社会人編4
走り出す前はメッセージを送ろうと思っていた。
手紙なんて時間のかかる方法じゃなく、いまはSNSで繋がっているから。
けれど、想いが先走って考えるより先に指が通話を選んでいた。
『――はい、光山先輩? 珍し』
「今どこ?!」
『あ? え?』
「お前、今どこにいる!?」
『えっと……自宅、ですけど』
突然の電話に対し、驚きながらも答える要にスマホを耳に当てたまま、自然と体がそちらへと向いて、走り出す。
「今からそっち行っていい?」
『え? あの……写真部のって今日だったんじゃ……?』
「うん、でももういいから。行っていい?」
『は、はい……えっと、もしかして蝶子ちゃんと一緒に』
「違うっ!」
いつの間にか体は勝手に走り出していた。
息もあがり始めて、きっと乱れた呼吸が聞こえてくるから不審に思っているだろう。
それでも耳心地のいい彼女の声に、七季の気持ちを理解してくれないもどかしさに口調がどんどん強くなる。
「僕がっ! 君にっ!」
『……?』
「……要に会いたいんだっ!」
『っ!?』
初めて七季が彼女の名前を呼んだ事に、電話口の相手が言葉を失った。荒くなった呼吸が、通話越しにも伝わってしまう。
それでも数秒後に返ってきた答えは小さく羞恥を含んだ「はい」だった。
通話を切って走った七季の手にはまだスマホが握られていた。それを片付ける動作すら惜しい。
思うほど速く走れていないことなんて、今はどうでもいい。
考えて結論付けることを理想としてきた七季の人生の中で、これほど思考より先に動く衝動的な感情があるなんて知らなかった。
今はただ。
もどかしくて。
愛おしくて。
会いたい。
そうして走り続けてようやく要が一人暮らしをするマンションまで来たが。
呼吸が整わない。
そう言えば勉強ばかりしてきて、自分が運動神経が皆無だったこと思い出す。
要が住んでいるのは、オートロックマンションで部屋番号は知っているが、部屋前まで行った事はない。
当然、中に入った事もない事に気が付いて、それでも気づけば無様な姿のまま、彼女の部屋番号を選んでインターホンを鳴らす。
通話ボタンが押されて『どうぞ』と短い許可の言葉と同時に、ガチャリと開錠の音が聞こえた。
「……先輩?」
正直、開錠されて部屋のドア前まで来た間の記憶がない。
未だに肩で息をして、両膝に手を付いている七季の姿に要は動揺を隠せない。
「ちょっ……げほっ……まっ……おぉぇっ……ひさ、びさにっ……走っ……うぉぇっ……」
「え、ちょっ大丈夫ですか?! とりあえず入ってください! お水? は、吐きます?」
「み……水」
無様ったらありゃしない。
色々と余裕がないまま部屋に上がらせてもらい、水を貰って呼吸を整える。
ラグの上にへたり込むように座っていると、要が甲斐甲斐しく「大丈夫ですか?」「何か持ってきましょうか?」と言ってくれるが、首を小さく横に振るだけで疲労感が半端ない。
やっと周囲を見る余裕ができたところで、目の前の要が本当に心配そうに顔を覗き込んでいるのが視界に入って、七季は自嘲した。
「悪い、僕、今めっちゃカッコ悪いや」
色々言いたい事もあったのに、考えていたはずなのに、そんな無様な自分を見せても、笑う事なく心配してくれる要があまりにも愛しすぎて。
「っ! せんぱっ」
気づけば彼女を抱き寄せた。
首の後ろに手を回して、逃げられないよう、でも苦しめないよう。
自分が汗臭いとかそういうことも考えられないまま、ただ純粋に。
「ごめん、駄目だった」
要の首筋に顔を埋め、今までで一番近くて遠い彼女へ懺悔する。
「君が、誰かのモノになるかもしれない、って思ったら……耐えられなかった」
抱き締められる要がビクリと体を小さく揺らす。
それは一瞬の揺らぎだけれど、黙っていたことを七季に知られたとわかったのだろう。
「ずっとさ……僕は君と鬼ごっこしてるみたいだった」
追い回された高校時代。
今は自分が追いかけているつもりだった。
追いかけているつもりで、いつも一歩が届かなくて。
「でも違った……僕が、君から逃げてた」
要が腕の中でふるりと震えて。腕の力を少しだけ緩めると、要はゆるゆると少しだけ体を起こして、けれど離れず七季の胸元に手を寄せて。
「捕まえに来たんじゃない――捕まえてほしくてここまで来た」
白い肌が紅潮する。
瞳が、まっすぐに向けられたそれが潤みを帯びて。
ああ、やっぱり。
「好きだよ要」
その言葉と同時に、要の顔がクシャリと歪んだ。
今まで見せたことない、泣き出しそうな、けれど嬉しそうな不器用な笑い方。
無表情だった彼女も、こんな表情をするんだと思うと余計に愛おしさがこみあげてくる。
「せん、ぱい……」
「ん?」
震える甘い声に答えると、要の指先が視界の中でゆっくりと動いて。
「触れても……いい、ですか?」
そう言って彷徨っていた要の指が、許可を得る前に、ゆっくりと七季の頬を撫で、唇を優しくなぞって。
「ふふっ……先輩、捕まえました」
そう、蕩けるように笑ったから。
唇に触れた手を握りしめ、ゆっくりと引き寄せて。
自然と二人で目を閉じた。




