第一章
あれは確か小学四年生の時。僕は友達と遊びに行った先で、通り魔事件に巻き込まれた。
後に全国ニュースにもなったその事件は、結果的に死者こそ出なかったものの、目の前で笑みを浮かべ刃物を振り回す男の姿は当時の僕に大きな衝撃を与えた。
逃げ惑う人々の中で一緒にいた友達とはぐれてしまって、一人で逃げ込んだビルとビルの隙間。僕は怖くて動くことができなくなった。
外がどうなっているか分からない。薄暗いビルの影で体操座りをして、ちょっとでも動けば、声を出せば殺されてしまう、僕はそう思い詰めていた。
「――大丈夫⁉」
どれだけの時間そうしていただろう。気が付くと、二、三歳年上に見える男の子が通り側から僕のことを見下ろしていた。
見上げた彼の後ろには日が差していて、まるで後光が差したよう――という表現は、当時の僕はまだ知らなかったのだけど。
光を背負って現れた彼は、まるで社会科見学に行ったときにお寺で見た観音菩薩のようにスラリとした姿をしていて、紺色の和服を着、長細く黒い袋を背負っていた。
「大丈夫? 君、怪我してる?」
彼は僕の目の前にしゃがんで、真剣な目でまっすぐに僕を見つめた。
「だいじょうぶ……」
べしょべしょの顔で泣いている僕に、その人はホッとしたように優しく笑う。そして、「もう大丈夫だよ」と言うと、僕のことをぎゅっと抱きしめてくれた。
ノリの効いた心地よい和服の感触と、自分よりも大きな体に包まれる安心感。不安が一気に溶けて、僕は心がジーンとした。
――ああ、すごく安心できて、幸せだ。
ずっとこうしていてほしいって、その人をぎゅうと抱き返しながらそう思った。
*
「――で、お前の今の性癖があると」
「性癖って言わないでよ」
簡単にまとめてこようとした友人に、僕――名越満月は抗議の声を上げた。
「いやぁだってお前それ、完全にその人に性癖歪められただろ」
面白がるように朝陽が言って、
「……」
望は黙ってお菓子を食べた。
僕と朝陽、そして望は高校で出会った三人組だ。放課後の一年二組の教室。クラスメイトたちが全員帰っても、まだ僕達の話は尽きない。まあ尽きないとは言っても、無口な望は聞き専で、僕と朝陽がひたすら話しているだけなのだけど。
話が段々と盛り上がっていく中で、お調子者で軟派な朝陽が、戯れに『どんな人と付き合いたいか』って聞いて来た。そこで僕は、小学四年生のときに出会った『通り魔事件のときに僕を安心させてくれた弓道着のお兄さん』の話を披露したのだ。
「何年かしてから気が付いたんだ。あの時、あの人が着てたのは弓道着ってやつで、持ってた袋には弓が入ってたんだって」
僕はあの日からずっと、弓道をする人に憧れを抱いている。
あの凛とした姿勢で的を見据えるように見つめられたら。弓道着で抱きしめられたら。あまりの幸せに、この世の全てがどうでも良くなる気がする。
「ああ、あの矢で胸を射られたい……」
僕はうっとりと言った。
「あぶねえよ」
「……」
朝陽がツッコんで、望は無言でジュースを飲んだ。
「射られたいはオーバーだけどさ……。でも、僕、弓道の衣装を着た人に、真っすぐ見つめてもらって、包み込むようにぎゅっと抱きしめてほしいんだ……」
僕がハァ……と息を吐きながら自分を抱きしめる仕草をすると、
「へー……」
朝陽は引き気味に相槌を打ち、
「うーん、でもなぁ」
と頬を掻いた。
「お前、小柄とはいえ男だし、もう小学生じゃないんだから。包み込んでもらおうと思ったらかなりデカい人じゃないと無理じゃね? その上、弓道やってる女の子の中からって……見つけるの難しくないか?」
「うーん……やっぱりそうなのかな」
僕は首を傾げる。
僕の身長は百六十センチ前半。確かに、僕を包み込んでくれるような、明らかに僕よりも背が高い女の子はなかなかいない。同じくらいの背の子ならたくさんいるんだけど。
「実際、弓道部に気になる子いるの?」
「ううん。弓道部に知り合いもいないし……」
「なんだ。つまり“弓道着を着た人”に憧れてるだけで、具体的に誰かいるわけじゃないんだ」
「うん、まあそう」
