幕間 セリス・ヴァレニア ②
王都近郊、王国軍下士官養成所。中央第六訓練大隊。
冬の朝は冷えた。
吐く息が白い。
セリス・ヴァレニアは、誰より早く起きる癖があった。
眠りが浅い。
物音一つで目が覚める。
北方の辺境伯家で身についた習慣だった。
起きて、制服を整える。
乱れを確認する。
鏡を見る。
黒髪。
傷のない顔。
辺境伯が折檻の時に絶対に傷つけなかった場所だ。
『顔に傷をつけるな。売り物にならん』
思い出して、セリスは鏡から目を逸らした。
——
軍には、色々な人間がいた。
没落貴族の末子。
農村の次男坊。
口減らしで送られた娘。
盗みをして矯正送りになった少年。
そして、どこにも居場所を持てなかった者たち。
セリス・ヴァルネアも、その一人だった。
黒髪の少女。
中央貴族の妾腹。
その噂は入隊初日には広まっていた。
「妾の子だってよ」
「中央貴族の落とし胤か」
「だから教官が妙に気を使ってるのか」
セリスは孤独だった。
——
ある日の昼。
訓練帰りの倉庫裏で、男の訓練兵の一派がセリスの肩を押した。
「おい、妾娘」
セリスは黙って立っていた。
「無視してんじゃねぇよ」
胸倉を掴まれる。
その瞬間。
「おい」
赤茶の髪の女だった。
背が高い。
腕も強い。
そして口が悪い。
「女一人囲んで何やってんだお前ら」
エマ・クロフト。
エマは王都近郊の教会孤児院出身だった。
食事前には必ず祈る。
朝も夜も聖句を唱える。
不幸があれば十字を切る。
だが性格は荒っぽかった。
「三人で女一人囲って何してんだよ」
「エマ、関係ないだろ」
「あるね」
エマは男の一人を睨みつけた。
「弱ぇ奴いじめる奴、私嫌いなんだよ」
「弱い奴が悪いんだろ」
「神様はな、弱い奴を見捨てるためにいるんじゃねえんだよ、散りな」
男たちは唾を吐き捨て踵を返した。
エマは粗暴で、うるさくて、真っ直ぐだった。
セリスには理解できない人間だった。
だが嫌いではなかった。
エマはセリスの隣に座り、平然と言った。
「お前、弱そうだから放っとけなかった」
セリスは少しだけ笑った。
本当に、少しだけ。
——
ある夜。
セリスが一人で装備を磨いていると、エマが隣へ座った。
「お前さ」
「……何」
「なんでそんな必死なんだ?」
「貴女は?」
「私は憲兵になる」
夢を見るような顔ではなかった。
本気の顔だった。
「王都の憲兵だ。綺麗な制服着て、でかい通り歩く」
「憲兵、ですか」
「悪党ぶん殴って、貧民街のガキども助けるんだよ」
エマは首に下げた十字架を握った。
「孤児院、冬になると死人出るからな」
乱暴な言葉だった。
「盗まれた炭が戻れば、一人ぐらい助かる。腐った役人が減れば、食えるガキが増える」
でも優しい言葉だった。
「で、お前は?」
セリスはしばらく黙り、口を開いた。
「……生き残りたいだけ」
小さく答えた。
エマは少しだけ真顔になった。
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
——
訓練は厳しかった。
槍術。
剣術。
行軍。
築城。
野営。
女だからといって容赦はない。
脱落者は多かった。
泣いて辞める者もいた。
壊れる者もいた。
エマは夢を必ず叶えると残った。
セリスも残っていた。
セリスにとってエマという存在が大きかった。
エマは踏み込みすぎない。
だが放ってもおかない。
その距離感が、セリスには心地よかった。
その時、セリスは孤独ではなかった。
——
一年後。
配属先が決まった。
訓練兵たちはざわついていた。
そんな喧噪の中、セリスは自分の紙を見た。
【中央軍衛兵予備隊】
中央。
王都勤務。
悪くない配属だった。
妾腹でも、中央へ行く。
それだけ自分には価値があるということだった。
一方、エマは黙っていた。
