席に座ってんじゃないのか、と。
いやいや、そうじゃなくって。私も見習わないといけない。
メガネを押し上げて文庫本を読む彼。Tシャツにジャケットを羽織り、パンツはグレーのジーンズ。スニーカーは白。軽そうなトートバックを肩に掛けた彼は会社員にはとても見えない。
だが寝癖のとれていない髪からのぞく顔は落ち着いていて、学生にも見えなかった。
なにしてる人なんだろう。
洋服の販売員とか? いや、それにしては服のセンスが微妙。美容師? なら、あの寝癖はないでしょ。
でも案外、大学生だったりしちゃうのかな? 年下だったりして。
あゆみが降りる1つ前の駅で、いつものように彼は電車を降りていく。
って、なんでこんなに見てんの、私?
これじゃ、まるでストーカー。
名前も知らない赤の他人を、いつも見ているなんて。
「……」
チクリ、と心に針が刺さる。小さな小さな、でも確かな痛み。
そっか。
「名前も、知らないんだ、私」
疲れ果てていた。
レポートが5件も重なるし、弟がまたバカなこと言い出すし(この忙しいのに「着付けを教えろ」とはどーゆうことだ! そんなヒマがあるなら手伝えっつーの! いや、かえって邪魔か)、バイトは代理で出なくちゃいけなくなるし……。
睡眠時間は2時間半しかとっていない。今日の授業ぐらい休めばいいじゃん、と自分でも思うのだが。
今日の授業は「ローマの帝政と侍の日常」。
なんだそりゃ。
どう考えても超展開で行われそうな授業。
だがしかし、「侍」と付くのであれば、授業に出なければ、自分の矜持が許さない。しかもこんなマイナーな授業(教授の趣味・嗜好全開で構成されているとしか思えない)、友人の中で受けているのは自分ひとり。借りられるノートはない。
行かなければ。
超絶眠い身体を引きずって、あゆみはいつもの電車へ乗り込んだ。
い、1時間だけでも、眠らせて……。
座席に座った途端、彼女は地獄に落ちるように深い、深い眠りについていた。
びくり、として目が覚めたのは、抱えていたキャリーケースが落ちたから。それはドサリとあゆみの前に立つ人の靴の上を直撃。
「ッ!? あ、ごめんなさい!」
慌ててヨダレを拭い、それを拾おうと手を伸ばす。
すると、彼女のよりも大きく骨ばった手が先にキャリーケースを拾い上げていた。
キャリーケースを足の上に落とされた彼は、嫌な顔をするどころか少し微笑んで、あゆみにそれを渡す。
「はい、どうぞ」
差し出されるままにキャリーケースを受け取ったあゆみは、反射的に、
「ここ、どうぞ!」
立ち上がって青年に席を譲っていた。
あゆみの前に立っていたのはいつものメガネの青年。彼の顔を見た瞬間、あゆみは立ち上がっていたのだ。
「え?」
驚く青年。
当然だ。
未だ電車は走行中だし、彼には席を譲られるようなケガをしているような様子はない。キャリーケースが足に落ちてきたと言っても、軽く当たった程度。
あと50年も経たねば席を譲ってもらえるようにはならないだろう青年とあゆみは、ゆっくり2秒間ほど、見詰め合っていた。
確固たる決意の視線と、困惑の視線。
だが、しだいに寝ぼけていたあゆみの脳が覚醒してくる。
じわじわと、自分が今、どんな状況下にいるのか――悟り始める。
だんだん熱くなってくる頬。
私……なにやってんのーッ!