実は高校に入るとき、今の学校に弓道部があることはチェックしていた。それが理由で今の学校を選んだわけでは無いけれど、でも「弓道着の人たちが日常的に見られる!」と、正直なところちょっと期待していた。
しかし実際に進学してみると、周りに弓道部の人はいないし、弓道場は完全に周囲から隔絶されていて、弓道着姿を見られることは稀。僕はがっかりしていた。
でも、それで良かったのかもしれない。僕はきっと弓道着の人を見るだけでトキめいて、ドキドキが止まらなくなってしまうから。普段からそこら中に弓道着の人がいたら、とても体と心が保たないし、興奮した僕は不審者扱いになってしまう危険性があった。
「自分で弓道部に入るのは?」
朝陽の質問に僕は首を振った。
「それは無理。僕、茶道部だもん」
「ああ、そうだっけ」
茶道部の活動は週に三回、火・水・木。サボろうが何しようがバレない緩い部活だが、僕は欠かさず出席している。ちなみに今日は月曜日で、部活は無い。
「それに、僕はあくまで見てるのがいいんだ。自分が弓道着着たいとは思わない。着てる人が、好き!」
僕が力強く言うと、
「あ、さいですか」
朝陽は気が無さそうに相槌を打った。
「でもまあ、本気で言ってんなら、まずは弓道部に知り合い作るとこからじゃね?」
「うーん、そうなんだけど……。でもさ、『あなたが弓道部だから仲良くなりたいです!』って、すんごい下心あって変じゃない? それにさ……僕の最終目標抱きしめてもらうことだし……」
「まあ普通に変質者だな。手ぇ出したら良くて親呼び、悪くて退学だわ」
「だよね……」
僕はしょんぼりと俯く。
例えば、僕は茶道部の活動で着物を着ることがあるんだけど。これがもし男女逆だったとして、僕みたいなのが『着物大好きなんです!』なんて鼻息荒く抱きついてきたら、恐らくめちゃくちゃ気持ち悪い。
「憧れは憧れで、綺麗なまま置いといた方がいいのかな……」
呟く僕を見て、朝陽はポンと膝を叩いた。
「よし、もうその男のことは忘れろ! そんで弓道着は彼女にコスプレかなんかで着てもらえ。俺がお前のフェチを理解した上で、ドン引きしないで愛してくれるいい子見つけてきてやるから――」
「俺の兄ちゃんは?」
それまで黙っていた望がぽつりと言った。
「え?」
僕と朝陽はぽかんと望を見る。
「兄ちゃん、弓道部だけど」
「えっ、えっ、そうなの⁉」
ガタリと椅子を鳴らして向き直った僕に
「うん」
望は無感情に頷く。
「おい、望、お前そんなのさっさと言えよ!」
朝陽はツッコんで、ニヤニヤとからかうような、何か企んだ顔をした。
「いいじゃん、望。お前、満月に兄ちゃん貸してやったら? 一回抱きしめてもらったら、満月も満足して次行けるだろ」
朝陽はふざけて笑う。望は真顔のままで答えた。
「いいけど」
「へ?」
「多分頼んだらやってくれると思うよ」
「ええっ」
朝陽は目を丸くして、それから執り成すように言った。
「ま、まあでも満月の方がダメか。やっぱり女の子がいいだろ? 兄貴にさ、弓道部の一番背ぇ高い女の子紹介してもらったらいいじゃん」
「兄ちゃんでかいよ。百八十二センチあるし」
「兄ちゃんがでかくてもしゃーないだろ」
「――いい」
「え?」
「……」
朝陽はぽかんと、望は相変わらずの無表情で僕を見た。
「男の人でいい。いや、いい。むしろいい。めっちゃいい」
「満月……?」
「百八十二センチなんて、そんなのもう、絶対、包みこまれるような感じじゃん!」
弓道着の先輩に抱きしめられる感覚を想像して、思わずとハァッと息を吐いた。
望は瞬きをして言う。
「ただ、兄ちゃん結構細いから……。そんな“包容力!”って感じはしないかもしれない。でもまあ、一応運動部だし、弓道で鍛えた筋肉はあるけど……」
「いい、めっちゃいい。弓道で鍛えられた靭やかな筋肉、いい!」
僕は鼻息を荒くして、グッと拳を握った。
「ええー……」
朝陽はちょっとばかり引いているけど、僕は今それどころでは無い。
これまでずっと夢見て来た、願っても無いチャンスだ。
――僕、弓道男子に抱きしめてほしい!