「どうしたんですか」
セリスが聞く。
エマは乱暴に紙を握り潰した。
【北方守備軍第四軽輜重隊】
「……北方だってよ」
吐き捨てるように言った。
「成績、そんな変わんなかっただろ」
セリスは答えられなかった。
エマはしばらく黙っていた。
やがて低い声で言った。
「なんでだろうな」
「……」
「私はずっと真面目にやってきた」
エマは笑った。
だがその顔は笑っていなかった。
「弱い奴助けて、訓練して、神様信じて」
声が震えていた。
「なのに、なんでお前は中央で、私は北方なんだ」
セリスの胸がざわついた。
次の言葉を、予感していた。
「やっぱ妾の子だからか?」
沈黙。
言った瞬間、エマ自身の顔色が変わった。
「あ……」
セリスは何も言わなかった。
ただ静かに背を向ける。
「セリス、待っ——」
呼び止める声を無視して歩く。
後ろで、膝をつく音が聞こえた。
「神よ……」
エマの声が震えていた。
「違うんです……今のは……私は……」
嗚咽混じりの懺悔。
「傷つけるつもりじゃ……」
セリスは振り返らなかった。
呼び止める声を無視して歩く。
兵舎の扉を開ける。
振り返らなかった。
セリスは立ち止まらなかった。
——
そのまま教官室へ向かった。
机に積まれた本に肘を立て、中年教官が書類を見ていた。
近づいてきたセリスに一瞥もくれず書類を眺めていた。
「なんだ」
「北方へ行かせてください」
教官が顔を上げた。
「……は?」
「中央配属を辞退し北方へ行きます。中央配属には別の成績優秀者を充ててください。」
「何を言ってる」
教官は眉をしかめた。
「配属は簡単に変えられん」
「お願いします」
「理由は」
セリスは少し黙った。
「……ありません」
教官はため息を吐いた。
「あるんだろうが、言えんのだろうな」
沈黙。
「無理だ」
教官は首を振った。
「お前の配属には上が絡んでる。中央軍送りは最初から決まっていた話だ」
「……」
「今さら変えられん」
セリスは黙って礼をした。
そして部屋を出た。
——
数日後。
再び呼び出された。
教官室に入ると、中年教官が疲れた顔で書類を置いた。
「……変更だ」
セリスは目を瞬かせた。
「セリス・ヴァレニア、北方守備軍ラーゴス警邏隊へ」
「なぜ」
教官は苦々しく笑った。
「お前を中央に置く価値がなくなった」
セリスは黙っていた。
「お前を預けていた辺境伯家が潰れた」
低い声だった。
「飢饉と徴税で領民が逃げた。借金も膨れた。中央の支援も打ち切りだ」
あの血色の悪い顔を思い出した。
いつも他人を見下していた男。
だが最後には、中央に見捨てられた。
「利用価値を失った貴族の娘から生まれた妾腹に、中央に置く価値はない」
教官は静かに言った。
「だから北方送りだ」
使い潰すために。
その言葉を、セリスは口にしなかった。
もう分かっていた。
誰も守ってくれない。
神も。
人も。
愛も。
——
配属前夜。
兵舎裏で荷物をまとめていると、エマが来た。
しばらく無言だった。
「……行くのか」
「ええ」
「私のせいだよな」
セリスは答えなかった。
エマは俯いた。
「ごめん」
首から下げた十字架を握り締めている。
「最低だった。あんなこと言うつもりじゃなかった」
セリスは荷物袋を閉じた。
「別に」
「別によくねぇよ」
エマの声が掠れる。
「お前、ずっと耐えてたのに」
沈黙。
「……セリス」
呼びかける声。
セリスはゆっくり目を閉じた。
リュネを思い出した。
辺境伯を思い出した。
中央貴族の手紙を思い出した。
期待して、失って。
信じて、切られて。
そうやって生きてきた。
だから。
「もう何も信じない」
エマの顔が止まる。
「神も」
「人も」
「愛も」
沈黙。
そしてセリスは背を向けた。
北方行きの馬車が待っている。
セリスは孤独だった。