丁度その時、車両は駅のホームへと滑り込む。
プシュー、と開かれるドア。
渡りに舟とはこのことだ。
「こ、ここで降りますッ!」
捨て台詞のように叫ぶと、人混みを掻き分けて、あゆみはホームへと降り立つ。
背中で車両のドアが閉まる。
足早に改札へと向かう人波にまぎれて、彼女は「はー」と息を吐いた。
ここはあゆみが降りる駅ではない。
だが、あのまま車内で気まずさに耐え続けるような真似はできなかった。
頬どころか、顔中、身体中が熱をもって、真赤に染まっていく。
ああ。
「穴があったら入りたい……」
それでも時間は止まってくれない。
教室へと滑り込みで駆け込んだあゆみだが、折角眠気をおして受けた授業には身がまったく入らなかった。
授業の終りに「――であるから、帝政ローマが侍の日常に与えた影響は計り知れないものがある」と、もっともらしく教授が言ったことだけしか、覚えていない。
うぅ、こんなことなら今日は寝てれば良かったかもしんない。
そしてその日以来、毎朝乗っていた電車を変えた。1本ズラすどころか、大幅に。
多少早起きすることになったとしても、もう、あの電車には乗れない……ッ!
身もだえするようあゆみの脳裏に時折浮かぶのは彼の姿。
驚いた彼の顔。
結構キレイな人だったなぁ、と思う。線の細い、華奢な。男だけど。
「タイプじゃ、ないんだけどなー」
あゆみは寡黙な侍みたいな人がタイプ。ど真ん中だ。
大の時代小説好きである彼女にとっては、胸をときめかせるのは『素浪人』という言葉。
メガネの彼とは、似ても似つかない。
どっちかと言えば、彼は若いお坊さんみたいな優しげな雰囲気だった。
でもどーして、こう、あの顔がループしてるわけ?
ぐるぐると考え込んでいたせいだろうか。
サークルの飲み会で、あゆみは珍しく酔った。ぐでんぐでんに。
これも全部、あいつのせいだ。
心配そうな仲間に「大丈夫だから」と笑って、彼女は途中退場。まだ陽も暮れてからそんなに時間も経っていないのに。
「ごめん、帰るわ」
「えーッ!?」
「これから盛り上がるんじゃん!」
「ちょっと、酔った」
「あゆみが? まだビールしか飲んでないよ。日本酒じゃん、いつも」
「これ以上飲むと……たぶん、めんどくさいことになると思うんだけど」
「何それー?」
「知りたい?」
「や、遠慮します」
がたんごとん、と電車に揺られ、思う。
これ以上飲んだら、なんだか愚痴ってしまいそうだ
ずるずると座席に深く沈み込む。
脳みそが、あんまり動いていない。と、ゆーか、いつもぐちゃぐちゃ考えることが、動いてない。
だから、だろうか。
いつも表層に誤魔化されて見えなくなっていた心の中が、見えてくる。
――あいたいな。
そうか。
私、逢いたいんだ。
ぐすっ、と鼻をすする。なんだかじわりと涙がこみ上げてきた。
逢いたい。
逢って、話とかしてみたい。せめて、一目でも見たい。
あいたいよう。
目からぼたぼたと涙が落ちる。雫はあゆみのシャツの胸元をまだら模様に染めていく。
夜中に酔っ払った女が1人で、満員電車の中で泣いてるって……なんて情けない。周囲はドン引きだ。自分でもそう思う。
でも止まんない。無理だ。
もう声あげて泣いちゃおっか。うん。それがいいや。
変な方向にあゆみが決意した時、満員の人の隙間から、手が見えた。
「ん?」
男の手。
斜め下へと伸ばされたそれは、
「ん?」
わきわきと、蜘蛛のごとく動いている。
スカートの上を。
「……」
あゆみは視線を上へとスライド。スカートの女性は満員電車の中で必死にその手から逃れようとしている。振り向いた顔が、泣きそうに歪む。
あゆみは思った。
人が(珍しく)乙女な気分に浸ってるっつーのに。
社会のゴミめ。
すらり、と白刃を引き抜くように、彼女は鋭く叫んだ。
「何やっとんじゃあッ! この変態がぁッ!」
一瞬前までぐしぐしと泣いていたあゆみは、バネ仕掛けの人形のように立ち上がった。