「でもさ、やっぱりお兄さんにご迷惑だよね……」
一時の興奮が過ぎて。冷静になってしゅんとした僕に、望は相変わらずの無表情で言った。
「いや、行けると思うよ。兄ちゃんだし」
「どういう意味?」
「兄ちゃん、押しに弱いから」
「ふうん?」
望の家のリビング。僕は望のお兄さんに会うために望の家にお邪魔していた。朝陽は「俺はちょっと止めとくわ……」と言って帰ってしまったので、僕だけで。
望の家、二階堂家は母と兄の三人家族。シングルマザーのお母さんはバリバリ働いていて、夕ご飯はお兄さんと二人で食べることが多いんだって。
――弓道部のお兄さん。名前は朔、二階堂朔。
――弓道部の部長で、今日も部活でもうすぐ帰って来る。
僕は緊張でドキドキしながら、正座して太ももの上で拳を握っていた。望はこんな時でも無口で、僕のことは放ったままソファでスマートフォンを見ている。
「……」
静寂の中でしばらく待っていると、玄関から物音がした。僕の心臓がドキリと跳ねた。望は「帰ってきた」と言うと、スマートフォンを置いてリビングを出ていった。
「兄ちゃん、おかえり」
「うわ、何、出迎えとか怖い」
「ただいまくらい言えよ」
「何? 金? にーちゃんも無いよ」
「言ってねーよ」
なんだか兄弟らしい会話が聞こえてくる。望は僕達といるときより喋るようだ。
僕には兄弟がいなくて、こんな風にざっくばらんに話せる相手もいない。望のことがちょっぴり羨ましい気持ちがした。
――お兄さん、声、綺麗だな。
僕は太ももの上の拳を握りしめる。ドキドキが大きくなって、緊張が高まった。
「夕飯は? なんか作ってる? 米炊いた?」
「何もしてない」
「なんでだよ。先帰ってるんだったらちょっとくらい――わっ!」
リビングに入ってきた制服姿の男の人が、僕を見て目を丸くした。
ネクタイの色が三年生だ。背が高くて、スラリと姿勢が良く、細身だけど筋肉のありそうな体格で、どことなく望に似ている気がする。間違いなく、望のお兄さん――朔先輩だ。
「なんだ、お友達来てたの。――言えよ、お前」
「言う前に兄ちゃんどんどん喋るんだもん」
「ごめんね、こんばんは。望の兄貴です」
「あ、はい……」
「兄ちゃん、こいつ、満月。クラスメイト」
「ああ、そうなんだ。はじめましてだよね? 中学校は別?」
「は、はい……」
僕は余計なことが何も言えなくて、狩りてきた猫のように大人しくしていた。
だってそれだけ、朔先輩が素敵だったから。変なことをいって嫌われたくない。
――この人が弓道着を着たら……
僕は制服姿の朔先輩を見つめる。
制服も十分にカッコいい。だけど、弓道着姿になって弓矢を構えた朔先輩を想像すると、あまりの神々しさに眩暈がするようだ。同じ弓道部の人たちは、本物を見てよく倒れずに耐えられていると思う。
じっと自分を見つめている僕を見て、朔先輩はハテナを浮かべて小さく首を傾げた。
――変な子だと思われてる!