むんず、とチカンの腕を掴みあげる。
「な、何をッ?」
「黙れ! 全人類の女の敵が!」
「は?」
「欲求不満なら金払ってプロにやってもらえ! このチカン!」
あゆみの大声に、何事かとポカンとしていた乗客たちはざわめきはじめる。
「え、チカン?」
「わー、あの人だってよ」
「キモッ」
「やだー」
「最悪なんですけど」
がたんごとん、と電車は揺れ、ホームへと滑り込む。
プシュー、と開く扉。
チカンはあゆみの手を振り払い、脱兎の如く転がり降りる。
「逃がすか、ボケぇッ!」
逃げ出したチカンに射殺すような視線を向けたあゆみは、被害者女性の手をがっつり掴んでホームへと駆け出す。
人混みを掻き分け、逃げていくチカン。
「いい度胸だなオイ」
あゆみの声は限り無く低い。
「この私から――逃げられると思うなッ!」
あゆみは投げた。
ホームに据え置かれた自動販売機の横にあるゴミ箱(スチール製)を。
それは中身の空き缶を撒き散らしつつ綺麗な放物線を描く。それは大きなにぶい音をたてて、チカンの背中に命中。
「ッしゃあッ!」
高々と拳を突き上げるあゆみ。
その後ろでプシューと扉が閉まり、走り去る電車。
ようやく騒ぎを聞きつけてやってくる駅員。大丈夫ですか、と倒れたチカンを助けている。
「そいつチカンです!」
指を突きつけると、チカンはしかし、あゆみを指して、
「あの女がゴミ箱を!」
「この子のお尻触ってるの、見てんだからね!」
ぐいッ、と手を引いてきた被害者女性を前に押し出した。
そして、
「……」
「……」
ポカン、とするチカンと駅員。
……ん?
あれ? と思ったあゆみ。繋いだ手の先を、ちゃんと見る。
「あ」
「わ」
そこには、例のメガネの彼がいた。
へ?
固まるあゆみ。
入れ替わりトリック?
「あんた……男のシリ触ったのか?」
まじまじと確認する駅員。チカンに添えた手も若干引き気味。
「オレはちゃんっと、ねぇちゃんのケツ触ったわ!」
……。
「「「「あ」」」」
彼らが見事な自白の台詞を聞いたと気付くには、きっかり1秒を要した。
そして最初に立ち直ったのはチカン。
「て、てめぇさえいなけりゃあ!」
あゆみに向かって乱暴に手を伸ばす。
向けられる悪意。酔った勢いでその悪意に立ち向かおうにも、酒はとっくに醒めている。
身が竦む。
と、思ったのだが、しかしあゆみはキャリーケースを握り締めた。と、いうか振りかぶった。
現代社会を生きる女子が、たかだかちんけな悪意ごときでビビると思うなよ!
迎撃の態勢。
だが、チカンの手があゆみに届くことはなかった。
その間に身を滑らせたのはメガネの青年。
するりと腕をとり、身を返す。背中に男を背負うと、そのまま跳ね上げ、投げ飛ばした。
その間、1秒にも満たない。
あゆみが状況を把握する前に、チカンはホームに叩きつけられていた。
だから、
「大丈……ッ!」
元々チカンがいた所であり、今は心配そうに声をかけてくれたメガネの青年の頭がある場所に、あゆみは思い切り、キャリーケースを振り下ろしていた。
唐竹割りで頭上から、たたっ斬るように。
ゴッ、と鈍い音が響く。
感触としては、角で打撃が入ったような。
「わーッ? ご、ごめんなさいッ!」
「い、いえ、大丈夫です」
痛そうに頭を擦りながら、でも少し笑ってくれる彼。
コトン、とあゆみの心が動く。
今は、ただの華奢な青年ではなく……なんだか、昼間は内職で忙しいんだけど、夜は悪人共をバッタバッタとなぎ払う侍、みたいに見える。
ほんのちょっぴり、ぽーっとなって彼を見ていたあゆみに、
「あ、あのー。ちょっと話、聞きたいんだけど、いいかなぁ?」
躊躇いがちに声をかける駅員。
「チカンのこととか――ゴミ箱のこととか?」
ホームには、見事に散らばる空き缶の数々。
「……あ」
佐野真は毎朝、同じ電車に乗っている。月曜から金曜まで。通勤ではなく、通学の為。メガネの彼は随分と落ち着いてみられるが、これでもまだ学生なのであった。
始まりは今年の春。
座席に座り、黙々と文庫本を読んでいた。本の世界に没頭していると、左肩に軽い衝撃。
隣に座った女性の頭が、彼の肩へと落ちてきたのだ。
その衝撃で目覚めた彼女は「すみません」と小さく謝る。姿勢を正し、また首を落として眠る。
ものの1分もしないうちに、また真の肩に彼女の頭が落ちてくる。
また姿勢を正す彼女。だが、やっぱりまた真の肩へと落ちてくる。
いっそもう、寄り掛かったままでいいのにな。
そう思ったのは、衝撃の度に本の世界から電車内へと引き戻される不快感からでもあっただろう。
だがそれよりも、彼女の頭が肩に乗る度にほのかに香る匂いだとか、ぶつかるその度に謝る几帳面さだとか、彼女の膝に乗せた本が、今読んでいる作家と同じ作家のものだっただとか、そもそも顔が好みであったことに、理由の8割があることに疑いの余地はないのだ。
それから彼は月曜から金曜まで毎朝同じ電車に彼女が乗っているのに、気付いた。
そうと気付くほどに自分が目で彼女を追っているのにも、気付いた。
彼女を見ること。それが日常の重要な位置を占めていることにも、薄々、気付いてしまった。
あれだけユウウツだった月曜の朝が、こんなに待ち遠しいと思うのはなぜなんだ。
それは彼女に逢えるから。世界が確かな色を持つ。
実際、彼女の周りだれ、世界が実にスッキリ見える。ような気がする。
……まずいな。
真は思う。
これじゃまるで、ストーカーじゃないのか?
見ず知らずの、名前すら知らない相手なんだぞ。
ちくり、と走る小さな痛み。
「……名前、知らないんだよな」
だから、そんな相手にいきなり席を譲られたとき、真は内臓が全部飛び出てしまうぐらいに驚いた。
そして、それから彼女の姿を見なくなって――世界から色彩が消えた。
探した。
気が付けば、いつも電車の中やホームを見ていた。
それが癖、習慣になってしまうほどに。
その日はバイトも用事もない日で。
「なにやってんだろ、俺」
そう思いながらもホームのベンチにずっと座って、通り過ぎていく電車の車両の中を見ていた。
もしかしたら、彼女がそこにいるのかも知れない。
だが、さすがに3時間もそうしていると、バカバカしくなってくる。情けなくって涙が出そう。
「帰るか」
やがてやってくる満員電車。
すべりこむように車両の真ん中へ。空いている吊り革を掴む。
ぺしゃんこの気分で息を吐く。視線も下へと下がっていく。
「……ッ!」
そこで真の目に入ったのは、クリアな世界。鮮やかな色彩。
彼が立つその前には、座席に深く埋もれた彼女の姿があった。
なんという運命。なんという僥倖。
さきほどまで、大地にめり込む勢いでへこんでいた彼は、今や天使に抱えられてトコシエの楽園へと登っていく気分。
この奇跡に深く、とても深く感動していた真は、対応が遅れた。
彼女が「チカン!」と叫んだときにも、被害者と間違えて彼の手を引いて電車を降りたときにも、彼は夢見心地のままだったのであった。
結局、駅員室で10分ばかり事情をきかれ、1時間ばかり説教をくらった。
いくらなんでもゴミ箱を投げたりしてはいけません。
「ほんっとーに、すみませんでした」
ようやく解放されたあゆみ。
「今度はちゃんと、チカンの被害者も連れてきてね」
「す、すみませんでしたぁ」
逃げるように駅員室を後にする。
……はぁ。
まさか、この歳になって本気で説教くらうハメになるとは思わなかった。
すごいヘコむ。
気晴らしにお茶でも飲んでから帰ろうかな。終電までまだ時間あるし。
うん、そうしよう。
「あの」
喫茶店に足を向けた刹那、声をかけられ、振り向いたそこにはメガネの彼。
「へ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
え、何でいるの? だって速攻で、最初の10分で解放されてたじゃん!
え、じゃあ、なに? 1時間も待ってたの?
なんで?