僕は恥ずかしくなって思わず俯く。
朔先輩は近くのソファに鞄を置くと、キッチンの方に歩いて行った。
「えーっと、満月君は今日は夕ご飯を食べていくのかな?」
対面式キッチンのシンクで、手を洗いながら朔先輩が言った。
「あ、いえ、帰ります」
僕は顔を上げ、慌てて言う。
――言わなきゃ、早く。自分の口でちゃんと伝えなきゃ。
――こんな夕飯時に、帰らないで自分の家のリビングで正座してる弟の友達。先輩から見たらめちゃめちゃ変な子だ。
「そうなの? ――大丈夫? 俺は別にいいけど」
朔先輩は首を傾げて、後半は僕の隣に立っている望の顔を見た。
「うん、メシはいいんだけど。満月、兄貴に用事あって待ってたんだよ」
「俺に?」
朔先輩は目を丸くする。
「え、なんだろう、ちょっと待ってね」
そう言って、朔先輩はうがいするための水を口に含んだ。
その先輩に向かって、望はいつも通りの感情の無い声で言った。
「満月、兄ちゃんに抱いてほしいんだって」
――ごほんっ!
朔先輩は思いっ切り噎せて、水をシンクに吹き出した。
「待って、待って望、言い方!」
僕は真っ赤になって慌てる。
「なに……何言ってんのお前……」
朔先輩は咳き込んで、げんなりした顔で弟を見た。
「あー、そっか。え、でも他になんて言うの?」
「ええと……だから……あのう……」
朔先輩は戸惑った顔で僕を見ている。弟よりは僕の方が、まともな説明をしそうだと思ったのかもしれない。
「あの、僕、弓道してる人に憧れがあって……」
「うん……」
「弓道着を着た姿が大好きで……」
「……うん」
「その姿で! 抱きしめられたいんです!」
最後は勢いで言った。朔先輩はしばしぽかんとして
「えーっと、つまり僕が、弓道着を着て、君のこと抱きしめたらいいの?」
僕は恥ずかしくて、こくりと頷いたまま俯いた。改めて考えるととても恥ずかしいお願いだ。とても朔先輩の顔を見られない。
「まあタダでとは言わねーよ。ちゃんと礼はする」
頭上から望の声がした。
「お前の礼なんてろくなもんじゃないだろ」
「満月が」
何も聞いていなかった僕は、望が何を言い出すのか分からなくて俯いたまま戸惑っていた。
――いや、勿論お礼はして当然だ。なんだってするし、いくらだって払います! 勿論! 貯金の範囲で!
僕は心の中で力強く言って、望が何を言うのか待った。
「兄貴、最近スランプじゃん?」
「は? ああ……まあ……」
朔先輩が少し動揺したような声を出した。
「満月ね、茶道部なんだよ。満月に茶でも点ててもらって、茶道の心で精神落ち着けたらなんか解決に近付くんじゃないか?」
「茶道……」
朔先輩は呟いて
「いや、そんなご迷惑でしょ。部外者が行ったら」
僕はバッと顔を上げる。
「いえ、茶道は部員以外も来ていいんです! ご予約があれば、歓迎です!」
「あ、そうなんだ……」
「というわけで兄ちゃん、茶立ててもらうのと引き換えに、弓道着で満月を抱いてやってくれ。こう一発! ぎゅっと!」
「ええー……」
朔先輩は明らかに引いた顔をしている。
それを見て、僕は居た堪れない気持ちになってしょんぼりした。
「あの、すみません。変なこと言って。やっぱりいいです。ごめんなさい」
朔先輩は困った笑顔を浮かべる。
「こっちこそごめんね。でも、うーん、やっぱりちょっと抵抗はあるかな……」
「やっぱり気持ち悪いですよね……」
「いやいや、気持ち悪いとは思ってないよ! ただ……、なんかあんまり良くない感じがするというか……」
朔先輩は戸惑った声で否定したけれど、それは精一杯の優しさだろうと僕は思った。
その優しさだけで、十分だ。
「ありがとうございます。――あの、もしよかったら一回、茶道部に来てください。お茶、御馳走します」
「え、そんな」
「変なこと言ったお詫びです。お役に立てるか分からないですけど、来てくださったら嬉しいです」
僕はそう言って、精一杯笑顔を作った。