「前に、席を譲って下さった方ですよね」
困惑を浮かべていたあゆみの顔は、一瞬で沸騰した。
「え、や、じゃあ、そーゆうことで! 失礼しますッ!」
逃げ出そうとすると、腕を掴まれる。
「待って下さい!」
「やだ、ちょ、だって」
「何で電車、変えたりしたんですか!」
ぴたり、とあゆみは逃げるのをやめた。
「は?」
何の話よ、とあゆみが青年を見ると、今度は彼がみるみるうちに真赤になっていく。
「朝の電車に、いつものに乗ってないので、だから、あの、探していたんです。どうして席を譲ってくれたのか、気になって」
どうしてあんなことをしたのか。
あゆみは逃げ出そうとしていた身体を青年に向き合わせた。
ええと、気まずいな。
「たまには譲られてもいいんじゃないかと思って。いつも、席譲ってるし」
「へ?」
今度は青年が素っ頓狂な声をあげる。
「俺のこと、知ってるんですか?」
「え、ええ。いつも同じ電車で。で、いつも席譲ってて、偉いなぁって」
「偉くなんか、な、ないですよ」
最後どもった。
「あ、あの! 田場さんって言うんですよね。田場あゆみさん」
さっき、駅員室で名前聞かれてたときに、聞いちゃったんだすけど。
「あ、俺は」
「佐野真さん、でしょ?」
「え! なんで知ってるんですか?」
「さっき、駅員室で」
あ、そっか、と照れ笑い。
メガネの彼は、なんだか随分おどおどしている。挙動不審だし、顔も真っ赤だし。
佐野さん、と呼びかけかけてやめてみる。
指輪はしてない。清潔感はあるけれどあまりお洒落に気を使ってる感じはしない。女っ気があったらそもそも髪に寝癖は付かないと思う。
だから、思い切った。
「真さん」
「は、はイッ?」
声、裏返ってるし。
「良かったら、ちょっとお茶に付き合ってくれませんか? お腹減っちゃって」
「え、ええ! こちらこそ!」
とんちんかんな返答にも、あゆみはにっこりと笑う。
「何で電車変えたんです?」
「しつこいなぁ……。気まずかったんですもん、だって」
「そうですか?」
「そうですとも」
「俺は、平気ですよ」
じゃあ、と真は言う。
「明日からはいつもの電車に戻せますね」
「え?」
「こうして、気まずさも解消されたわけだし」
「あ、ええ、まぁ……そう、ですね?」
「そうですよ」
「そう、ですか」
「どこから乗ってるんです?」
「始発駅から。座れますし」
「そっか。俺も明日から、始発から乗ろうかな」
「ま、真さんは、彼女とか……いないんですよねぇ」
「何ですか、その哀れみの眼差しは」
「気のせい気のせい」
「でも、好きな人ならいますよ」
「へぇ」
「め、目の前に」
「ふぅん」
「……」
「……」
「あの」
「何?」
「今の、聞いてましたか?」
「うん」
「いや、聞いてないですよね。絶対聞いてないですよね。……田場さんって、意外とそーゆうところありますよね!」
「?」
「何でもきっちりこなしそうなのに、おそろしく面倒くさがりなところとか」
「ま・こ・と・さん」
「な、何です?」
「名前」
「は?」
「名前で呼んで下さいね」
「た、田場さん?」
「なーまーえー」
「……あ」
「うん」
「あ、あゆみ、さん」
「呼び捨てでも、構いませんよ」
「やっぱり、さっきの聞いてましたね?」
「えー?」
「絶対、聞いてたでしょ!」
「何の話ですかー?」
うふふ、と楽しそうに笑うあゆみ。
してほしいことは自分からしましょう。 了
真はあゆみと同じ大学に通っている学生(年上)だとか、彼女がちゃんと受けそこねた授業のノートも彼が持っていて借りられることができた、とか、高校時代は(これでも)柔道部でした、とか色々と設定があるのですが・・・。
まあ、出せなかった設定はしょうがないですよね。
書きたかったシーンは当然ゴミ箱をぶん投げるところ――と、思いきや、実は「車内で席を譲るタイミングを失ったときの気まずさ」が書きたかったのでした。